虚空の辰刻(とき) 第214回
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桟橋を降りて少し歩いたところの波打ち際で待っていると、セキとガザンがやって来た。 さっきベロベロ攻撃をしたというのに、またやられてしまった。
やっと満足したのか、海に尻を向け伏せをするガザンを間に挟んでセキが座った。 ガザンの背中を撫でながら紫揺が言う。
「ごめんね、長い時間待たせちゃって」
太陽が中天を通り越そうとしている。
セキが勢いよく頭を振る。
「どう? アマフウさんのことをお母さんから聞けた?」
「はい。 アマフウ様が私のことを助けてくれたって」
セキの母親はあったことをちゃんと理解してくれていたんだと胸を撫で下す。
「それにトウオウ様から聞きました」
「トウオウさん? トウオウさんが何を?」
「いつもアマフウ様が私を怒っていたのは、セイハさんから守るためだって」
「え?」
「オカシイなとは思っていたんです」
「なにが?」
紫揺が屋敷に来る前の話だと言ってセキが話し始めた。
綺麗に洗ったはずのシーツが時々汚れていたという。 それはマジックで悪戯されたり、ハサミで切られたりというはっきりしたものではなかった。 砂がかかっていたり、皺を伸ばして干していたのに皺が入っていたり。 それだけに訳が分からなかったという。
ただ、それが頻繁に起こるようになった時から、アマフウが物干し場に現れ出したという。 そんな時には気付いたセノギが止めてくれたり、セキ自身も気付いて足を止め姿を隠したりしていた。
だがセキの居る時にアマフウが物干し場に初めて姿を現した。 その日が紫揺とセキが初めて会った日でもあったと言う。
「それってどういうことかな?」
「セイハ様がそれをされていたそうなんです。 その、砂をかけたり皺を入れたり。 だから度が過ぎてきたセイハ様を物干し場に近づけないように、アマフウ様が物干し場にいらしてたって。 そこに私がつい現れてしまったからセイハ様に何かされないように、先にアマフウ様が私をどうにかするように芝居を打っていたと・・・」
「は?」
「えっと・・・、シユラ様が来られるって分かってから、その、セイハ様のご様子がおかしくなられたみたいで・・・」
セキの声がどんどん尻すぼみになり、最後には頭まで下がってしまった。
「あ、いや、セキちゃん。 ごめん。 セキちゃんを責めて “は?” って言ったんじゃないから。 要するに私が来ることでセイハさんの様子が変わってきたってこと?」
「そうみたいです」
「でもその割には心配とかしてくれたなぁ」
ちょくちょくイヤなモノは感じてはいたが。
「それは・・・シユラ様にお力が無かったからだそうです」
言いにくそうに上目遣いで言う。
「・・・納、得」
頭の後ろに手を組んで後ろにごろんと寝ころぶ。
ガザンがベロベロしてほしいのかと言わんばかりに、顔を近づかせかけたので、バネ仕掛けのようにすぐに腹筋で起き上がった。
「でもどうしてそんな話をしたの?」
「えっと。 私がシユラ様と会うためにここに残るのは本当なのか? ってトウオウ様が訊いてこられて、それで “はい” って言ったら、このお話をされたんです」
「そうなんだ」
最後の “シユラに力が無かった” というのは “シユラに自覚が無かった” という風にも取れる。 完全にセキから言わせるつもりだったのだろう。
トウオウがアマフウの潔白を晴らしたかったのか、これからのセキを心配することは無いと言いたかったのか、それとも単に紫揺に自覚がないことの念を押したかったのか。 トウオウが何を考えていたのかは分からないが、どれにしても・・・。
(トウオウさんらしい)
「シユラ様・・・ガザンのことなんですけど」
「うん、なぁに?」
領土へはこの地の物を持って入るのは、固く禁じられた。 だから屋敷内にある物はすべて置いて出て、いわゆる生体はセノギの采配でこの短期間に既にすべて移動し終えていた。 その時にガザンも入っていたが、セキが断固として譲らず、とうとう諦めたセノギ。
