虚空の辰刻(とき)  第187回

大福りす
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第187回



「シユラ―!」

水干に似た姿のリツソが紫揺に駆け寄ってくる。 紫揺が椅子から下り膝を折ってリツソを迎える。 紫揺に突進するリツソ。 思わず紫揺が後ろに倒れかけたのを領主が支える。

「シユラ―、シユラ―!」

涙と鼻水を垂らして紫揺にしがみ付いてくる。

「これリツソ、戻っていなさい。 誰かリツソを―――」

四方が開け放たれたままの襖に向かって言いかけたが、それを遮るように次の声が聞こえた。
リツソが現れたことにも驚き、母上以外の者にこんな風に甘えるリツソを見たのは初めてだったシキが人影に気付いたのだ。

「あら、マツリ」

先ほどからことごとく最後まで喋らせてもらえない四方が襖の方を見た。

「申し訳ありません。 我がリツソにつかまりました」

大股で入ってきたマツリ。

「シユラの声がしたと駄々をこねられまして」

この部屋とリツソの部屋はかなり離れている。 それなのにどうして紫揺の声が聞こえたのか不思議に思うが、それが恋する者の力なのだろうかと思いながら、訴え続けながら後をついてくるリツソを振り払いきれずにここまで来てしまった。

言い終わるとチラリとリツソを抱きかかえている紫揺を見た。 見下すように。

マツリの服装は、一センチ程の幅に鞣した皮の紐を黒に染め、丸襟のベストのような形に編んであり、その下には横にスリットの入った膝丈より少し上の黒い皮で出来た上衣、下は上衣と同じく皮の筒ズボンである。 それは紫揺が北の領土で見たマツリの姿と同じだ。
さっきシキがマツリは北の領土に様子を見に行っていると言っていた。 だからたった今、北の領土から帰ってきたところだというのが分かる。

「シユラ―、シユラー、シユラ―!」

「リツソ! 静かにしろ!」

「ヒッ!」

リツソが声を上げ、そのリツソの頭を撫でてやりながらマツリを睨み返す紫揺。
真横でそれを見た此之葉の顔色がみるみる青くなっていくのが分かる。

「紫さま、お願いでございます」

椅子から下り、紫揺の隣に膝をつくと小声で言った。
顔色の悪い此之葉に言われてしまえば仕方がない。

「分かってます・・・」

「東の領主、お騒がせして申し訳ありありません」

紫揺に落とした視線と全く違う目でマツリが東の領主に詫びを入れる。

「いえ、何ということは御座いません。 丁度終わりましたところですので」

マツリに返事をしながらも、いつ紫揺が怒りだすか気もそぞろだ。

「“古の力を持つ者” と、領主の子息」

此之葉のことは祭の時に紹介を受けて知っている。 東の領土をまわっていないマツリは辺境に居る秋我を初めて見るが、先に四方から聞いていたこともあるし、見た目に東の領主とよく似ている。
二人が立ちかけたのを見て手を軽く上げそれを制止する。

「此之葉と秋我。 分かっています」

マツリにとってそれが挨拶である。
二人が座ったまま頭を下げる。

「どうだった?」

やっと最後まで言えた四方だが、そのセンテンスは短い。

「良さそうではありませんでした。 洞をすぐに埋めさそうと思いましたが、まだ向こうに幾人かいるそうなので、それは叶いませんでした。 昨日見えた疲れはその二ホンから帰ってきたところの様で、その疲れだろうと言っておりました。 洞は北と東の領土の境目にありましたので、あのお歳であの距離の移動は身体にきたかと。 今日の顔色の悪さは更に疲れが出てきたのでしょう」

マツリに洞のことを言われ、ましてや “ニホン” とも言われ、ショウワは観念したようだった。

今のマツリの説明でショウワが日本に居たことが分かった。 紫揺の言った “唱和” は “ショウワ” に間違いないだろう。
マツリが暗に言ったことに四方が頷いてみせた。

「本領に来ることは話したのか?」

「話しておりません。 体調が良ければ用があるので、動かぬようにと言っておき、一応・・・」 狼たちに見張らせている、と目で言った。

「そうか」

そう言うと東の領主に目を移した。

「今聞いた通り。 明日と決められんようだが、よいか? 無理をさせて元も子もなくなるのを避けるのが一番だと思うが」

東の領主が返事をしかけたときに下から声が聞こえてきた。

「シユラ―、どこに行ってたんだ? どうして―――」

「黙れと言っておるだろう!」

「ひっ!」

「紫さま、紫さま、紫さま・・・」

マツリの一言に念仏を唱えるように此之葉が下を向いて何度も紫揺の名を言い、怒りを収めてもらえるよう頼み込む。
何も知らない秋我は此之葉をどうしたことか? という目で見ている。

