虚空の辰刻(とき) 第201回
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「シユラ様がこの番号に?」
「はい、何度こちらに電話を入れても誰も出てくれなかったからって」
「どうして君が?」
シマッタ、と思った。 この展開では完全に携帯で連絡を取っていたことが分かるではないか。
「あ・・・それは・・・」
「セノギさん早く。 シユラ様が会いに来てくれるんだから」
「あ、ああ。 じゃ、仕事部屋に行こう。 セキもおいで」
セキのお蔭で難を乗り越えられた、春樹がそっと息をつく。
仕事部屋の電気をつける。 当たり前だが、雲渡(うんど)の姿はない
セキと春樹を座らせると、セノギが背を向けメモを見ながら子機のボタンをプッシュする。 すぐに相手、紫揺が出たようだ。
『もしもし』
「シユラ、様・・・?」
セキのことを疑っていたわけではないが、この屋敷から脱走したというのに、連絡を取ってくるなどと信じられなかった。
『セノギさん、良かったー、やっと連絡が取れた』
「あの・・・いったい何がどうなって・・・」
ショウワから紫揺は東の領土に行ったと聞かされていた。 領土にいては此処と連絡など出来るはずはない。
『どうして屋敷の電話に出てくれなかったんですか? バカ程かけたのに』
紫揺ではなく阿秀が、だが。
「あのお電話は全てシユラ様?・・・」
この口調からすると、まだ自分を取り戻せていないようだ。
『言ってみればそういう事になります』
見守っていたのだから、こういういい方でもいいだろう。
「申し訳ありません。 まさかシユラ様だとは思わず。 キノラが電話には出てくれるなと言っていましたもので」
その意味が紫揺には分からないが、春樹にはピンとくるものがある。
『キノラさんが? じゃ、仕方ないか。 まぁ、こうして連絡が取れたから良かったです。 それでですね、今そちらに向かっているんですけど、セノギさんにお渡ししたいものがあるんです』
ようやっと心が今に追いついたセノギ。
今は東の領土に居るのではなく、東の領土から日本に来たというのは電話が通じていることから分かるが、自分に渡したいものがあるとはどういうことだろう。
「私にですか?」
『はい。 とっても大事なものです』
桟橋でしたっけ? と紫揺が誰かに訊く小さな声がする。 返事の声は聞こえなかった。 訊かれた相手が頷いたのだろう。
『えっと、屋敷の桟橋まで出て来てもらえますか?』
「犬のことがありますから、すぐにとはいきませんが」
訓練師に言って犬を集めさせなくてはならない。
『こっちもまだそちらに着くことはできませんから大丈夫です』
携帯ごしに男の声で何かを言っている声が聞こえた。
『そちらに行けるのは十一時半くらいになるみたいです』
「承知いたしました」
『えっと、その時にセキちゃんと・・・先輩はそこに居ますか?』
「せんぱい?」
セノギが上半身を捻って青年を見る。
「あ、僕のことです。 春樹って言ってもらえれば分かります」
先輩と言われ、片手を軽く上げている。
“春樹” と書かれたネームプレートを思い出した。 それに面接の前から春樹の苗字は気になっていた。
邑岬春樹。 それが彼の姓名だった。
また元の姿勢に戻って話し出す。
「春樹さんですか?」
『そうです。 セキちゃんと先輩を一緒に連れて来てほしいんです。 セキちゃんは眠たいかもしれないけど』
「承知いたしました」
『じゃ、お願いします』
「お気を付けて」
そう言って電話を切ったものの、全く何がどうなっているのか分からない。
「シユラ様いつ来られるんですか?」
「十一時半ごろだって。 セキは起きていられるかな?」
「絶対に起きてます!」
「そうか。 じゃ、それまで部屋に戻っておいで。 父さんにこのことを話しておくんだよ。 私が迎えに行くから」
「はい!」
紫揺に会えると思うと眠気など飛んだのだろう、とっても元気な声だ。
「君にも来てほしいと仰っていた。 時間はまだあるから部屋で休んでいるといい。 セキを呼びに行ったときに君にも声を掛ける」
「お願いします。 じゃ、セキちゃん戻ろうか」
「はい!」
二人が出て行ったあとにセノギが大きく息を吐いて、机に尻をもたれかけさせた。