『領土に犬が居ないわけではないからねぇ・・・。 土佐犬はいないけどね。 ・・・仕方ない、か。 ガザンは領主の責任でもあるからね、私から領主に頼みます。 一緒に北の領土に帰るといいよ』
そう言ってもらっていたのだそうだが、さっきの出来事で考えを改めねばならないと思ったという。
領土に帰ってガザンがさっきのようになったら、自分では止められない。 もし北の領土でガザンが誰かを傷つけてしまっては・・・。
「それがセキちゃんの言ってた考えなきゃいけないこと?」
「はい」
「うーん・・・。 難しいなぁ。 セキちゃんはガザンが好きだし、ガザンもセキちゃんが好きだし。 セキちゃんがガザンと居たいと思ってセノギさんに言ったくらいなんだから・・・」
こんな時ニョゼならどんな風に言うのだろう。 ニョゼの姿を想像した。 そしてニョゼの口調で頭の中にいるニョゼの口を動かしてみた。
<シユラ様? シユラ様はシユラ様で御座います。 シユラ様の思われる通りにされるのが一番かと>
(かなり都合よく考えてるな、私)
自分はニョゼにはなりきれない。 頭を切り替えよう。
「セキちゃんはどうしたいの? 考えはまとまった?」
「色々考えたんです。 それでもやっぱり、ガザンと一緒に帰っても抑えることは私には出来ません」
さっきの引きずられている姿を思い出すと、そんなことは無いとは決して言えない。
「セノギさんは外に居た犬達をそのままトレーナーに譲りました。 トレーナーは喜んでいましたから、犬たちのことは安心だってセノギさんが言ってました」
「馬や獅子は?」
「馬はどこかのぼくじょう? 獅子はどーぶつえん? を考えられましたけど、こんな広い所で自由にしていたんだからと、はさりぱーく? ってとこに」
馬はどこかの牧場だろう。 セキは動物園を知らないのだろう。 “はさりぱーく” はサファリパークであろう。 動物園の檻の中よりずっと広い。
「よくすぐに行き手が決まったね」
「おかねはイッパイくっ付けたって笑っていらっしゃいました」
「納得・・・」
多分、動物たちの一生分より多い食費や管理費を付けたのだろう。
「シユラ様を待ってる間にガザンに訊いたんです」
紫揺以外の者がこれを聞くと子供の夢物語とでも言うだろう。 だが紫揺は違う。 セキがどれだけガザンのことを分かっているのか知っている。 ガザンの僅かな表情や行動だけでガザンが何を考えているのか分かる目を持っている。 それに心が通じ合っている。
「うん」
「ガザンは私と一緒に居なくてもいい? って」
「・・・うん」
「ガザンは嫌だって」
「うん」
あたり前田のクラッカーだろ。
高校の時に懐かしワードとして流行った言葉が突然頭に浮かんだ。
「それで・・・。 シユラ様と一緒ならどう? って訊いたんです」
「え?」
「シユラ様と一緒なら私が居なくてもいい? って」
それは有り得ない。 絶対に有り得ない。 ガザンがセキと別れられるはずはない。 セキにしても同じだ。
「そしたらガザンが・・・ベロンって」
「あ・・・」
ガザンがセキの胸の内を知ったのだ。
「シユラ様なら私よりガザンを止められます」
セキがガザンを紫揺に託すと言っている。
「ダメだよ、そんなこと。 ガザンのことを一番分かってるのはセキちゃんなんだから」
「・・・でも領土に連れ帰ることはできません。 私にはガザンを抑えられない」
紫揺にもガザンは抑えられない。 だがそんなことは言えない。 セキが断腸の思いでガザンとの別れを決めたのだから。 ただ名を呼ぶことしか出来ない。
「セキちゃん・・・」
「シユラ様、ガザンをお願いできませんか? セノギさんに言えばガザンの行き先を決めてくれます。 でも・・・」
頭を何度も振ってそれは嫌だと示す。
セキのその姿を見ても簡単に犬を預かるなんてことは言えない。 いや、預かるだけでは済まない。 セキはもう北の領土に戻るのだから、ガザンの一生を共に過ごさなければならないということだ。 決してガザンと共に居るのが嫌なわけではない。 だが自分に出来るだろうか。 まだ自分自身のこれからすら考えられない自分に。
「セキちゃん」