「あかってまふ」

“分かってます” 完全に歯を食いしばって言っている。 リツソの頭を撫でてやっている手に、抱きしめてやっている腕に我慢の力がこもる。

「マツリ」

大声を出すマツリをシキがたしなめる。

「領主、失礼した」

「いいえ」

お気になさらずという風に首を振ると続けて言う。

「四方様の仰る通りかと。 ですが、いつになるか分からぬ状態で三人も世話になることになりますが」

紫揺のことは此之葉に任せて、身体だけではなく精神も四方に向ける。

「それは気にせずとも―――」

「シ・・・シユラ・・ぐるじい・・・」

必要以上の力で抱きしめられているリツソ。

「あ、ごめ―――」

腕の力を緩めた紫揺が “ん” まで言えなかった。

「リツソ! 何度言えばわかる!」

「ひっ!」

カッチーン。 と、どこかで音が鳴ったのを聞いたのは紫揺だけだろうか。 紫揺が立ち上がった。

「紫さま!!」

此之葉が止めるが、紫揺はもう止まらない。 此之葉の声に領主が振り返る。

「リツソ君を怒るのはお門違い。 今のは私が悪かったの。 謝る」

私、怒るんじゃない、と頭の中の暴れっこ司令塔に言い聞かせる。

「声を出したのはリツソだ」

「だから、そうさせたのは私。 だから謝るって言ってるでしょ」

「お前に謝られる筋合いなどない」

「は? それこそリツソ君が怒られる筋合いなんてないわよ」

「謝ると言っておいて大きな態度だな」

「話の筋を変えようっていうの? 自分の間違いを認めないってこと? 誤魔化すってこと?」

「誤魔化す!? そんなことがあるわけないだろうが! 黙れというのに声を出したのはリツソだ! お前には関係のないことだ!」

「だから! 声を出させたのは私だって言ってるの! 最初に謝ったのを聞かなかったの!?」

「だから謝ろうとなんだろうと、お前は関係ないと言ってるんだ!」

「どうしてそんなにリツソ君を虐めたいわけ!? 言いがかりもいいとこだわ!」

「虐める? 言いがかり? そんなことをするわけがないだろう!」

「完全にしてる。 自分の言ってることが分かってない。 リツソ君が傷ついているのが分かってない。 あの時にも言ったけど、アナタ、リツソ君の兄上でしょ? どうしてリツソ君の気持ちを分かってあげないの!?」

「俺はマツリと言ったはずだ」

“アナタ” などと呼ばれるいわれはない。

「こっちだって言ったわよね! 紫揺だって! さっきから何回も “お前” 呼ばわりされるいわれはないわよ!」

「シ、シユラ?」

我が兄上にここまで言う紫揺を見上げて名を呼んだ。

「リツソ君、行こ。 気分が悪い」

「気分が悪いとはどういうことだ!」

「アナタの顔を見てると気分が悪いってこと!」

「勝手にあちらこちらとフラフラしておって、何を言うか!」

「言い直すっ。 マツリの顔!!」

「お前・・・!」

「紫揺だって言ってるでしょうがっ!」

先ほど紫揺のことでマツリが荒れた口調になっていたのを聞いていたし、その前には紫揺が “あのマツリ” と言っていたのも聞いていた四方。 別々にではあるが、二人の様子を見たのは初めてではないので驚かないにしろ、紫揺が本領に対して敬う態度をみせないことに領主に物申したいが、マツリの対ひとに対しての物言い、それも低レベルの。 それも諍めなければならないところだろう。 だが今はあまりにレベルが低すぎる舌戦に情けないばかりで、四方も領主と同じように頭を抱えている。

そしてもう止められないと悟った此之葉は、その場に座り込み眉尻を下げて二人の様子を力のない目で見ている。 秋我と部屋の隅に控えている者たちは呆気にとられ、口が閉まらない状態だ。

そんな中で、くすくすと笑っていた声。 もう止められない。 コロコロと笑い出した。 最初は大きく目を開けて驚いていたシキだ。

「姉上」 「シキ様」 二人の声が重なり、互いの声が許せないとまた睨み合う。

「落ち着きなさい」

「ですが!」 「でも!」 今度は火花が見えそうなほどに睨みあう。

「仲がいいのね」

「そのような―――!」 「そんなこと―――!」 噛みつかんばかりに睨み合う。

「あるわけが御座いません」

マツリでもなく紫揺でもない。 下から聞こえてきた声。

「シユラは我とだけ仲が良いのです」

「あら、リツソの一人占めなの? マツリにもわたくしにも仲良くさせてちょうだいな」

「我には要りません!」

シキの言いようにマツリが言う。

「なに、その対物質的な言い方! こっちだって願い下げだわ!」

「ああ、ようやく互いの意見が合ったということか。 俺はお前と話す気などないのだからな」

「こっちだってそうよ。 それに今度お前って言ったら、こっちもアンタって言うからね。 その足りない頭でよく覚えておきなさいよ」

「なんだと! 足りない頭だと!!」

「マツリ、いい加減にしろ。 領主の前でいつまで恥をさらしているつもりだ」

マツリが口をひん曲げて紫揺をひと睨みしてから「申し訳ありません」 と言う。
それを見た紫揺がマツリに聞こえるようにわざと「ぷっ」 と言って嘲る目を送る。 マツリが睨み返す。