「いったい何があったんだ。 それに私に渡したいものとは・・・」
分からないことを悩んでいても仕方がない。 とにかく一日も早くここを出て洞を潰さねばならないのだから。 その前に片付けなければいけないことが山積している。
屋敷に戻って来て一番に五色に話をした。 アマフウとトウオウはどちらでも、という顔をしていたが、キノラとセイハが飲めない話だと言った。
二人には説得も必要だろうが、そんなことに時間をかけている余裕などない。 屋敷や仕事の整理をすれば否が応にも領土に帰るだろう。
「彼らにも戻ってもらわなくてはいけないな」
春樹の出て行ったドアを見る。
キノラの下で働いていた者たち、コックと訓練師、急に首を切られて嘆くだろう。 領土に帰るのだからこの地の金など必要ない。 次の仕事が見つかるまで食べるのに困らないくらいは積んでやらねば。
不動産は叩かれようが構わないが、地下は潰さなければいけない。 ムロイが代表を務める会社をたたんで馬の行き先を決め、すぐにでも引き取ってもらわなければならない。 ここに置きっぱなしにして餓死させるほど薄情には出来ていない。
「そうだ、獅子もいるんだった」
額を一撫でした。
「明日すべて同時進行か」
今日屋敷に戻ってきた時には役所が閉まっている時間になっていた。 その時間から出来るのは犬の訓練師と相談して、犬の行き先を決めたことだけだった。
本領がこんな事情など知るはずもなく、あまりにも日をかけ過ぎては、なにかを疑われるかもしれない。 あくまでも地下、洞を埋めるのは最後になる。
自分の望んでいた形になったとはいえ、何もかもがこれほど急にとは。 領土から帰って来た疲れもあるが、まずは訓練師のところだ。 机から離れると部屋を出て行った。
「あ、あれじゃないですか?」
さざ波の音だけが聞こえる漆黒の闇の中に、波をかき分ける音をたてライトが上下しているのが見えてきた。
「そうですね」
桟橋にはライトが取り付けてある。 その桟橋に一直線に向かってきているのだから、あの船に間違いはないだろうが、本当に紫揺があの船に乗っているのだろうか。
「セキちゃん寝ちゃいましたね」
待っている間にうつらうつらとしだしたセキ。 桟橋に椅子やベッドなどない。 春樹が抱きかかえている。 セノギがセキの寝顔を見て微笑む
「必要であればシユラ様がお起しになるでしょう」
春樹の眉が上がった。 訊いていいでしょうか、と前置きをして疑問を口にする。
「気になっていたんですけど、紫揺ちゃんのことを “様” 付けで呼んだり、敬語を使われてますよね? それって紫揺ちゃんがここで地位のあるっていうか、そういう人だからですか?」
「ここでという訳ではありません」
「どういう意味でしょうか?」
結局紫揺からは何も聞かされなかったのだから、紫揺が何故ここに居たのかも知らない。
「お話するには難しいですね」
そう言ったセノギと春樹が横を向いた。 船のライトが二人の顔を照らしたのだ。
ゆっくりと桟橋に付けられるレンタルクルーザー。 阿秀たちが所有しているクルーザーはあの船着き場にはないのだからレンタルしかない。 阿秀が初めて使った伝手という手段でレンタルをしていた。
阿秀の勤めていた店の客にマリンクラブを所有している旦那様を持っている女性が居た。 万が一を考えて日本で動く時には必ず客の名刺を持っていた。 極力伝手は使いたくなかったが、最後の最後で致し方なく使った。 小型のボートで良かったのだが、客が張り切って良いものを用意してくれたようだ。
「迎えに来てくれたここの船も立派ですけど、これもすごいな」
春樹が操舵席を見上げながらセキを抱え直す。
「疲れたでしょう、代りましょう」
「あ、いいです。 まだ大丈夫です」
手紙まで書いていた紫揺の可愛がっているセキだ。 そのセキを今まで抱っこしていたのだから、その努力を泡になどしたくない。
( 『わぁ、先輩、セキちゃんをずっと抱っこしててくれたんですか? 嬉しい。 セキちゃんに代わってお礼です。 Chu』 有り得る。 十分にあり得る。 その時にはなんて言おうか。 わっ、紫揺ちゃん、人前で恥ずかしい、とか何とか? いや、もっと大人らしくだな・・・)
「シユラ様!」
(そう、その紫揺ちゃんにChuってされて、って、え?)