ガザン越しに何度も頭を振るセキを抱きしめた。
セキには笑っていてほしい。 それに・・・。
「そっか。 分かった・・・うん」
それに・・・ガザンは獅子から守ってくれた。 それだけでは無い、下見の時も含めて紫揺が何を考えているのかを見透かすように先を取って動いてくれていた。 紫揺が止まると「どうするんだ?」 と問うように紫揺を見てくれていた。
セキとガザンの関係ほどには及ばないだろうが、こんな相棒は他に居ないだろう。
「セキちゃんの大切なガザン。 私が預かる」
もう二度と会えないんだよ、それでもいいの? そう念を押したかった。 でもそんなことを言ってしまうと余計にセキが悲しむ。 それにセキもそれは充分に分かってのこと。
背中に二人の重みを感じた。 「ブフッ」 とガザンが鼻を鳴らす。
カミが何もかもを飲み込んで顔を上げ、目に映るハンの顔を見た。
「リョウガ、兄・・・?」
「そうだ、吾はリョウガ。 ヤナ、吾はお前を守れなかった・・・」
「リョウガ兄!」
カミの手がハンの首に回る。 ハンもカミを抱きしめた。
「すまん、すまん、すまん・・・」
何度もハンが言う。
デッキで二人の様子を見ていた此之葉が息を吐いて目を逸らせる。
「祖はあまりにも大きな罪を犯しました」
「此之葉・・・」
「祖は、時の紫さまのことだけを想っていましたが、そうではありません。 北も・・・北の民も、我が領土の民と同じように苦しんでいたのです」
此之葉の目尻に涙が浮かぶ。
「此之葉、それは此之葉の案じることではない」
紫揺に取り残された阿秀が此之葉に言ったそんな時、紫揺の声が響いた。
阿秀さん! と。
阿秀が振り返った。
ハンに支えられカミがラウンジから出てきた。 ハンの手には二枚のタオルケットが持たれている。 一枚はカミの肩に掛けその肩を抱く手に、もう一枚は反対の手に。 そちらの方は湿っている。 カミが座っていた方だろう。
「此度のことは何と申し上げてよいかも分からぬほど。 言では言い切れぬものでは御座いませんが、心より感謝を申し上げます」
ハンが深く此之葉に礼をすると桟橋を歩き出した。
阿秀を呼びながら桟橋を走って来た紫揺がすかさず足を止めUターンし、セノギの元まで戻った。
「セノギさん、まだ唱和様からのお伝えがあります。 皆さんが聞ける状態になったら教えてください」
「有難うございます」
「洞窟はいつ潰すんですか?」
北の洞を潰す日を知りたい。 その日からあまりにかけ離れた日まで東の洞を本領が放ってはおかないだろう。
「屋敷内の整理はつきました」
「馬や獅子や犬のことですか?」
それはセキから聞いた。
「それもそうですが、株を動かすのは一応、会社として立ち上げておりましたから、そちらを閉める手続きと、動産、不動産も手続きが終わりました。 あとは残っている者が移動すればすぐにでも。 キノラ様とセイハ様は動こうとはされませんでしょうが、この屋敷がもう他の方の所有物となり、洞を潰すと言えばいやでも領土に戻られるでしょう」
領土を捨てることは出来ても、無一文でこの土地に残ることが出来ないことくらい分かっているはずだ。
「じゃあ、今日か明日ってことですか?」
「・・・今日になるかと」
早い。 早すぎる。 本領はいつまで待ってくれるだろう。
紫揺が一つ息をついて「わかりました」 と言うと、踵を返し阿秀の元に向かった。 途中ハンとカミにすれ違ったが、カミはタオルで目を押さえていただけであった。 声を出すこともなく静かに泣いているのだろう。
「あの犬を連れて帰りたいんですけどいいですか?」
「はっ!?」
阿秀が紫揺から豆鉄砲ならず、砲弾をくらわされた。
「皆さんには中に入ってもらって、私たちはデッキにいますから」
「あ、いえ、そのような事でなく・・・」
ではどのようなことだ。
「船に乗せちゃダメですか?」
「いいえ、そういう事ではなく・・・。 その、連れ帰ってどうされると?」
「一緒に居るんです。 飼うんです」
此之葉が紫揺から阿秀に目を移した。 阿秀は顔を俯けその目が塞がれる。 二秒ほど閉じていただろうか、その瞼を開け紫揺を見た。
