虚空の辰刻(とき)  第213回

大福りす
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第213回



「セノギさん、寝込んでたんですよね? あの人がセノギさんを助けるために、長時間あの冷えにあたっていたって仰いましたよね?」

「はい・・・」

「それって何ですか? 私も今その冷えにあたってたんです。 だからそれを知りたくて」

それは北の領土の話だ。 それを紫揺に言っても分かるまい。 だが邪険に出来るはずもない。

「我が領土にはヒトウカというものがおります」

「あの綺麗な仔ですよね。 光り輝くシカですよね」

「え? ご存知なのですか?!」

セノギが驚いたのと同じように、ゼンとケミも驚きの目で紫揺を見る。

「ヒトウカの話は最初にムロイさんから聞きました。 えっと・・・ヒトウカと会ったのは二回? 三回かな? うーん、ヒオオカミとごっちゃになちゃってます」

「ヒ、ヒオオカミ!? ヒオオカミと会ったと?」

セノギが今にも眼球を落としそうになっている。 ゼンとケミにしてもそうだ。

「はい。 で? ヒトウカがなんですか?」

セノギとゼン、ケミの驚きなど知ったことではない。

「シ、シユラ様・・・」

セノギの顔が蒼白になり、今にも倒れそうになっている。

「ムラサキ様は、ヒトウカとヒオオカミを見られたのですか?」

ゼンが問う。

「はい。 ヒトウカは返事をしてくれませんでしたけど、ヒオオカミとは話しました。 でも私が訊きたいのはそんな事じゃないです」

そんなこと? ヒオオカミと話した? ゼンとケミの顔がセノギと同じように蒼白になっていく。

「セノギさん、あの冷えは何ですか?」

セノギの蒼白を無視して紫揺が訊く。

「・・・あ」

あれは、と説明をしたいが、驚きに二の句が出ない。

「腹立つんですよね」

阿秀には北の者たちの驚く理由は分からなかったが、それでも何かあるのだろうと紫揺に視線を向けていたし、セノギそしてゼンとケミがずっと見ていた紫揺に再度濃い視線を送る。

「分からない事に腹が立つんです。 あの冷えは何だったのか。 そんなわけも分からないものに自分がやられたってことに、もっと腹が立つんです。 だから教えてください」

「あれはヒトウカの冷えに御座います」

ハンとカミを残し桟橋に戻ってきたダンの声であった。

「ヒトウカの?」

ダンに目を移した紫揺。

「セノギもハンも深山に入りました。 深山にはヒトウカが居ります。 そのヒトウカの残す冷えにセノギとハンがあたりました」

「んー? 私が会った仔にはあんな冷えは感じなかったんですけど?」

「仔? それではそれは仔だからでしょう」

「でも抱きしめた時にもなんともなかったしなぁ・・・」

セノギ、ゼン、ケミが今にも卒倒しそうになっている。 ダンにしてもそうだが、何とか食い止める。
北の者たちを見ることなく、ずっと紫揺を見ていた阿秀だったが、北の者たちの様子がおかしいどころか、尋常ではないことにようやく気付いた阿秀。 北でも何やらやらかしていたのかと苦い顔をした。

「親になれば近づくことも出来ませんし、深山ですのでヒトウカは群れでおります。 その仔は多分、何らかのことで群れから離れてしまっていたのでしょう」

「そうなんだ。 そっかー」

あまりに気軽に言う。

「分かったような気がします」

ダンの説明の意味が分かった。
ヒトウカ、それを漢字に置き換えると “氷凍鹿” だろう。
セイハからもヒトウカの説明は受けていた。

『寒さをこの上なく好む鹿。 一歩踏み出してその足元に水があればその水が氷に代わる。 土であればそこにある僅かな水分を氷に変える』 と。

そこに足を踏み入れればその残滓がある。 それをハンが吸収してしまったのか、勝手に入り込んでしまったのかそれは分からないが、根源が分かった。

「スッキリしました」

いや、紫揺の他は誰もスッキリなどはしていない。
特に影と呼ばれる今ここに居るゼン、ケミ、ダンにしては、紫揺がヒトウカと会ったことすら知らなかったし、抱きしめたことも。 ましてやヒオオカミと話をしたなどとは全く以って知らない話であった。 それにヒオオカミ、獣と話をするということに疑問を覚えるが、それこそ北の領土が欲した五色の力なのかもしれない。

「吾らは・・・吾らの目や耳は何をしておったのだろうか」

ポツンとゼンが言った。

阿秀が頭を下げて頬を緩める。
セノギも影と呼ばれる者たちもきっと紫揺に振り回されたのだろうと。


「では、よろしいですね?」

立っているカミが頷く。

『カミ、カミ、頼む。 今度こそお前を救わせてくれ。 頼む』
ただ涙を落としながらカミを抱きしめ『すまん、すまん』 と謝っていたハンがそう言った。 ハンが何を言っているのか分からない。 だがもういい。 考えるのに疲れた。 悶着に疲れた。