妄想族が現実に戻ってきた。
いつの間に降りてきたのだろうか、桟橋に紫揺が立っている。 阿秀が船を止め、紫揺を下ろそうとした時には、すでに紫揺が船べりに足をかけて跳び降りる体勢だった。 そして止める間もなく跳び下りたのだった。
「お久しぶりです。 その、無断で屋敷を抜け出してしまってすみませんでした」
言ってからでは抜け出せられなかったが。
セノギにすれば紫揺が謝ることではないと考えている。 そして唱和から紫揺が東の領土に入ったことは聞いていた、紫揺はもう何もかも知っているのだろう。
「・・・こちらが・・・私どもが許されないことをしたのですから、謝罪しなければならないのは私どもの方です」
後ろに春樹が居るのだ、私どもではなく北の領土です、などとは言えない。
「じゃ、お互い様ってことで。 湿っぽいことはやめましょう。 これ、唱和様からです。 預かってきました」
ショルダーバッグから手紙を出すとセノギの前に差し出す。
「ショウワ様から? どういう事でしょうか。 ショウワ様は、本りょ・・・あちらに行かれているはずでは?」
セノギが春樹のことを気にしているのが分かった。
「詳しいことは後で分かります。 それよりこれを先に読んでください」
まだセノギが手紙を手にしていない。 はい、と言って更に手紙を差し出すとセノギが手紙を受け取った。
「今読んで、すぐに行動を起こして下さい。 時間がありません」
セノギが懐かしい領土の折り方をした封筒から手紙を出して読み始めた。
「・・・どういう事でしょうか」
一通り読んだセノギが問う。
「私はそのお手紙を読んでいませんが、唱和様からどのような内容が書かれているかは聞いています。 潰される前にしなくてはいけない事なんです。 すぐに影っていう人に伝えてください。 そして全員が揃ったらもう一度あの番号に連絡をください。 また来ます。 その時に全てをお話します。 セノギさんへの用というのはこの事です」
ポカンとしている春樹に視線を移す。
またもやショルダーバッグから封筒を出すと、セノギの横を通り過ぎて春樹に向かって歩く。
移動中、コンビニで夕飯になる物を買いに入った時に封筒も一緒に買った。 そこに阿秀から借りた六万五千円を入れた。
「先輩、長い間お借りしっぱなしでスミマセンでした。 あの、本当にありがとうございました。 お金のことなんて頭になかったから、すごく助かりました」
両手で封筒を持ち、頭を下げながら春樹に差し出した。
「あ、いや、気にしなくて良かったのに」
ここで見栄を張らなくて男と呼べようか。
そして封筒を受け取りたいが、そろそろ腕が限界だ。 ここで片手を離してしまえばセキを落とすことになるかもしれない。
「あの、紫揺ちゃんちょっと待ってね」
セノギと代わってもらおうと思いセノギを見たが時遅し。
手紙を読み返し、自分が今何をしなくてはいけないのか。 疑問など二の次だと思ったセノギ。
「すぐに知らせてきます。 春樹さん、戻ってきますのでそれまでここに居てください」
そう言って屋敷に向かって足早に戻っていった。
(あ“あ”あ“――― 腕があぁぁ―――)
「先輩どうしました?」
「あ、あは。 そのちょっと。 えっと、わざわざありがとう。 その、ズボンのポケットに入れてくれる?」
後ろを向いて尻のポケットに封筒を入れるように言う。
(ああ・・・情けない、情けなさ過ぎだろう、この姿・・・)
紫揺が尻のポケットに封筒を差し込むと、春樹に抱かれていたセキの顔が見えた。 スヤスヤと眠っている。
「やっぱり起きてられないよね、いっつも朝早くから働いてるんだから」
セキのプクッと膨らんでいる頬をツンツンと指で押すと弾力よく指がかえってくる。
「紫揺ちゃん座ろうよ。 セノギさんが戻ってくるまで」
そうすればセキを膝の上に座らせることが出来る。 腕への負担は大きく減る。
セキを落とさないようにクルーザーを背に、ゆっくりと桟橋に座って足を海に向けて下ろす。 その振動がセキに伝わったのだろうか、セキがうっすらと目を開けた。
「・・・ん」
目をこする。 いやに明るい。
「・・・ん?」
顔を上げると目の前にクルーザーがある。
「ん? ・・・」
「あ、セキちゃん起きた?」
紫揺が春樹の背に話しかけるようにセキに話しかけた。
「・・・シユラ様!」
