国津道 第9回
- 国津道(くにつみち)- 第9回
「うーん・・・苦しめる気はないんだけどな。 ん、分かった。 祐樹君の話を聞こう」
「お前に話すことなんてないっ!」
「祐樹、そんな言い方しないで」
「あ、気にしないで下さい。 それよりちょっと訊かなきゃいけないし、誤解も解きたいんで任せてもらえませんか?」
でも、と言う詩甫の言葉に祐樹が被せる。
「誤解もへったくれもないっ! オレは聞いたんだからな!」
「そっか。 聞いたのか。 んじゃ、その聞いたことを教えて欲しいんだけど?」
「お前に言う必要はないっ!」
「そんなつれないことは言わないで欲しいな。 取り敢えずはお近付きのしるしにどうぞ」
手を差し出された。 その手にカブトムシが摑まれている。 前回来た時に見つけられなかったカブトムシが。
「あ・・・」
「ここに来る途中で見つけちゃった」
そろそろと祐樹が手を出す。 その手にカブトムシを渡されると逃げられないよう、すぐにもう一方の手でカブトムシを掴んだ。
「も、貰うものは貰ってやるけど騙されないからな」
上目づかいで浅香を睨みつける。 少々、目の力が先程より抜けているが。
「騙してなんてないよ」
「お前の言う・・・お前と “わたくし” が言ってた朱葉姫はもう居ないんだからな、昔の人なんだからな、姉ちゃんはどこにも行かないんだからな」
だからその “わたくし” とは誰ぞや。 心の中で浅香が首を傾げるが、その “わたくし” という知らない人物が出て来た時点で、詩甫が話したのではないだろうとかと思った。
一応確認のために詩甫を見る。 その視線が話したのか? という風に訊いている。 思わず詩甫が首を振る。
そうか、言っていないのか。
浅香が祐樹に視線を戻す。
「うん、お姉さんはどこにも行かないよ」
「・・・え」
いともあっさりと同意してきたが、簡単に信じられるものではない。
「ぞ・・・“ぞうし” なのに “あさが” なんて嘘ついて、姉ちゃんだけじゃなくオレも騙そうとしてるのかよっ」
「うーん、そう言われても僕、浅香なんだけどな。 じゃ、証明」
そう言ってポケットから財布を取り出すと、その中に入っていた運転免許証を祐樹に見せる。
顔写真入り、確かに浅香と書いてある。 “ぞうし” とはてっきり苗字だと思っていて “浅香” と嘘をついていると思ったが、下の名前の可能性もあると一瞬思ったが、免許証にはフルネームが書かれている。 浅香亨と書かれていた。 どこにも “ぞうし” の文字がない。
「お前・・・双子か? それとも偽の免許証か?」
どこまでも疑り深い。
「双子じゃない。 それに、困ったなー、免許証を信じてもらえないのならどうしようもない」
「あの・・・」
「ああ、気にしないで下さい。 男は男同士で解決しますので」
「え?」
男は男同士と言われた。 今この嘘つき曹司もどき浅香は自分のことを子供扱いしないで男同士と言った。
母親はいつも『祐樹はまだ子供だから』 口癖のように言っていた。 子供だから宿題をするのは当然、子供だから何もかもお父さんの許しを得てから、子供だから早く寝なさい。
「小川のある方に行くとサワガニもいるよ。 そこでサワガニを捕りながら男同士で話してみない?」
「え? カニ?!」
カブトムシに次いでサワガニの二段攻撃スパイス。
「うん、行ってみない?」
「ちょ、ちょっとだけなら付き合ってやる」
「嬉しいな。 じゃ、お付き合いください」
詩甫にここで待っているようにと視線を送ると、祐樹と共に行ってしまった。
詩甫から見れば、祐樹はカブトムシとカニに簡単に釣られたようだ。
男の子のことは、昔男の子だった浅香に任せた方がいいのかもしれないと二人を見送った。