此之葉の二度目の指が動いた。

「ゆるりと浮上し水面(みなも)に上がり、そなたの泉と溶けあい、其がそなたのものとなる。 そなたの深淵、我が閉じし」

暫く待ってから指を離したが、それは今までの四人の中で一番長かった。
ガクッと下がった顔に身体が揺れる。

「支えて座らせてあげてください」

後ろに立っていたハンがカミの身体をゆっくりとタオルケットの敷かれたソファーの上に座らせる。
ソファーを海水で濡らすわけにはいかない。 紫揺と此之葉が使っていたタオルケットをセノギが申し出て敷いていた。 阿秀たちにとってもこの船は借り物である。 諾と言うのは当たり前であろう。
此之葉がカミの顔を覗き込む。 瞼の奥で眼球が右に左に動いている。 カミの手を取ってやると、その手に力が入っているのが分かる。


(誰だ?)

ぼんやりとした輪郭で誰かがカミを覗き込んでいる。 身体が持ち上げられ揺すられる。

『ヤナ、ヤナ』

(なん、だ?)

それだけですぐに暗転し、次は一番に声が聞こえた。

『うるさい!』

今度はハッキリと見える。 カミの父親だ。 途端、頭に激痛が走った。
カミの顔が歪められるのをじっと此之葉が見ている。

『やめて! やめて!』

父親を止めようとした母親が蹴られ、身体を壁に打ちつけそのまま倒れた母親を父親が足蹴にしている。

(お母?)

瞼の中のカミがそっと側頭部を触った。 ヌルっという感覚が今のカミに感じる。 瞼の中のカミが側頭部に充てた手を見る。 血がべっとりとついている。
途端、蹴り上げられた。 小さな身体が飛び、身体全身を木戸に打ちつけた。 背面と今度は後頭部も打った。 一瞬 「ウグッ」 と言ったが、それ以上何も発しない。 ズルズルと木戸に落ちていく。

『(まただ・・・)』 

(・・・また?)

諦めた思いが今のカミに伝わり、再び暗転した。

『これは・・これはどうした?』

驚いた目をして瞼の裏のカミの手を取っている。

(・・・?)

『なんでもない』

『何でもなくない! これ程の痣が、なんでもなくないなどとは無いだろ!』

『声を荒げないで! また父さんが怒る!』

(父さん? お父が? お父が怒る? ・・・痣?)

『父さん? オジさんがこの痣を作ったのか!?』

(オジさん? 吾のお父をオジさんと呼ぶ?)

また暗転した。

『オバさん、リョウガ兄は今日もいない?』

『ヤナ、ごめんよ。 ヤナを助けるってそう言ってたのは確かだからね。 さ、父さんがいつ通るか分からない。 家にお入り』

ヤナが頭を振る。

『ヤナ・・・』

『母さんを一人に出来ない』

そう言うヤナの顔には痣が幾つもある。 ヤナの母親である我が妹にも何度も家を出るように言っているのに、妹はそれに応じようとしない。 それどころか、今、腹が大きくなってきている。 あの状態で腹を蹴られでもしたら・・・。

『ヤナ分かっているだろう? 母さんのお腹にはヤナの妹か弟がいる。 母さんのお腹が蹴られたら、お腹の子はいなくなってしまう。 母さんをここへ連れておいで。 二人でここへおいで』

ヤナが再度頭を振る。

(・・・そうだ。 お母の姉さんとオジさんが助けに来てくれたんだ。 そうしたらお父が・・・)

カミの父親が刃物で母親の姉の伴侶を刺し大怪我を負わせた。 あの時もまだ臥せっていた。

(だから、頼ってしまってはお母の姉さん・・・オバさんにまた迷惑がかかると思ったんだ)

母親の腹が大きくなるにつれて、母親に手足を上げる回数が減ってきた父親。 その分、瞼の裏のカミであるところのヤナへの仕打ちが酷くなっていった。 そしてオジを刺した時から刃物も使うようになった。

『ヤナ・・・お前はいい子だ。 そうだ。 じっとしてろ』

肩に腕に足に背中に腹に刃物を這わせられた。 血が滴るのを見て父親の目がどんどんと輝いていく。 その傷の深さはされるごとに深くなっていった。

『くっくっく、声を出さんぶん、よう血が出よるわ。 ほら、見てみぃ。 面白かろう』

カミの身体が小刻みに震えてきた。
此之葉がカミの横に添い背中をさすってやる。

夜明けすぐ山に登った。 父親はまだまだ起きてこないことは分かっている。 母親を一人置いていても心配はない。 どれだけ打ち身があろうともそれは毎朝の日課のようなものだった。
まだ山など歩けない幼いころからの習慣が今や日課となっていた。
そしてそこに居るはずの人の姿を探すが今日もいない。