春樹の身体の上で立ち上がった。
「え? わっわっわ!」
春樹が体勢を崩して
ドボン。
間一髪で紫揺がセキに手を伸ばして、セキが落ちるのは避けられた。
「先輩! 大丈夫ですか?」
浮いてきた春樹が桟橋の脚を持つ。
「だ、大丈夫」
「お手紙のお兄さん・・・ごめんなさい」
「気にしなくていいよ。 ・・・ここ上れそうにないから」
腕はまだ痺れている、上ることなど出来ない。 開き直って岸まで泳いでいった。 岸に上がるとこちらに向かって歩いてきている紫揺とセキに悟られないように、尻のポケットを触った。 封筒の感触はある。 落とさなかったようだ。 良かった。
(それにしても最悪の再会じゃないか・・・)
尻を向けたのも落ちたのもそうだが、わっわっわ、と叫んでしまったのだから。
「お手紙のお兄さん、ずぶ濡れ。 ホントにごめんなさい」
「気にしなくていいって。 目が覚めた?」
「はい」
「会えてよかったね」
セキが嬉しそうに紫揺を見上げる。
「紫揺ちゃん、受け取ったよ」
ポケットの封筒を抜き取って紫揺に見えるようにする。
「有難うございました。 早くお返ししなきゃって気にはなっていたんですけど、先輩に書いてもらったメモを落としちゃったみたいで」
「うん、杢木からそう聞いた。 杢木がメモを拾ったみたいだよ」
「え? じゃ、船の中で落としたのかなぁ」
「で? どうやって番号が分かったの?」
「え? あ、えっと。 あの、友達伝いで・・・それで時間がかかっちゃって」
阿秀から教えてもらったとは言えない。
「そうなんだ。 気にしなくて良かったのに。 って、連絡をくれたことは嬉しいけどさ。 さっきのあの番号は紫揺ちゃんの番号だよね?」
紫揺の番号ゲットだぜ、と一瞬は思ったが、セノギに教えるため番号をメモに書いている時に不安に思った。 不安のまま終わらせたくなどない、確認しなくては。
「違います。 あれは借りたんです」
そう言って操舵席を指さす。
操舵席には長身痩躯な男がこちらを斜に見て立っていた。 桟橋に取り付けているライトがその角度からでも端麗な顔を露わにしている。
やはり紫揺はスマホを手にしていなかったのか。
「だれ?」 敵か?
「ちょっとした知り合いで・・・」
「ふーん」 敵ではない?
「あ、先輩、杢木さんの連絡先を教えてもらえますか?」
「杢木の? どうして?」
「おじさんに良くしてもらったんです。 改めてお礼を言いたいので」
「部屋に戻らなくっちゃ分からないけど・・・」
「じゃ、メモに書いてセノギさんに渡しておいてもらえませんか? またセノギさんに会いますので」
チラッと春樹の背後に目を移した。 セノギがこちらに向かって走って来ている。
「シユラ様、またこちらに来られるんですか?」
「うん。 ここまでだけど。 その時がいつになるか何時になるか分からないけど、あんまり遅い時間じゃなかったら、セキちゃんと一緒にガザンを連れて来てもらえるかな?」
「はい! 遅くてもいいです! 今度は寝ません!」
「ふふ、こんな時間になっちゃってごめんね。 元気にしてた?」
「はい、シユラ様とニョゼさんが居ないのが寂しいけど」
「ニョゼさんなら元気にしてたよ。 セキちゃんも、もうちょっとしたら会えるからね」
「ニョゼさんもうちょっとしたら、戻って来られるんですか?」
「どうだろ?」
ニッコリと笑って答えた。
「シユラ様は?」
「今度会えるといいね」
セキの頭を優しく撫でてやると膝を折り、そっとセキを抱きしめた。
「セキちゃん大好きよ」
(どうして俺の目の前でそんなことをするのかなっ。 それを俺に言ってくれ、俺にそうしてくれ)
女々しいことを考えているのは分かるが、思わずにはいられない。
紫揺がセキを手から離し立ち上がると、やって来たセノギを見た。
「先ほど出て行きました」
影の誰かがケミを連れ戻しに北の領土に向かったということだ。
「有難うございます。 戻ってこられたら、またあの番号にご連絡をください」
セノギが頷く。
「じゃ、先輩、わざわざ来てもらってすみませんでした。 セノギさんに預けても良かったんですけど、直接お礼を言いたくて」
「いや、会えてよかったよ。 安心した」
「ご心配かけちゃって。 それじゃあね、セキちゃん」
「必ず、遅くなっても呼んでください。 ガザンも連れてきます」
