国津道  第5回

大福りす
- 国津道(くにつみち)-  第5回



ドクンと心臓が撥ねた。 途端、まるで身体が心が豊かな大海を彷徨うように海中に任せた。 いや任せられてしまった。
その身に心に声が聞こえる。

『瀞謝なの? ああ、瀞謝。 よく来てくれました』


いつもいつも瀞謝の心の中に聞こえていた声。 耳になど聞こえない声。 きっと思い過ごしの声。
社の前で手を合わせると社の周りを掃除する。 毎日掃除をしたかったが相ならず数日に一度。


少しの間のあと、詩甫が口を開いた。

「あ、え?」

詩甫の表情を見て浅香が頬を緩める。

「少しは思い出されましたか?」

「え・・・」

「疑問があるのであれば解決をしませんか?」

「・・・」

「この先に進むとその疑問が解決されます」

挑戦的な、撥ねっかえりが相手だとこれに乗ってくるだろう。 だが詩甫はそうでは無い。 外に力を撥ねるのではなく守りを固める性格だ。 だが浅香は敢えてこの方法を選んだ。

「行きましょう」

差し出された手、浅香の表情が変わった。

浅香に手を引かれ、坂を上ると平らな地に出た。 その奥に入って行く。

「当時より鬱蒼としておる」

(・・・当時? どういうこと?)

それにまたいつもの浅香の台詞ではない。 声のトーンも一つ低い。

「僕も此処だけでは思い出しませんでした」

いつもの浅香の声音で笑みが振り返った。 どういうことだろうか。
浅香の足は止まらない。 それでも詩甫に合わせているのだろう、手を引かれている詩甫が急ぎ足になるわけではない。
いくらか歩くと目の先に社らしきものが見えた。

「・・・お社?」

「はい、そうです。 この辺りを見て何か思い出しません? あのお社とかこの緑とか」

「え?」

また?

「うーん、やっぱり無理かな。 きっとあんまりにも変わり過ぎていますもんね」

「お社と緑?」

「ええ、お待ちです」

「え? お待ちって・・・?」

「社に向かうよう」

戸惑う詩甫に浅香が笑みながら言った。 だがそれは浅香の明るい笑みとはかけ離れた笑み。 悲し気な笑み。

このまま歩いて行っていいのだろうか、何があるのだろうか。 そう思うが、足が手を引かれるままに動いてしまう。

社の前まで来た。 賽銭箱など見当たらなく、社頭に設けられた鈴は青緑の錆が付き、下に垂れていなければならない紐などは残骸さえ見当たらない。 錆が付いていようが、よくぞ鈴が残っていたと言わざるを得ない程の状態。
八畳ほどの社の所々で傷み始めてきている。 今は乾燥しているようだが、雨が続けばそこから腐ってくるかもしれない。 長年放置されていたのだろう。 台風でも来れば一気に崩れ落ちるかもしれない。

「ここ、は・・・?」

「手を合わせればよい」

腰つき格子戸の前まで詩甫の手を引いてそっと放す。
足元には腰つき格子戸の下に一段の石段がある。 その手前に立たされた。

本当は手を合わせることすら必要ない。 もう朱葉姫から話しかけられ、それを心で聞いたのだから。 この娘は間違いなく瀞謝。

「あ、あの・・・」

振り向いた詩甫の目にふっと浅香の目の奥が変わったように見えた。

「僕のことは気にしないで、どーぞ」

そう言うと数歩退く。

どうしたものかと思うが、社まで連れてこられては手を合わせないわけにはいかない。 バッグを傍らに置き両手を合わせる。
寂れた社。 それなのに清々しい緑の風が社の中から吹いてくるようだ。

目を瞑る。

神社にしても寺にしても、行った時には必ず手を合わせ「有難うございます」 ただそれだけを言っていた。 願い事など・・・聞いてもらったことが無いのだから。 叶えてもらったことなど無いのだから。 でもどうしてだろう、願い事を諦めた時から「有難うございます」 そう言うようになってしまっていた。