『リョウガ兄・・・』

(・・・ああ、そうだ。 まだ赤子の吾の身体を揺すってあやしていてくれていたのはリョウガ兄。 まだ山になど登れない吾を背負って毎日山に登ってくれたのもリョウガ兄・・・)

『リョウガに逢いたいか?』

女の声がした。
驚いて振り向くと全身黒ずくめ、目だけを出している姿の五人が目に入った。 その中で一歩前に出ている女が続けて言った。

『逢わせてやることはできる』

大きく目を見開いた。

『だが話は出来ぬ。 そしてただの一度だけ。 見るだけだ』

『・・・どう、して』

『お前を吾らの仲間に迎えたい。 その交換条件と思えばよい』

『仲間?』

『吾らと共に動くということだ』

『・・・母さんは?』

『連れては行けぬ』

『母さんを一人置いてなんていけない』

『では、あのまま傷をつけられて暮らすと言うのか?』

『どうしてっ・・・』

『どうして知っておるのかと訊きたいのか? 吾らはお前のこともお前のお父のことも全て知っておる。 お前のお父がリョウガのお父を刺したこともな』

『・・・』

『安心せい。 お前が吾らの仲間となるならば、お前のお母を安全な所に移してやる』

『え?』

『いまお前のお父はお前ひとりを傷つけておるが、子を産めばお母がどうなるか想像が出来よう。 そして生まれてきた子もな』

考えてもいなかった。 赤子は泣くもの。 父さんが寝ていようがかまわず泣く。 そうなれば母さんも赤子も・・・。

『母さんと赤子を救ってくれると言うの?』

『ああ。 そしてお前がこれから受ける傷からもな。 迎えられる気があるのならば吾の手を取れ』

すっと真っ直ぐに腕が差し出された。
手を出そうとしてその手が止まった。 今の話しからは母親とは一緒に居られない。 でもそれは自分の我儘。 一瞬の躊躇はすぐに解かれた。 女の手を取った。
女が膝をつきヤナを抱き寄せる。

『痛かったであろう。 泣きもせず、よう耐えた』

見ず知らずの女からそんなことを言われ、戸惑うしかなかった。

女が立ち上がり、ヤナを持ち上げると男の肩に乗せた。

『あとは頼む』

女がそう言うと、他の三人と共に山を駆け下りていった。

『あの者たちが、今からお前のお母を安全な村に連れてゆく。 支え合って暮らしを立てている村だ。 安心して子も産めよう。 リョウガのお母にも心配をかけぬよう伝える。 案ずるな』

そしてその後、木々の枝を跳んでいるリョウガの姿を見た。

(リョウガ兄! ・・・え? 違う・・・あれは、ハン? ・・・リョウガ兄は・・・ハン?)

『泣くでない。 また逢える』

『本当に?』

『ああ、だがそれは大人になってからになるがな』

そして唱和の元に連れて行かれた。


此之葉がさすっていた手を止め、屈んでカミの顔を見た。 顔は強張っていない。 そっと手に触れる。 手の力も抜けている。 此之葉に手を触れられたからだろうか、カミの瞼がゆっくりと開けられ、続いて顔が上がってくる。

「いかがですか? 気分が優れないなどとありませんか?」

カミからの返事はない。
此之葉がカミの手をそっと包み込む。 

「思い出されたことは良いこともありましょうが、良くないこともありましょう。 ですがそれは過ぎ去ったことです。 あったことを消すことはできませんが、これからは影としてではなく、一人の女人として生きてください」

カミの目は見開かれたと言ってもどこを見ているのか分からない。 此之葉の声も耳朶に触れていないかもしれない。
此之葉がハンを見て頷くと立ち上がった。 その場をハンに譲りラウンジを出る。

デッキで様子を見ていた紫揺が入れ替わりにラウンジに入り、ハンにケミが使っていたタオルケットとタオルを渡しラウンジを出た。

桟橋を歩こうとしかけた紫揺の後ろに阿秀が付こうとしかけたのを、手を上げて止めた。

「もう全然何ともないですから」

そう言い残すとセノギの元まで走る。
紫揺に拒まれては後を追うことも出来ない。 ただ片手で両方のこめかみを押さえるしかなかった。

「セノギさん、セキちゃんを呼んできてもらえますか?」

「承知いたしました」