「ありがとね」
桟橋を走って行くと、クルーザーに跳び乗る。 阿秀が溜息を吐くとエンジンをかけた。
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「シユラ様がこの番号に?」
「はい、何度こちらに電話を入れても誰も出てくれなかったからって」
「どうして君が?」
シマッタ、と思った。 この展開では完全に携帯で連絡を取っていたことが分かるではないか。
「あ・・・それは・・・」
「セノギさん早く。 シユラ様が会いに来てくれるんだから」
「あ、ああ。 じゃ、仕事部屋に行こう。 セキもおいで」
セキのお蔭で難を乗り越えられた、春樹がそっと息をつく。
仕事部屋の電気をつける。 当たり前だが、雲渡(うんど)の姿はない
セキと春樹を座らせると、セノギが背を向けメモを見ながら子機のボタンをプッシュする。 すぐに相手、紫揺が出たようだ。
『もしもし』
「シユラ、様・・・?」
セキのことを疑っていたわけではないが、この屋敷から脱走したというのに、連絡を取ってくるなどと信じられなかった。
『セノギさん、良かったー、やっと連絡が取れた』
「あの・・・いったい何がどうなって・・・」
ショウワから紫揺は東の領土に行ったと聞かされていた。 領土にいては此処と連絡など出来るはずはない。
『どうして屋敷の電話に出てくれなかったんですか? バカ程かけたのに』
紫揺ではなく阿秀が、だが。
「あのお電話は全てシユラ様?・・・」
この口調からすると、まだ自分を取り戻せていないようだ。
『言ってみればそういう事になります』
見守っていたのだから、こういういい方でもいいだろう。
「申し訳ありません。 まさかシユラ様だとは思わず。 キノラが電話には出てくれるなと言っていましたもので」
その意味が紫揺には分からないが、春樹にはピンとくるものがある。
『キノラさんが? じゃ、仕方ないか。 まぁ、こうして連絡が取れたから良かったです。 それでですね、今そちらに向かっているんですけど、セノギさんにお渡ししたいものがあるんです』
ようやっと心が今に追いついたセノギ。
今は東の領土に居るのではなく、東の領土から日本に来たというのは電話が通じていることから分かるが、自分に渡したいものがあるとはどういうことだろう。
「私にですか?」
『はい。 とっても大事なものです』
桟橋でしたっけ? と紫揺が誰かに訊く小さな声がする。 返事の声は聞こえなかった。 訊かれた相手が頷いたのだろう。
『えっと、屋敷の桟橋まで出て来てもらえますか?』
「犬のことがありますから、すぐにとはいきませんが」
訓練師に言って犬を集めさせなくてはならない。
『こっちもまだそちらに着くことはできませんから大丈夫です』
携帯ごしに男の声で何かを言っている声が聞こえた。
『そちらに行けるのは十一時半くらいになるみたいです』
「承知いたしました」
『えっと、その時にセキちゃんと・・・先輩はそこに居ますか?』
「せんぱい?」
セノギが上半身を捻って青年を見る。
「あ、僕のことです。 春樹って言ってもらえれば分かります」
先輩と言われ、片手を軽く上げている。
“春樹” と書かれたネームプレートを思い出した。 それに面接の前から春樹の苗字は気になっていた。
邑岬春樹。 それが彼の姓名だった。
また元の姿勢に戻って話し出す。
「春樹さんですか?」
『そうです。 セキちゃんと先輩を一緒に連れて来てほしいんです。 セキちゃんは眠たいかもしれないけど』
「承知いたしました」
『じゃ、お願いします』
「お気を付けて」
そう言って電話を切ったものの、全く何がどうなっているのか分からない。
「シユラ様いつ来られるんですか?」
「十一時半ごろだって。 セキは起きていられるかな?」
「絶対に起きてます!」
「そうか。 じゃ、それまで部屋に戻っておいで。 父さんにこのことを話しておくんだよ。 私が迎えに行くから」
「はい!」
紫揺に会えると思うと眠気など飛んだのだろう、とっても元気な声だ。
「君にも来てほしいと仰っていた。 時間はまだあるから部屋で休んでいるといい。 セキを呼びに行ったときに君にも声を掛ける」
「お願いします。 じゃ、セキちゃん戻ろうか」
「はい!」
二人が出て行ったあとにセノギが大きく息を吐いて、机に尻をもたれかけさせた。