一人になった。
そう言えば瀞謝の頃にはいつもここには一人でいたのだった。
緑を見回す。
「ああ・・・」
そうだった、これほどに緑があったのだった。 緑を見回して気付いた事があった。
あの時と変わっていないと言うと嘘になる。 ここに争う人間が足を踏み入れなければ、木々の年輪が広がり、もっと大きくなっていただろう。
だがそうではなかった。
「焼き払われた?」
この地の歴史は知らない。 だが過去に色んなところで焼き討ちがあった事は知っている。
此処もそうなのかもしれない。 どんな争いごとがあったのかは知らないが、木々が焼き払われた。 その炎は社に延焼してもおかしくはない話である。 だが社は焼け跡などなく建っている。
「・・・朱葉姫が社を守られた?」
朱葉姫の力などということは詩甫に分かるはずもなかった。 だが誰しも漠然とそう思うのではないだろか。
詩甫があたりをずっと見まわす。
どれだけの時が経ったのだろうか、祐樹の声が聞こえた。
「姉ちゃん!」
呼ばれたと思った時には、両手で何かを包むように詩甫の前まで走って来ていた。
「見て見て! サワガニ!」
カブトムシを胸元辺りに付けて走って来て両手を広げて見せる祐樹。 その手の中でサワガニが数匹、横歩きをしながら今にも祐樹の掌から落ちそうになっている。
「わ、すごい」
「だろ?」
「うん、お姉ちゃん、サワガニって見たことなかった。 へぇー、可愛いね」
祐樹の掌から落ちそうなサワガニを、浅香が祐樹の掌に戻している。
「でも祐樹、よく触れるね」
「そりゃ、男だもんね」
すかさず浅香が言う。
祐樹が満面の笑みで詩甫を見る。
「姉ちゃんは触れないの?」
「うぅぅ・・・可愛いけど・・・」
つつく事さえ出来ない。 見ているだけである。
「祐樹君どうする?」
「あ・・・逃がしてくる」
「え? 祐樹、いいの?」
「うん」
祐樹が木々の中に消えて行った。 小川までは難しい道順ではないようだ。
男同士の話とやらはどうだったのだろうかと、詩甫が浅香を見る。
「祐樹君に心を開いてもらっただけです。 まだ何も訊けていません、これから訊きます」
とは言ったものの、祐樹のガードは硬かった。
浅香が曹司のことについて何を言っても疑い、何を訊いても答えることは無かった。 祐樹が詩甫を守ろうとしているのがあからさまに分かるほどであった。
とっとと、何もかもを説明し、その説明に詩甫に首を縦に振ってもらえば済むであろうが、浅香とて祐樹を巻き込むわけにはいかないと考えている。
「今日はもう帰られるんですか?」
「はい」
浅香がこれから訊くと言ったが、それに応えられない。
「そっか、では次回まで取り置きですね」
「すみません、私も帰ったら訊いておきます」
「有難うございます。 でもあまり強引に訊かないで下さいね、あくまでも僕の事ですから」
「でも・・・」
「気にしないで下さい。 うん、そうだな、野崎さんは訊かなくていいです」
「え・・・」
「姉弟仲に亀裂が入るのを望んでいませんから。 この一件でそんなことにでもなったら朱葉姫が気にしますし。 どうせ曹司のせいなんでしょうから」
木々の中から祐樹が姿を現した。
今の話が無かったかのように浅香が祐樹に顔を向ける。
「ちゃんと逃げて行った?」
「うん、捕った時みたいに石の近くに置いたら、石の下に潜っていった」
「おっ、上等! なかなかサワカニの気持ちが分かるようになってきた」
褒められて照れ臭いのか、明後日を向いてしまった。
「うーん、じゃ今日のところはここまでにしようか」
そこそこの時間が経っていたし、祐樹が曹司のことになると浅香をねめつける。 浅香も小学生に無理をさせる気などさらさらない。 それに詩甫はもう帰ると言っていた。