「紫さまも落ち着かれますよう。 マツリ様にこれ以上のご無礼はお控えください」

いったん口を尖らせた紫揺が「分かっています。 言い過ぎました」 と言う。
今度はマツリが鼻から大きく息を出し “ふん” と鳴らすと揶揄する目線を紫揺に送る。 紫揺が睨み返す。

「シキ、このような状態だ。 互いに顔を合わせなくともだ。 あまり逆撫でせんでくれ」

「あら、正直に申しましたのに」

「このようなことで少なくとも明日まで、悪ければそれ以上となりますがご迷惑では?」

「まぁ、賑やかにはなるかもしれんが・・・案じずともよい」

今更引けない、そう言うしかない。

「紫と此之葉、そして秋我を預かる」

「・・・では、お願い申し上げます」

立ち上がり辞儀をする。

「此之葉、くれぐれも頼んだぞ」

本当なら自分が唱和を迎えたい、自分が居なくなった後の紫揺のことも気にかかる。 だがそれは今の領主の仕事ではない。 領主は一番に領土の民の安寧をはからなければならない。 祭が終わり紫が現れたことで民がどうなっているか分からないのだから。

「はい」

地べたに座り込んでいた此之葉がいつの間にか立っていて、領主に深くお辞儀をする。

「秋我も」

領主代理だということを肝に命じよ、と言っている。
既に立ち上がっていた秋我が顎を引いて固い返事とした。

四方、シキ、マツリに退領の挨拶をすると最後に紫揺に手を繋がれているリツソにまで声を掛けた。
その様子を見ていたシキが「あら」 と声を上げた。 紫揺の衣装がリツソの涙でぐしょぐしょになり、鼻水で凹凸を作っている。

辞去するために踵を返した領主。 その領主を見送るために、歩を出した秋我と此之葉に続いて紫揺も歩きかけたが「紫、待って」 とシキに止められた。
何事かと領主が振り向く。

「領主、申し訳ありません。 紫の衣をリツソが汚したようです。 着替えさせたいので、紫はここまででよろしいかしら?」

このまま人目にさらすことなど出来ないと言っているのだ。 それは宮に住む女人として当たり前のことである。

紫揺とリツソも勿論のこと、隅に立っている者以外、部屋に居る全員が改めて紫揺の衣装を見た。

「フッ、まるで童女の衣装だな」

「マツリ」

シキがたしなめる。

「いえ、水干と釣り合いがとれていると言ったまでです。 リツソ、二人でよく似合っておる」

リツソは今十四歳。 紫揺が着ているのは先の紫の先代が十一歳の時の衣装だ。 それは釣り合いがとれているだろう。 あくまでも紫揺は二一歳であるが。

リツソが嬉しそうに紫揺を見上げる。 だが紫揺は水干の意味は分からないが、嘲弄されたことは肌で感じている。 シキは衣裳が汚れていると言ったのだ。 この衣装に対して何か言ったのだろうことも分かる。

たしかにこの衣装は先の紫の先代紫が十一歳の時に着ていたのだから、子供の衣装に間違いない。 聞き逃してやろうと思っていたが、そのあとの言葉は絶対に見下したことを言っているのだと思うと聞き逃す気がなくなった。 紫揺が口を開きかけた時、四方の声が響いた。

「マツリ!」

「さっきの姉上と同じです。 正直に言ったまでです。 リツソも喜んでおります」

「紫さまに来て頂いたのは急なことでしたので、ご衣裳をお作りする暇もなく先々代のものに手を通して頂きました。 紫さまにおいては耐えて頂いております」

「いや、領主こちらが悪い。 失礼なことを言った。 詫びる。 紫も気にせぬよう」

「・・・はい」

そう言うとマツリを見て顎を上げ、フンというような仕草を見せた。 マツリの口が曲がる。

「では、私のお房に来てくださる?」

さっきも言っていたが “お房” とは何なのだろうと思いながら「はい」と言ってから領主を見る。

「じゃ、領主さんお気を付けて」

「紫さま、くれぐれもお気を荒げられませんよう」

最後に残したい言葉がこれだとは何ともしがたい。

「ど・・・努力します」

自信があるわけではない、笑いで誤魔化すしかなかった。