「・・・分かりました」
「阿秀・・・」
「ですが、あの犬と紫さまは中にお入りください。 デッキに居られて万が一のことがあってはいけませんので」
「でも借り物の船なのに犬を中に入れちゃったら・・・」
「暴れますか?」
「いいえ、そんなことは無いですけど、でも持ち主さんが犬嫌いだったら申し訳ないし・・・」
「そのようなことはお気になさらないでください」
「阿秀・・・」
此之葉が再度阿秀の名を呼ぶが阿秀は此之葉を見ない。 此之葉が何を言おうとしているのかは分かっている。
「じゃ、お願いします」
此之葉をチラリと見るが、頭を下げてしまって目を合わせることが出来ない。
紫揺が此之葉のことを気になりながらもセキとガザンの居る所に戻る。
「どうでしたか?」
「うん。 船に乗せてくれるって」
「良かった」
心底安堵する顔を見せたセキである。
「・・・セキちゃん。 セキちゃんが領土に行っちゃったら会えなくなるね」
こんなことを言うつもりは無かったのに、つい出てしまった。
「はい・・・」
洞を潰すことをセノギから聞いているのだろう。 もう会えないというのを分っていたのだろう。
「手紙にも書いたけど、本当にありがとうね。 セキちゃんと会えてよかった」
「シユラ様・・・」
「セキちゃんのお姉さんみたいになりたかったけど、なれなかった」
自分がニョゼを慕うように、ニョゼが自分にしてくれたように、セキを守り姉のような存在になれればと思っていたが、それは叶わなかった。
「そんなことないです! ・・・シユラ様にこんなことを言っちゃいけないって分かってますけど。 それでもシユラ様のこと大好きです。 シユラ様をお姉さんって思ってもいいなら思いたいです。 でも、五色様をそんな風に思っちゃいけないから・・・」
「こんな頼りのないお姉さんでもいいの?」
「そんなことっ! そんなことないです!」
「うれしい! セキちゃん大好き」
セキを抱きしめる。
「離れていてもセキちゃんのことを想っているからね」
セキがそっと紫揺の身体に手を回した。
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桟橋を降りて少し歩いたところの波打ち際で待っていると、セキとガザンがやって来た。 さっきベロベロ攻撃をしたというのに、またやられてしまった。
やっと満足したのか、海に尻を向け伏せをするガザンを間に挟んでセキが座った。 ガザンの背中を撫でながら紫揺が言う。
「ごめんね、長い時間待たせちゃって」
太陽が中天を通り越そうとしている。
セキが勢いよく頭を振る。
「どう? アマフウさんのことをお母さんから聞けた?」
「はい。 アマフウ様が私のことを助けてくれたって」
セキの母親はあったことをちゃんと理解してくれていたんだと胸を撫で下す。
「それにトウオウ様から聞きました」
「トウオウさん? トウオウさんが何を?」
「いつもアマフウ様が私を怒っていたのは、セイハさんから守るためだって」
「え?」
「オカシイなとは思っていたんです」
「なにが?」
紫揺が屋敷に来る前の話だと言ってセキが話し始めた。
綺麗に洗ったはずのシーツが時々汚れていたという。 それはマジックで悪戯されたり、ハサミで切られたりというはっきりしたものではなかった。 砂がかかっていたり、皺を伸ばして干していたのに皺が入っていたり。 それだけに訳が分からなかったという。
ただ、それが頻繁に起こるようになった時から、アマフウが物干し場に現れ出したという。 そんな時には気付いたセノギが止めてくれたり、セキ自身も気付いて足を止め姿を隠したりしていた。
だがセキの居る時にアマフウが物干し場に初めて姿を現した。 その日が紫揺とセキが初めて会った日でもあったと言う。
「それってどういうことかな?」
「セイハ様がそれをされていたそうなんです。 その、砂をかけたり皺を入れたり。 だから度が過ぎてきたセイハ様を物干し場に近づけないように、アマフウ様が物干し場にいらしてたって。 そこに私がつい現れてしまったからセイハ様に何かされないように、先にアマフウ様が私をどうにかするように芝居を打っていたと・・・」