「いったい何があったんだ。 それに私に渡したいものとは・・・」
分からないことを悩んでいても仕方がない。 とにかく一日も早くここを出て洞を潰さねばならないのだから。 その前に片付けなければいけないことが山積している。
屋敷に戻って来て一番に五色に話をした。 アマフウとトウオウはどちらでも、という顔をしていたが、キノラとセイハが飲めない話だと言った。
二人には説得も必要だろうが、そんなことに時間をかけている余裕などない。 屋敷や仕事の整理をすれば否が応にも領土に帰るだろう。
「彼らにも戻ってもらわなくてはいけないな」
春樹の出て行ったドアを見る。
キノラの下で働いていた者たち、コックと訓練師、急に首を切られて嘆くだろう。 領土に帰るのだからこの地の金など必要ない。 次の仕事が見つかるまで食べるのに困らないくらいは積んでやらねば。
不動産は叩かれようが構わないが、地下は潰さなければいけない。 ムロイが代表を務める会社をたたんで馬の行き先を決め、すぐにでも引き取ってもらわなければならない。 ここに置きっぱなしにして餓死させるほど薄情には出来ていない。
「そうだ、獅子もいるんだった」
額を一撫でした。
「明日すべて同時進行か」
今日屋敷に戻ってきた時には役所が閉まっている時間になっていた。 その時間から出来るのは犬の訓練師と相談して、犬の行き先を決めたことだけだった。
本領がこんな事情など知るはずもなく、あまりにも日をかけ過ぎては、なにかを疑われるかもしれない。 あくまでも地下、洞を埋めるのは最後になる。
自分の望んでいた形になったとはいえ、何もかもがこれほど急にとは。 領土から帰って来た疲れもあるが、まずは訓練師のところだ。 机から離れると部屋を出て行った。
「あ、あれじゃないですか?」
さざ波の音だけが聞こえる漆黒の闇の中に、波をかき分ける音をたてライトが上下しているのが見えてきた。
「そうですね」
桟橋にはライトが取り付けてある。 その桟橋に一直線に向かってきているのだから、あの船に間違いはないだろうが、本当に紫揺があの船に乗っているのだろうか。
「セキちゃん寝ちゃいましたね」
待っている間にうつらうつらとしだしたセキ。 桟橋に椅子やベッドなどない。 春樹が抱きかかえている。 セノギがセキの寝顔を見て微笑む
「必要であればシユラ様がお起しになるでしょう」
春樹の眉が上がった。 訊いていいでしょうか、と前置きをして疑問を口にする。
「気になっていたんですけど、紫揺ちゃんのことを “様” 付けで呼んだり、敬語を使われてますよね? それって紫揺ちゃんがここで地位のあるっていうか、そういう人だからですか?」
「ここでという訳ではありません」
「どういう意味でしょうか?」
結局紫揺からは何も聞かされなかったのだから、紫揺が何故ここに居たのかも知らない。
「お話するには難しいですね」
そう言ったセノギと春樹が横を向いた。 船のライトが二人の顔を照らしたのだ。
ゆっくりと桟橋に付けられるレンタルクルーザー。 阿秀たちが所有しているクルーザーはあの船着き場にはないのだからレンタルしかない。 阿秀が初めて使った伝手という手段でレンタルをしていた。
阿秀の勤めていた店の客にマリンクラブを所有している旦那様を持っている女性が居た。 万が一を考えて日本で動く時には必ず客の名刺を持っていた。 極力伝手は使いたくなかったが、最後の最後で致し方なく使った。 小型のボートで良かったのだが、客が張り切って良いものを用意してくれたようだ。
「迎えに来てくれたここの船も立派ですけど、これもすごいな」
春樹が操舵席を見上げながらセキを抱え直す。
「疲れたでしょう、代りましょう」
「あ、いいです。 まだ大丈夫です」
手紙まで書いていた紫揺の可愛がっているセキだ。 そのセキを今まで抱っこしていたのだから、その努力を泡になどしたくない。
( 『わぁ、先輩、セキちゃんをずっと抱っこしててくれたんですか? 嬉しい。 セキちゃんに代わってお礼です。 Chu』 有り得る。 十分にあり得る。 その時にはなんて言おうか。 わっ、紫揺ちゃん、人前で恥ずかしい、とか何とか? いや、もっと大人らしくだな・・・)
「シユラ様!」
(そう、その紫揺ちゃんにChuってされて、って、え?)