心の中で「有難うございます」 と言いかけた時
ドクン。
また心臓が撥ねた。 それを切っ掛けに、自分の身体が一回り大きくなったり、元に戻ったりを繰り返している感覚。 不安になってそっと目を開けた。 目の前に格子が見える。 そして格子の間から見えるその奥は・・・。

あ、っと思った時には、社の中に入っていた。 いや社の中だろうか、社はこんなに広く明るくなかったはず。

「瀞謝、ようやっと来てくれたのですね」

目の前に美しい姫が座っている。 幾重もの袿(うちぎ)に赤い唐衣が広がっている。 その姫が立ちっぱなしで何度か目を瞬かせた詩甫を見て相好を崩している。

「え・・・あの」

どういうことだろうか、何が起きたのだろうか。 それに山の中なのにこれほどの着物を着て座っているのは・・・いったい誰なのだろうか。
頭の中が混乱しそうになるが、心のどこかで落ち着いている自分が居るのを自覚している。 そして無意識に口から姫の名を呼んだ。

「・・・紅葉姫、様?」

「相変わらずじゃのう、これ、瀞謝、朱葉姫様と仰いな」

「え?」

目を横にずらすと四十前後だろうか、こちらも着物を着て少し離れた所に座っていた。

「一夜、良いではありませんか。 瀞謝はずっと紅葉姫と呼んでいたのですから」

「・・・その声」

「ええ、この社をいつも清めてくれていたので礼を言っておりました」

『ありがとう、瀞謝』と。

「さきほども、ようやっと瀞謝が来てくれましたので」

『瀞謝なの? ああ、瀞謝。 よく来てくれました』



瀞謝は毎朝、陽が昇ると家の手伝いをし、弟妹の面倒も見ていた。 そして手を空けられる時間がある時にはすぐにこの社にやって来ていた。 

社に手を合わせ、自作の竹箒で落ち葉を掃き、社の中に入ることはままならないと思い、外側だけをぼろ布で拭いていた。 そしてここに来るまでに見つけて手折ってきていた花を一輪添えると、もう一度手を合わせる。 するといつからか『ありがとう、瀞謝』と、心の中に聞こえてくるようになっていた。
それは瀞謝の気のせいだと思っていた。 でもその言葉が嬉しかった。

社には『紅葉姫社』 と、もうはげかけた文字で薄っらと書かれていた。 だからこのお社には紅葉姫様がいらっしゃるのだと思っていた。
だから『紅葉姫様、この地に留まることになった瀞謝と申します』 と最初に挨拶をしていたのだった。


瀞謝が生まれる五百年程前。
この辺りの豪族であった朱葉の祖父が郡司を任されていた。 郡司は世襲制で後に朱葉の父親が郡司となった。
まだ祖父が郡司の頃から朱葉は幼いながらも民によく添っていた。 祖父がそうであり、父もそうであったからなのかもしれないが、生まれ持ってのことが大きかったのだろう。

その朱葉が十八の歳の時に苦しみながら倒れた。 その長い苦しみの中、身罷(みまか)ってしまった。 民は嘆き悲しみ、当時の郡司であった朱葉の祖父に朱葉の社を立てたいと申し出た。

民の気持ちは有難かった。 我が孫、朱葉がしてきたことは民の心に浸透していたのだ、そう思うと首を縦に振らずにはいられなかった。 だが中央の目がある。 大きな社は建てぬようにと、そして里ではなく目のつかない山の中に建てるようにと、それだけを口にした。
そして民たちの手によって、祖父の持つ山の中にこの社が建てられた。

『朱葉』 それは紅葉(もみじ)の紅葉(こうよう)を示すような名。 朱葉が幼い時には『朱葉姫様のお手はまるで紅葉のようで御座います』 民がよくそう言っていた。

小さな紅葉のような手で、民が倒れればその手で背をさすり、怪我をすれば患部にその手で薬を塗り、着物が破れてしまっては、拙いなりにもその手で針を持ち繕ってやっていた。 いつからか民の間で朱葉姫は通称紅葉姫となっていた。