「なんだよそれ」
「今日のゴングは鳴っちゃったからね、次回持ち越し」
「・・・持ち越し? ・・・宿題か?」
詩甫が笑いを抑えるように上下の唇を噛む。 笑ってはいけない。 この状況に置いてそう考える。 宿題・・・それ程に母親から言われているのだろうから。 それでもこの義弟を可愛く思ってしまう。
「ね、祐樹。 浅香さんはいい人よ。 嘘なんて言わないよ?」
祐樹が口をひん曲げて詩甫を見る。
どことなくだが分かっている、でも認められない。 そんな目をしている。
浅香のことを祐樹はどこかで分かってくれているのか。 浅香が小川でどんな話をしたかは知らないが、祐樹に心を開いてもらったと言っていた。
詩甫が祐樹に笑みを送る。
「今日は帰ろうか」
「うん」
「あれ、どうしようか、な」
祐樹も同じことを考えていたのだろう、詩甫の視線の先に重なっている。
何のことだろうかと浅香が詩甫の目の先を追うと竹箒やバケツがある。
そういうことか。
「どうします?」
「出来ればここに置いておきたいんですけど」
「ですよね。 これ持って電車は目立ちますもんね。 お社の裏にでも置いておきましょう」
浅香が竹箒を持つとすぐに祐樹が雑巾の入っているバケツを持った。
「お、ありがとう」
「オレと姉ちゃんが持ってきたんだしな」
祐樹と二人で掃除グッズを持つと社の裏に回った。 祐樹が泥のようなバケツの中の水から雑巾を取り出すと、浅香がバケツを手にして中の水をグルグル回し景気よくその泥水を撒いた。 それでもバケツの下に泥が沈殿してしまっている。
「わぁ、失敗」
「下手くそ。 小川で洗ってくる。 雑巾もこのままじゃ駄目だから」
おニューの雑巾が真っ黒になっている。
「よく気が付くねー、じゃ、頼む」
祐樹は小川に、浅香は掃除グッズが飛んで行かないように、押さえるための頃合いの石を探し出した。
社の裏からバケツを手にして出て来た祐樹の後姿を追っていた詩甫。 その姿が木々の中に入って行く。
「そっか。 小川のお水を使えばいいのか」
そこそこの水量があるのだろう。 次回からはミネラルウォーターは必要ないようだ。
空のペットボトルを置いていた所に行くと、一つ一つを靴の下で潰して袋の中に入れる。
祐樹が戻ってくると既に竹箒には重石がしてあり、祐樹が洗ってきたバケツにも中に雑巾を入れ、その上に重石が入れられた。
祐樹と浅香それぞれが動いている間に詩甫がお供え物を下げる。 一つを和菓子屋の袋に入れ、もう一つをエコバッグに入れていると祐樹と浅香が戻って来た。
「お下がりになっちゃいますけど、荷物にならなければ、貰って頂けないでしょうか」
供え物は二つある。 男が和菓子を食べるかどうか分からないが。
「おっ、有難く頂きます」
出された紙袋を丁寧に受け取る。
「山の下までお送りしましょう」
そう言えば浅香は何のためにここに来たのだろうか。
「浅香さんは?」
「雑草抜きに来ましたので」
やはり社までの雑草を浅香が抜いていたのか。
「オレが姉ちゃんを守るんだから、お前が来る必要はない」
「祐樹!」
祐樹の浅香に対しての態度、呼び方、全てにおいて詩甫が声を上げる。
「あ、気にしないで下さい」
「でも・・・」
浅香が祐樹の胸元を指さす。
「いつの間にかカブトムシ居なくなっちゃったね」
「あ・・・」
胸元にとまっていたカブトムシが居なくなっている。
「残念だったね」
口を尖らせると「姉ちゃん、帰ろう」 と言って、祐樹がさっさと歩き出した。
浅香にすまなさそうな顔を残して詩甫が歩きだす。 それを笑顔で送った浅香だった。
それからは祐樹に促され、隔週で社に出向いた。