妄想族が現実に戻ってきた。
いつの間に降りてきたのだろうか、桟橋に紫揺が立っている。 阿秀が船を止め、紫揺を下ろそうとした時には、すでに紫揺が船べりに足をかけて跳び降りる体勢だった。 そして止める間もなく跳び下りたのだった。
「お久しぶりです。 その、無断で屋敷を抜け出してしまってすみませんでした」
言ってからでは抜け出せられなかったが。
セノギにすれば紫揺が謝ることではないと考えている。 そして唱和から紫揺が東の領土に入ったことは聞いていた、紫揺はもう何もかも知っているのだろう。
「・・・こちらが・・・私どもが許されないことをしたのですから、謝罪しなければならないのは私どもの方です」
後ろに春樹が居るのだ、私どもではなく北の領土です、などとは言えない。
「じゃ、お互い様ってことで。 湿っぽいことはやめましょう。 これ、唱和様からです。 預かってきました」
ショルダーバッグから手紙を出すとセノギの前に差し出す。
「ショウワ様から? どういう事でしょうか。 ショウワ様は、本りょ・・・あちらに行かれているはずでは?」
セノギが春樹のことを気にしているのが分かった。
「詳しいことは後で分かります。 それよりこれを先に読んでください」
まだセノギが手紙を手にしていない。 はい、と言って更に手紙を差し出すとセノギが手紙を受け取った。
「今読んで、すぐに行動を起こして下さい。 時間がありません」
セノギが懐かしい領土の折り方をした封筒から手紙を出して読み始めた。
「・・・どういう事でしょうか」
一通り読んだセノギが問う。
「私はそのお手紙を読んでいませんが、唱和様からどのような内容が書かれているかは聞いています。 潰される前にしなくてはいけない事なんです。 すぐに影っていう人に伝えてください。 そして全員が揃ったらもう一度あの番号に連絡をください。 また来ます。 その時に全てをお話します。 セノギさんへの用というのはこの事です」
ポカンとしている春樹に視線を移す。
またもやショルダーバッグから封筒を出すと、セノギの横を通り過ぎて春樹に向かって歩く。
移動中、コンビニで夕飯になる物を買いに入った時に封筒も一緒に買った。 そこに阿秀から借りた六万五千円を入れた。
「先輩、長い間お借りしっぱなしでスミマセンでした。 あの、本当にありがとうございました。 お金のことなんて頭になかったから、すごく助かりました」
両手で封筒を持ち、頭を下げながら春樹に差し出した。
「あ、いや、気にしなくて良かったのに」
ここで見栄を張らなくて男と呼べようか。
そして封筒を受け取りたいが、そろそろ腕が限界だ。 ここで片手を離してしまえばセキを落とすことになるかもしれない。
「あの、紫揺ちゃんちょっと待ってね」
セノギと代わってもらおうと思いセノギを見たが時遅し。
手紙を読み返し、自分が今何をしなくてはいけないのか。 疑問など二の次だと思ったセノギ。
「すぐに知らせてきます。 春樹さん、戻ってきますのでそれまでここに居てください」
そう言って屋敷に向かって足早に戻っていった。
(あ“あ”あ“――― 腕があぁぁ―――)
「先輩どうしました?」
「あ、あは。 そのちょっと。 えっと、わざわざありがとう。 その、ズボンのポケットに入れてくれる?」
後ろを向いて尻のポケットに封筒を入れるように言う。
(ああ・・・情けない、情けなさ過ぎだろう、この姿・・・)
紫揺が尻のポケットに封筒を差し込むと、春樹に抱かれていたセキの顔が見えた。 スヤスヤと眠っている。
「やっぱり起きてられないよね、いっつも朝早くから働いてるんだから」
セキのプクッと膨らんでいる頬をツンツンと指で押すと弾力よく指がかえってくる。
「紫揺ちゃん座ろうよ。 セノギさんが戻ってくるまで」
そうすればセキを膝の上に座らせることが出来る。 腕への負担は大きく減る。
セキを落とさないようにクルーザーを背に、ゆっくりと桟橋に座って足を海に向けて下ろす。 その振動がセキに伝わったのだろうか、セキがうっすらと目を開けた。
「・・・ん」
目をこする。 いやに明るい。
「・・・ん?」
顔を上げると目の前にクルーザーがある。
「ん? ・・・」
「あ、セキちゃん起きた?」
紫揺が春樹の背に話しかけるようにセキに話しかけた。
「・・・シユラ様!」
春樹の身体の上で立ち上がった。
「え? わっわっわ!」