「は?」
「えっと・・・、シユラ様が来られるって分かってから、その、セイハ様のご様子がおかしくなられたみたいで・・・」
セキの声がどんどん尻すぼみになり、最後には頭まで下がってしまった。
「あ、いや、セキちゃん。 ごめん。 セキちゃんを責めて “は?” って言ったんじゃないから。 要するに私が来ることでセイハさんの様子が変わってきたってこと?」
「そうみたいです」
「でもその割には心配とかしてくれたなぁ」
ちょくちょくイヤなモノは感じてはいたが。
「それは・・・シユラ様にお力が無かったからだそうです」
言いにくそうに上目遣いで言う。
「・・・納、得」
頭の後ろに手を組んで後ろにごろんと寝ころぶ。
ガザンがベロベロしてほしいのかと言わんばかりに、顔を近づかせかけたので、バネ仕掛けのようにすぐに腹筋で起き上がった。
「でもどうしてそんな話をしたの?」
「えっと。 私がシユラ様と会うためにここに残るのは本当なのか? ってトウオウ様が訊いてこられて、それで “はい” って言ったら、このお話をされたんです」
「そうなんだ」
最後の “シユラに力が無かった” というのは “シユラに自覚が無かった” という風にも取れる。 完全にセキから言わせるつもりだったのだろう。
トウオウがアマフウの潔白を晴らしたかったのか、これからのセキを心配することは無いと言いたかったのか、それとも単に紫揺に自覚がないことの念を押したかったのか。 トウオウが何を考えていたのかは分からないが、どれにしても・・・。
(トウオウさんらしい)
「シユラ様・・・ガザンのことなんですけど」
「うん、なぁに?」
領土へはこの地の物を持って入るのは、固く禁じられた。 だから屋敷内にある物はすべて置いて出て、いわゆる生体はセノギの采配でこの短期間に既にすべて移動し終えていた。 その時にガザンも入っていたが、セキが断固として譲らず、とうとう諦めたセノギ。
『領土に犬が居ないわけではないからねぇ・・・。 土佐犬はいないけどね。 ・・・仕方ない、か。 ガザンは領主の責任でもあるからね、私から領主に頼みます。 一緒に北の領土に帰るといいよ』
そう言ってもらっていたのだそうだが、さっきの出来事で考えを改めねばならないと思ったという。
領土に帰ってガザンがさっきのようになったら、自分では止められない。 もし北の領土でガザンが誰かを傷つけてしまっては・・・。
「それがセキちゃんの言ってた考えなきゃいけないこと?」
「はい」
「うーん・・・。 難しいなぁ。 セキちゃんはガザンが好きだし、ガザンもセキちゃんが好きだし。 セキちゃんがガザンと居たいと思ってセノギさんに言ったくらいなんだから・・・」
こんな時ニョゼならどんな風に言うのだろう。 ニョゼの姿を想像した。 そしてニョゼの口調で頭の中にいるニョゼの口を動かしてみた。
<シユラ様? シユラ様はシユラ様で御座います。 シユラ様の思われる通りにされるのが一番かと>
(かなり都合よく考えてるな、私)
自分はニョゼにはなりきれない。 頭を切り替えよう。
「セキちゃんはどうしたいの? 考えはまとまった?」
「色々考えたんです。 それでもやっぱり、ガザンと一緒に帰っても抑えることは私には出来ません」
さっきの引きずられている姿を思い出すと、そんなことは無いとは決して言えない。
「セノギさんは外に居た犬達をそのままトレーナーに譲りました。 トレーナーは喜んでいましたから、犬たちのことは安心だってセノギさんが言ってました」
「馬や獅子は?」
「馬はどこかのぼくじょう? 獅子はどーぶつえん? を考えられましたけど、こんな広い所で自由にしていたんだからと、はさりぱーく? ってとこに」
馬はどこかの牧場だろう。 セキは動物園を知らないのだろう。 “はさりぱーく” はサファリパークであろう。 動物園の檻の中よりずっと広い。
「よくすぐに行き手が決まったね」
「おかねはイッパイくっ付けたって笑っていらっしゃいました」
「納得・・・」