何故祐樹が行きたがるのかは分からなかったが、行く度に祐樹が枯葉を掃き供養石に雑巾をかける。 詩甫が社の格子の一つ一つを拭く。 そう出来る切っ掛けを作ってくれたことは嬉しかった。
祐樹からは毎週と言われたが交通費がかさばる。 金銭的な問題から隔週ということにした。
あれから浅香とは社で会っていない。 連絡もなかった。 もしかしたら、色んなことに奔走しているのかも知れない。
あの時から祐樹は朱葉姫のことを詩甫に訊けなかった。
その内に祐樹の定期が切れる日になった。
「姉ちゃん、夏休みの間泊まっちゃいけない?」
「祐樹・・・」
どれだけ実家を疎んでいるのだろうか。
「お義父さんとお母さんが嫌なの?」
「・・・姉ちゃんと一緒に居たいだけ」
それは実家に居たくないということだろう。
「お昼ごはん、お姉ちゃんの作ったお弁当でいい? 冷めちゃうけど」
母親なら温かいものを祐樹に食べさせるだろうに。
祐樹がブンブンと首を振る。
「姉ちゃん、袋ラーメン買ってくれる? そしたら自分で作る。 作り方教えて」
湯など沸かしたこともない。
夏休みに入り家に帰った時、同級生の集団と会った。 その時に昼ご飯の会話になったのだった。
『うちは、お母さんが仕事に出る前にオムライスや何かを作ってる』
『わっ、贅沢』
『なんでだよ』
『オレん家なんておにぎりだけ』
『それも贅沢だろ。 オレん家は、母ちゃんが勝手にカップ麺を食べとけって言うし』
『カップ麺? 金持ちぃ。 オレん家は袋ラーメンだよ、しけてる』
祐樹にとってはある意味、鮮烈な話だった。
夏休みに限らず、給食の無い日は当たり前に母親が昼ご飯を作っていたのだから。
『カップ麺は金持ちなのか?』
食べたことは無かったが、母親と買い物に行くと目にしていたし、コマーシャルでも見ていたが袋ラーメンも然り、値段までは見ていなかった。
『おーよ、オレも袋ラーメン卒業させてほしい。 憧れのカップラーメン』
そんな風に聞いていた。
「うーん・・・苦しめる気はないんだけどな。 ん、分かった。 祐樹君の話を聞こう」
「お前に話すことなんてないっ!」
「祐樹、そんな言い方しないで」
「あ、気にしないで下さい。 それよりちょっと訊かなきゃいけないし、誤解も解きたいんで任せてもらえませんか?」
でも、と言う詩甫の言葉に祐樹が被せる。
「誤解もへったくれもないっ! オレは聞いたんだからな!」
「そっか。 聞いたのか。 んじゃ、その聞いたことを教えて欲しいんだけど?」
「お前に言う必要はないっ!」
「そんなつれないことは言わないで欲しいな。 取り敢えずはお近付きのしるしにどうぞ」
手を差し出された。 その手にカブトムシが摑まれている。 前回来た時に見つけられなかったカブトムシが。
「あ・・・」
「ここに来る途中で見つけちゃった」
そろそろと祐樹が手を出す。 その手にカブトムシを渡されると逃げられないよう、すぐにもう一方の手でカブトムシを掴んだ。
「も、貰うものは貰ってやるけど騙されないからな」
上目づかいで浅香を睨みつける。 少々、目の力が先程より抜けているが。
「騙してなんてないよ」
「お前の言う・・・お前と “わたくし” が言ってた朱葉姫はもう居ないんだからな、昔の人なんだからな、姉ちゃんはどこにも行かないんだからな」
だからその “わたくし” とは誰ぞや。 心の中で浅香が首を傾げるが、その “わたくし” という知らない人物が出て来た時点で、詩甫が話したのではないだろうとかと思った。
一応確認のために詩甫を見る。 その視線が話したのか? という風に訊いている。 思わず詩甫が首を振る。
そうか、言っていないのか。
浅香が祐樹に視線を戻す。
「うん、お姉さんはどこにも行かないよ」
「・・・え」
いともあっさりと同意してきたが、簡単に信じられるものではない。