春樹が体勢を崩して
ドボン。
間一髪で紫揺がセキに手を伸ばして、セキが落ちるのは避けられた。
「先輩! 大丈夫ですか?」
浮いてきた春樹が桟橋の脚を持つ。
「だ、大丈夫」
「お手紙のお兄さん・・・ごめんなさい」
「気にしなくていいよ。 ・・・ここ上れそうにないから」
腕はまだ痺れている、上ることなど出来ない。 開き直って岸まで泳いでいった。 岸に上がるとこちらに向かって歩いてきている紫揺とセキに悟られないように、尻のポケットを触った。 封筒の感触はある。 落とさなかったようだ。 良かった。
(それにしても最悪の再会じゃないか・・・)
尻を向けたのも落ちたのもそうだが、わっわっわ、と叫んでしまったのだから。
「お手紙のお兄さん、ずぶ濡れ。 ホントにごめんなさい」
「気にしなくていいって。 目が覚めた?」
「はい」
「会えてよかったね」
セキが嬉しそうに紫揺を見上げる。
「紫揺ちゃん、受け取ったよ」
ポケットの封筒を抜き取って紫揺に見えるようにする。
「有難うございました。 早くお返ししなきゃって気にはなっていたんですけど、先輩に書いてもらったメモを落としちゃったみたいで」
「うん、杢木からそう聞いた。 杢木がメモを拾ったみたいだよ」
「え? じゃ、船の中で落としたのかなぁ」
「で? どうやって番号が分かったの?」
「え? あ、えっと。 あの、友達伝いで・・・それで時間がかかっちゃって」
阿秀から教えてもらったとは言えない。
「そうなんだ。 気にしなくて良かったのに。 って、連絡をくれたことは嬉しいけどさ。 さっきのあの番号は紫揺ちゃんの番号だよね?」
紫揺の番号ゲットだぜ、と一瞬は思ったが、セノギに教えるため番号をメモに書いている時に不安に思った。 不安のまま終わらせたくなどない、確認しなくては。
「違います。 あれは借りたんです」
そう言って操舵席を指さす。
操舵席には長身痩躯な男がこちらを斜に見て立っていた。 桟橋に取り付けているライトがその角度からでも端麗な顔を露わにしている。
やはり紫揺はスマホを手にしていなかったのか。
「だれ?」 敵か?
「ちょっとした知り合いで・・・」
「ふーん」 敵ではない?
「あ、先輩、杢木さんの連絡先を教えてもらえますか?」
「杢木の? どうして?」
「おじさんに良くしてもらったんです。 改めてお礼を言いたいので」
「部屋に戻らなくっちゃ分からないけど・・・」
「じゃ、メモに書いてセノギさんに渡しておいてもらえませんか? またセノギさんに会いますので」
チラッと春樹の背後に目を移した。 セノギがこちらに向かって走って来ている。
「シユラ様、またこちらに来られるんですか?」
「うん。 ここまでだけど。 その時がいつになるか何時になるか分からないけど、あんまり遅い時間じゃなかったら、セキちゃんと一緒にガザンを連れて来てもらえるかな?」
「はい! 遅くてもいいです! 今度は寝ません!」
「ふふ、こんな時間になっちゃってごめんね。 元気にしてた?」
「はい、シユラ様とニョゼさんが居ないのが寂しいけど」
「ニョゼさんなら元気にしてたよ。 セキちゃんも、もうちょっとしたら会えるからね」
「ニョゼさんもうちょっとしたら、戻って来られるんですか?」
「どうだろ?」
ニッコリと笑って答えた。
「シユラ様は?」
「今度会えるといいね」
セキの頭を優しく撫でてやると膝を折り、そっとセキを抱きしめた。
「セキちゃん大好きよ」
(どうして俺の目の前でそんなことをするのかなっ。 それを俺に言ってくれ、俺にそうしてくれ)
女々しいことを考えているのは分かるが、思わずにはいられない。
紫揺がセキを手から離し立ち上がると、やって来たセノギを見た。
「先ほど出て行きました」
影の誰かがケミを連れ戻しに北の領土に向かったということだ。
「有難うございます。 戻ってこられたら、またあの番号にご連絡をください」
セノギが頷く。
「じゃ、先輩、わざわざ来てもらってすみませんでした。 セノギさんに預けても良かったんですけど、直接お礼を言いたくて」
「いや、会えてよかったよ。 安心した」
「ご心配かけちゃって。 それじゃあね、セキちゃん」
「必ず、遅くなっても呼んでください。 ガザンも連れてきます」
「ありがとね」
桟橋を走って行くと、クルーザーに跳び乗る。 阿秀が溜息を吐くとエンジンをかけた。