そこから祀られているのは『朱葉姫』 ではあるが、社の名を『紅葉姫社』 とした。 当時はしっかりと社に『紅葉姫社』 と書かれていて、腰つき格子戸の前には『朱葉姫』 と書かれた板があったが、長い年月の風雨の中、その板は無くなってしまっていた。

五百年も経てば、国の状況も民の習俗も変わる。
それまでは朱葉姫を知らない者も先祖から受け継いだ話を聞き、手を合わせ社の修繕もしていたが、段々と手を合わせに来る者も来なければ、その存在さえ忘れ去られていった。

それはある噂が一因を持っていたのかもしれないが、そんな時に家族で麓に流れてきた瀞謝がこの紅葉姫社を見つけた。 そのころはまだ、埃や枯葉で散らかりはあったものの、今ほど社が朽ちているわけではなかった。

瀞謝は『紅葉姫社』 という可愛らしい社の名にも惹かれたが、なによりその佇まいに惹かれた。 どうしてだかは分からなかったが。
それなのに風雨にさらされたまま。 このままにしておくことが出来なかった。 それからは来ることが叶えば掃除をしに来ていた。



朱葉姫が目を細め改めて詩甫を見る。 朱葉姫の前には詩甫ではなく、当時の瀞謝が立っている。

「懐かしや」 そう一言漏らした。

詩甫の脳裏に瀞謝であった頃のことが思い出され、その姿が瀞謝と変わっていた。 この社を初めて見た時のこと、それからは自作の竹箒を持ち、社の周りを掃き清め、格子の一つ一つを時間のある限り拭いていた。

「朱葉姫様・・・」

もう先程言ったように『紅葉姫、様?』 などと疑問符はつかない。 それに正しく名を呼んでいる。
どうして瀞謝がこの社の佇まいに惹かれたのかがやっと分かった。 目の前にいる朱葉姫の内なる姿、外見、そのようなものが社に映し出されていたのだ。 清楚でいて何もかもを包み込むそんな優しさを持った社だったのだ。

「まぁ、ありがとう。 初めてわたくしの名を呼んでくれるのですね」

「ええ、もう朱葉姫様はお子ではありませんので。 瀞謝にも分かってもらわねば」

「まぁ、一夜、そんなことを言っても瀞謝の知らない事」

一夜に合わせた視線を詩甫に戻しにこりと微笑む。

「姫様、そろそろ」

男の声がした。 今まで気付かなかったが後ろに何人もの男と女がいた。 その中の一人が膝行で進んできて朱葉姫に促したのだ。

どこかで見たことがあるような顔。 詩甫である瀞謝が首を傾げる。

「ええ、そうね」

伏せ目がちに男に応じると再度、詩甫に視線を戻す。

「瀞謝、頼みがあります」


フッと息を吐いた。 すると格子の前に居た。 合わせていた手を下ろす。 格子の間から中を見るが、そこは闇に包まれているだけだった。 だが清涼な空気を感じる。

振り返ると詩甫のバッグを持った浅香が立っていた。
浅香がにこりと笑む。
どうしたものだろうか、なんと言っていいのだろうか。 頭の中で逡巡していると浅香の声が聞こえた。

「鞄、結構重かったんですね。 気が付かなかなくてすみませんでした、上ってくるとき僕が持てばよかったですね」

え・・・そういう話?

「まだ祐樹君が帰って来るまでには時間に余裕があるでしょうけど、えっと、一応確認で。 遅い時間って何時ごろですか?」

「あ・・・八時ごろかな」

早くて、ということだが、今日は朝から接待で出かけているはず。 残業ほどには遅くならないはずだ。

「え? それって、遅い時間ですか?!」

浅香タイムと随分外れている。
だがよく考えればわかることだった。 祐樹は小学生なのだ。 午前様どころか、深夜近くの時間に戻ってくること自体あり得ないことだった。
すぐにポケットからスマホを出したがアンテナが立っていない。 クソッ、と言ってスマホをしまう。

「急いで山を降りましょう!」

急いで下さい、と言われて詩甫の手がとられる。
その時に朱葉姫から言われていたものが目に入った。
来た時には気付かなかったが、朱葉姫が言っていた通りに少し離れた社の斜め前に、高さ百五十センチほどで先の尖った石が立っている。