「ぞ・・・“ぞうし” なのに “あさが” なんて嘘ついて、姉ちゃんだけじゃなくオレも騙そうとしてるのかよっ」
「うーん、そう言われても僕、浅香なんだけどな。 じゃ、証明」
そう言ってポケットから財布を取り出すと、その中に入っていた運転免許証を祐樹に見せる。
顔写真入り、確かに浅香と書いてある。 “ぞうし” とはてっきり苗字だと思っていて “浅香” と嘘をついていると思ったが、下の名前の可能性もあると一瞬思ったが、免許証にはフルネームが書かれている。 浅香亨と書かれていた。 どこにも “ぞうし” の文字がない。
「お前・・・双子か? それとも偽の免許証か?」
どこまでも疑り深い。
「双子じゃない。 それに、困ったなー、免許証を信じてもらえないのならどうしようもない」
「あの・・・」
「ああ、気にしないで下さい。 男は男同士で解決しますので」
「え?」
男は男同士と言われた。 今この嘘つき曹司もどき浅香は自分のことを子供扱いしないで男同士と言った。
母親はいつも『祐樹はまだ子供だから』 口癖のように言っていた。 子供だから宿題をするのは当然、子供だから何もかもお父さんの許しを得てから、子供だから早く寝なさい。
「小川のある方に行くとサワガニもいるよ。 そこでサワガニを捕りながら男同士で話してみない?」
「え? カニ?!」
カブトムシに次いでサワガニの二段攻撃スパイス。
「うん、行ってみない?」
「ちょ、ちょっとだけなら付き合ってやる」
「嬉しいな。 じゃ、お付き合いください」
詩甫にここで待っているようにと視線を送ると、祐樹と共に行ってしまった。
詩甫から見れば、祐樹はカブトムシとカニに簡単に釣られたようだ。
男の子のことは、昔男の子だった浅香に任せた方がいいのかもしれないと二人を見送った。
一人になった。
そう言えば瀞謝の頃にはいつもここには一人でいたのだった。
緑を見回す。
「ああ・・・」
そうだった、これほどに緑があったのだった。 緑を見回して気付いた事があった。
あの時と変わっていないと言うと嘘になる。 ここに争う人間が足を踏み入れなければ、木々の年輪が広がり、もっと大きくなっていただろう。
だがそうではなかった。
「焼き払われた?」
この地の歴史は知らない。 だが過去に色んなところで焼き討ちがあった事は知っている。
此処もそうなのかもしれない。 どんな争いごとがあったのかは知らないが、木々が焼き払われた。 その炎は社に延焼してもおかしくはない話である。 だが社は焼け跡などなく建っている。
「・・・朱葉姫が社を守られた?」
朱葉姫の力などということは詩甫に分かるはずもなかった。 だが誰しも漠然とそう思うのではないだろか。
詩甫があたりをずっと見まわす。
どれだけの時が経ったのだろうか、祐樹の声が聞こえた。
「姉ちゃん!」
呼ばれたと思った時には、両手で何かを包むように詩甫の前まで走って来ていた。
「見て見て! サワガニ!」
カブトムシを胸元辺りに付けて走って来て両手を広げて見せる祐樹。 その手の中でサワガニが数匹、横歩きをしながら今にも祐樹の掌から落ちそうになっている。
「わ、すごい」
「だろ?」
「うん、お姉ちゃん、サワガニって見たことなかった。 へぇー、可愛いね」
祐樹の掌から落ちそうなサワガニを、浅香が祐樹の掌に戻している。
「でも祐樹、よく触れるね」
「そりゃ、男だもんね」
すかさず浅香が言う。
祐樹が満面の笑みで詩甫を見る。
「姉ちゃんは触れないの?」
「うぅぅ・・・可愛いけど・・・」
つつく事さえ出来ない。 見ているだけである。
「祐樹君どうする?」
「あ・・・逃がしてくる」
「え? 祐樹、いいの?」
「うん」