多分、動物たちの一生分より多い食費や管理費を付けたのだろう。
「シユラ様を待ってる間にガザンに訊いたんです」
紫揺以外の者がこれを聞くと子供の夢物語とでも言うだろう。 だが紫揺は違う。 セキがどれだけガザンのことを分かっているのか知っている。 ガザンの僅かな表情や行動だけでガザンが何を考えているのか分かる目を持っている。 それに心が通じ合っている。
「うん」
「ガザンは私と一緒に居なくてもいい? って」
「・・・うん」
「ガザンは嫌だって」
「うん」
あたり前田のクラッカーだろ。
高校の時に懐かしワードとして流行った言葉が突然頭に浮かんだ。
「それで・・・。 シユラ様と一緒ならどう? って訊いたんです」
「え?」
「シユラ様と一緒なら私が居なくてもいい? って」
それは有り得ない。 絶対に有り得ない。 ガザンがセキと別れられるはずはない。 セキにしても同じだ。
「そしたらガザンが・・・ベロンって」
「あ・・・」
ガザンがセキの胸の内を知ったのだ。
「シユラ様なら私よりガザンを止められます」
セキがガザンを紫揺に託すと言っている。
「ダメだよ、そんなこと。 ガザンのことを一番分かってるのはセキちゃんなんだから」
「・・・でも領土に連れ帰ることはできません。 私にはガザンを抑えられない」
紫揺にもガザンは抑えられない。 だがそんなことは言えない。 セキが断腸の思いでガザンとの別れを決めたのだから。 ただ名を呼ぶことしか出来ない。
「セキちゃん・・・」
「シユラ様、ガザンをお願いできませんか? セノギさんに言えばガザンの行き先を決めてくれます。 でも・・・」
頭を何度も振ってそれは嫌だと示す。
セキのその姿を見ても簡単に犬を預かるなんてことは言えない。 いや、預かるだけでは済まない。 セキはもう北の領土に戻るのだから、ガザンの一生を共に過ごさなければならないということだ。 決してガザンと共に居るのが嫌なわけではない。 だが自分に出来るだろうか。 まだ自分自身のこれからすら考えられない自分に。
「セキちゃん」
ガザン越しに何度も頭を振るセキを抱きしめた。
セキには笑っていてほしい。 それに・・・。
「そっか。 分かった・・・うん」
それに・・・ガザンは獅子から守ってくれた。 それだけでは無い、下見の時も含めて紫揺が何を考えているのかを見透かすように先を取って動いてくれていた。 紫揺が止まると「どうするんだ?」 と問うように紫揺を見てくれていた。
セキとガザンの関係ほどには及ばないだろうが、こんな相棒は他に居ないだろう。
「セキちゃんの大切なガザン。 私が預かる」
もう二度と会えないんだよ、それでもいいの? そう念を押したかった。 でもそんなことを言ってしまうと余計にセキが悲しむ。 それにセキもそれは充分に分かってのこと。
背中に二人の重みを感じた。 「ブフッ」 とガザンが鼻を鳴らす。
カミが何もかもを飲み込んで顔を上げ、目に映るハンの顔を見た。
「リョウガ、兄・・・?」
「そうだ、吾はリョウガ。 ヤナ、吾はお前を守れなかった・・・」
「リョウガ兄!」
カミの手がハンの首に回る。 ハンもカミを抱きしめた。
「すまん、すまん、すまん・・・」
何度もハンが言う。
デッキで二人の様子を見ていた此之葉が息を吐いて目を逸らせる。
「祖はあまりにも大きな罪を犯しました」
「此之葉・・・」
「祖は、時の紫さまのことだけを想っていましたが、そうではありません。 北も・・・北の民も、我が領土の民と同じように苦しんでいたのです」
此之葉の目尻に涙が浮かぶ。
「此之葉、それは此之葉の案じることではない」
紫揺に取り残された阿秀が此之葉に言ったそんな時、紫揺の声が響いた。
阿秀さん! と。
阿秀が振り返った。
ハンに支えられカミがラウンジから出てきた。 ハンの手には二枚のタオルケットが持たれている。 一枚はカミの肩に掛けその肩を抱く手に、もう一枚は反対の手に。 そちらの方は湿っている。 カミが座っていた方だろう。
「此度のことは何と申し上げてよいかも分からぬほど。 言では言い切れぬものでは御座いませんが、心より感謝を申し上げます」