「あ・・・」

「ん?」

浅香が詩甫の目の先を追う。

「ああ、そうです、あれが供養石です。 あのことを言ってたんですよ。 今で言う供養塔みたいなものです。 ま、単なる石ですけどね」

「え?」

どうして朱葉姫が話したことを知っているのか。 それによく考えればそれ以前だ、どうしてここに連れてきたのか。
詩甫と浅香の目が合う。

「んっと、完全に怪しまれてますよね。 ま、仕方がないですよね。 詳しいことは道々お話しします。 それより急いで下さい」

浅香が詩甫の手をぐっと引いて軽く走りだす。
やって来た時には疲れたこともあり、手を取られても改めて何とも思わなかったが・・・。

(救急隊員なんだから・・・人の手を取ることくらい何ともないこと・・・)

べつに恋愛対象として考えているわけではない。 浅香のこの行動に対して考えている。
この浅香という男はいったい・・・。

「僕の考えが浅くて申し訳ありませんでしたが急いで下さい。 祐樹君に心配をかけてしまう」

祐樹が帰った時に詩甫が居なければどれだけ心配をするだろう。
さっき実家の話の時にはとぼけて応じていたが、今日までの間に詩甫自身のこと、家庭環境、そして詩甫と祐樹の事は調べている。 仲の良い姉弟だ。 それに詩甫自身も言っていた。 祐樹が懐いてくれていると。

今回のことで詩甫と祐樹の間に溝を入れたくはない。 曹司はそんなことを考えていないだろうが、俺は浅香亨だ。 曹司ではないのだから。

浅香に手を引かれるままに坂道を走り、階段を駆け下りた。
上りと違って随分と楽である。 それに急いでいると言っても相変わらず浅香は詩甫の歩幅に合わせてくれている。

少々息は上がったが、一度の休憩も挟まず山から下りることが出来た。 スポーツこそしていないが、会社で三階まで上り下りしているおかげだろう。

「くっそ、タクシーを待たせておけばよかった」

そう言いながらスマホでタクシーを呼び出している。
スマホを切ると「有難き文明かな」 などと言ってスマホを両手に挟んで一礼するとポケットに入れた。

「必ず間に合わせます。 なんて言えないんだよなー、この田舎。 この時間の電車の本数って少ないし。 自家用ジェットなんてあれば別なんですけどね」

「それって飛行場からまた時間がかかりますよ?」

「じゃ、自家用ヘリ」

「ヘリコプターが下りられるところなんて近くにありません」

「ですよね・・・」

どうしてこんな会話が出来るのだろうか。 ついさっきのことがあったというのに。
沈黙が生まれた。 それは当たり前だろう。

詩甫は詩甫なりに思うところがある。 ついさっきのこと、そしてそれを浅香が知っていたということ。 どこからどこまで何を知っているのか分からない。

それに詩甫自身も思い出したことがある。 瀞謝として生きていた時のこと。 それは受け止められている。 冷静にかと問われれば戸惑うところはあるが。

そして何より、朱葉姫から言われた二つの頼み事・・・。 一つは他愛もないこと。 だが思い出した以上、もう一つはそんなことをしたくない。

浅香が詩甫をチラリと見た。 雑木を背に地道に立っている。 それもビジネススタイルで。 でもまっ、と考える。 たとえネクタイを外したと言っても自分も革靴に礼服だ。

道の端を除いてかろうじて敷かれているアスファルトの上に、風に煽られ山から飛んできたであろう砂がアスファルトを薄く覆っている。 対向車が来るとどこか広い所で譲り合わなければならない決して広くはない道。

もう夕刻を過ぎようとしている。 西の空は茜色に染まっている。 この季節だからこそこの時間になってもこの西陽。 完全に八時には間に合わないだろう。

詩甫は何を見ているのだろうか、どこを見ているのだろうか。 祐樹のことを考えているのだろうか。
焦っても仕方がない。 間に合わないものは間に合わないのだから。 電車の中を走ったとて時間が縮まる訳でもない。