祐樹が木々の中に消えて行った。 小川までは難しい道順ではないようだ。
男同士の話とやらはどうだったのだろうかと、詩甫が浅香を見る。
「祐樹君に心を開いてもらっただけです。 まだ何も訊けていません、これから訊きます」
とは言ったものの、祐樹のガードは硬かった。
浅香が曹司のことについて何を言っても疑い、何を訊いても答えることは無かった。 祐樹が詩甫を守ろうとしているのがあからさまに分かるほどであった。
とっとと、何もかもを説明し、その説明に詩甫に首を縦に振ってもらえば済むであろうが、浅香とて祐樹を巻き込むわけにはいかないと考えている。
「今日はもう帰られるんですか?」
「はい」
浅香がこれから訊くと言ったが、それに応えられない。
「そっか、では次回まで取り置きですね」
「すみません、私も帰ったら訊いておきます」
「有難うございます。 でもあまり強引に訊かないで下さいね、あくまでも僕の事ですから」
「でも・・・」
「気にしないで下さい。 うん、そうだな、野崎さんは訊かなくていいです」
「え・・・」
「姉弟仲に亀裂が入るのを望んでいませんから。 この一件でそんなことにでもなったら朱葉姫が気にしますし。 どうせ曹司のせいなんでしょうから」
木々の中から祐樹が姿を現した。
今の話が無かったかのように浅香が祐樹に顔を向ける。
「ちゃんと逃げて行った?」
「うん、捕った時みたいに石の近くに置いたら、石の下に潜っていった」
「おっ、上等! なかなかサワカニの気持ちが分かるようになってきた」
褒められて照れ臭いのか、明後日を向いてしまった。
「うーん、じゃ今日のところはここまでにしようか」
そこそこの時間が経っていたし、祐樹が曹司のことになると浅香をねめつける。 浅香も小学生に無理をさせる気などさらさらない。 それに詩甫はもう帰ると言っていた。
「なんだよそれ」
「今日のゴングは鳴っちゃったからね、次回持ち越し」
「・・・持ち越し? ・・・宿題か?」
詩甫が笑いを抑えるように上下の唇を噛む。 笑ってはいけない。 この状況に置いてそう考える。 宿題・・・それ程に母親から言われているのだろうから。 それでもこの義弟を可愛く思ってしまう。
「ね、祐樹。 浅香さんはいい人よ。 嘘なんて言わないよ?」
祐樹が口をひん曲げて詩甫を見る。
どことなくだが分かっている、でも認められない。 そんな目をしている。
浅香のことを祐樹はどこかで分かってくれているのか。 浅香が小川でどんな話をしたかは知らないが、祐樹に心を開いてもらったと言っていた。
詩甫が祐樹に笑みを送る。
「今日は帰ろうか」
「うん」
「あれ、どうしようか、な」
祐樹も同じことを考えていたのだろう、詩甫の視線の先に重なっている。
何のことだろうかと浅香が詩甫の目の先を追うと竹箒やバケツがある。
そういうことか。
「どうします?」
「出来ればここに置いておきたいんですけど」
「ですよね。 これ持って電車は目立ちますもんね。 お社の裏にでも置いておきましょう」
浅香が竹箒を持つとすぐに祐樹が雑巾の入っているバケツを持った。
「お、ありがとう」
「オレと姉ちゃんが持ってきたんだしな」
祐樹と二人で掃除グッズを持つと社の裏に回った。 祐樹が泥のようなバケツの中の水から雑巾を取り出すと、浅香がバケツを手にして中の水をグルグル回し景気よくその泥水を撒いた。 それでもバケツの下に泥が沈殿してしまっている。
「わぁ、失敗」
「下手くそ。 小川で洗ってくる。 雑巾もこのままじゃ駄目だから」
おニューの雑巾が真っ黒になっている。
「よく気が付くねー、じゃ、頼む」
祐樹は小川に、浅香は掃除グッズが飛んで行かないように、押さえるための頃合いの石を探し出した。