ハンが深く此之葉に礼をすると桟橋を歩き出した。
阿秀を呼びながら桟橋を走って来た紫揺がすかさず足を止めUターンし、セノギの元まで戻った。
「セノギさん、まだ唱和様からのお伝えがあります。 皆さんが聞ける状態になったら教えてください」
「有難うございます」
「洞窟はいつ潰すんですか?」
北の洞を潰す日を知りたい。 その日からあまりにかけ離れた日まで東の洞を本領が放ってはおかないだろう。
「屋敷内の整理はつきました」
「馬や獅子や犬のことですか?」
それはセキから聞いた。
「それもそうですが、株を動かすのは一応、会社として立ち上げておりましたから、そちらを閉める手続きと、動産、不動産も手続きが終わりました。 あとは残っている者が移動すればすぐにでも。 キノラ様とセイハ様は動こうとはされませんでしょうが、この屋敷がもう他の方の所有物となり、洞を潰すと言えばいやでも領土に戻られるでしょう」
領土を捨てることは出来ても、無一文でこの土地に残ることが出来ないことくらい分かっているはずだ。
「じゃあ、今日か明日ってことですか?」
「・・・今日になるかと」
早い。 早すぎる。 本領はいつまで待ってくれるだろう。
紫揺が一つ息をついて「わかりました」 と言うと、踵を返し阿秀の元に向かった。 途中ハンとカミにすれ違ったが、カミはタオルで目を押さえていただけであった。 声を出すこともなく静かに泣いているのだろう。
「あの犬を連れて帰りたいんですけどいいですか?」
「はっ!?」
阿秀が紫揺から豆鉄砲ならず、砲弾をくらわされた。
「皆さんには中に入ってもらって、私たちはデッキにいますから」
「あ、いえ、そのような事でなく・・・」
ではどのようなことだ。
「船に乗せちゃダメですか?」
「いいえ、そういう事ではなく・・・。 その、連れ帰ってどうされると?」
「一緒に居るんです。 飼うんです」
此之葉が紫揺から阿秀に目を移した。 阿秀は顔を俯けその目が塞がれる。 二秒ほど閉じていただろうか、その瞼を開け紫揺を見た。
「・・・分かりました」
「阿秀・・・」
「ですが、あの犬と紫さまは中にお入りください。 デッキに居られて万が一のことがあってはいけませんので」
「でも借り物の船なのに犬を中に入れちゃったら・・・」
「暴れますか?」
「いいえ、そんなことは無いですけど、でも持ち主さんが犬嫌いだったら申し訳ないし・・・」
「そのようなことはお気になさらないでください」
「阿秀・・・」
此之葉が再度阿秀の名を呼ぶが阿秀は此之葉を見ない。 此之葉が何を言おうとしているのかは分かっている。
「じゃ、お願いします」
此之葉をチラリと見るが、頭を下げてしまって目を合わせることが出来ない。
紫揺が此之葉のことを気になりながらもセキとガザンの居る所に戻る。
「どうでしたか?」
「うん。 船に乗せてくれるって」
「良かった」
心底安堵する顔を見せたセキである。
「・・・セキちゃん。 セキちゃんが領土に行っちゃったら会えなくなるね」
こんなことを言うつもりは無かったのに、つい出てしまった。
「はい・・・」
洞を潰すことをセノギから聞いているのだろう。 もう会えないというのを分っていたのだろう。
「手紙にも書いたけど、本当にありがとうね。 セキちゃんと会えてよかった」
「シユラ様・・・」
「セキちゃんのお姉さんみたいになりたかったけど、なれなかった」
自分がニョゼを慕うように、ニョゼが自分にしてくれたように、セキを守り姉のような存在になれればと思っていたが、それは叶わなかった。
「そんなことないです! ・・・シユラ様にこんなことを言っちゃいけないって分かってますけど。 それでもシユラ様のこと大好きです。 シユラ様をお姉さんって思ってもいいなら思いたいです。 でも、五色様をそんな風に思っちゃいけないから・・・」
「こんな頼りのないお姉さんでもいいの?」
「そんなことっ! そんなことないです!」
「うれしい! セキちゃん大好き」
セキを抱きしめる。
「離れていてもセキちゃんのことを想っているからね」
セキがそっと紫揺の身体に手を回した。