社の裏からバケツを手にして出て来た祐樹の後姿を追っていた詩甫。 その姿が木々の中に入って行く。
「そっか。 小川のお水を使えばいいのか」
そこそこの水量があるのだろう。 次回からはミネラルウォーターは必要ないようだ。
空のペットボトルを置いていた所に行くと、一つ一つを靴の下で潰して袋の中に入れる。
祐樹が戻ってくると既に竹箒には重石がしてあり、祐樹が洗ってきたバケツにも中に雑巾を入れ、その上に重石が入れられた。
祐樹と浅香それぞれが動いている間に詩甫がお供え物を下げる。 一つを和菓子屋の袋に入れ、もう一つをエコバッグに入れていると祐樹と浅香が戻って来た。
「お下がりになっちゃいますけど、荷物にならなければ、貰って頂けないでしょうか」
供え物は二つある。 男が和菓子を食べるかどうか分からないが。
「おっ、有難く頂きます」
出された紙袋を丁寧に受け取る。
「山の下までお送りしましょう」
そう言えば浅香は何のためにここに来たのだろうか。
「浅香さんは?」
「雑草抜きに来ましたので」
やはり社までの雑草を浅香が抜いていたのか。
「オレが姉ちゃんを守るんだから、お前が来る必要はない」
「祐樹!」
祐樹の浅香に対しての態度、呼び方、全てにおいて詩甫が声を上げる。
「あ、気にしないで下さい」
「でも・・・」
浅香が祐樹の胸元を指さす。
「いつの間にかカブトムシ居なくなっちゃったね」
「あ・・・」
胸元にとまっていたカブトムシが居なくなっている。
「残念だったね」
口を尖らせると「姉ちゃん、帰ろう」 と言って、祐樹がさっさと歩き出した。
浅香にすまなさそうな顔を残して詩甫が歩きだす。 それを笑顔で送った浅香だった。
それからは祐樹に促され、隔週で社に出向いた。
何故祐樹が行きたがるのかは分からなかったが、行く度に祐樹が枯葉を掃き供養石に雑巾をかける。 詩甫が社の格子の一つ一つを拭く。 そう出来る切っ掛けを作ってくれたことは嬉しかった。
祐樹からは毎週と言われたが交通費がかさばる。 金銭的な問題から隔週ということにした。
あれから浅香とは社で会っていない。 連絡もなかった。 もしかしたら、色んなことに奔走しているのかも知れない。
あの時から祐樹は朱葉姫のことを詩甫に訊けなかった。
その内に祐樹の定期が切れる日になった。
「姉ちゃん、夏休みの間泊まっちゃいけない?」
「祐樹・・・」
どれだけ実家を疎んでいるのだろうか。
「お義父さんとお母さんが嫌なの?」
「・・・姉ちゃんと一緒に居たいだけ」
それは実家に居たくないということだろう。
「お昼ごはん、お姉ちゃんの作ったお弁当でいい? 冷めちゃうけど」
母親なら温かいものを祐樹に食べさせるだろうに。
祐樹がブンブンと首を振る。
「姉ちゃん、袋ラーメン買ってくれる? そしたら自分で作る。 作り方教えて」
湯など沸かしたこともない。
夏休みに入り家に帰った時、同級生の集団と会った。 その時に昼ご飯の会話になったのだった。
『うちは、お母さんが仕事に出る前にオムライスや何かを作ってる』
『わっ、贅沢』
『なんでだよ』
『オレん家なんておにぎりだけ』
『それも贅沢だろ。 オレん家は、母ちゃんが勝手にカップ麺を食べとけって言うし』
『カップ麺? 金持ちぃ。 オレん家は袋ラーメンだよ、しけてる』
祐樹にとってはある意味、鮮烈な話だった。
夏休みに限らず、給食の無い日は当たり前に母親が昼ご飯を作っていたのだから。
『カップ麺は金持ちなのか?』
食べたことは無かったが、母親と買い物に行くと目にしていたし、コマーシャルでも見ていたが袋ラーメンも然り、値段までは見ていなかった。
『おーよ、オレも袋ラーメン卒業させてほしい。 憧れのカップラーメン』
そんな風に聞いていた。