虚空の辰刻(とき) 第96回
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闇の中を足早に動く。 月明かりが味方。 別棟、使用人と言われる人の建物まで来た。 すぐに裏に回る。 が、春樹の姿が見えない。 それどころか明かりさえもなく、手探りでその奥に居るガザンの元に行くしかないという状況だ。 頼りは月明かりだけ。
「あの時は懐中電灯があったけど・・・」
迂闊だった。 ガザンと西小門を抜ける時には懐中電灯を持っていたが今は持っていない。
「やっぱり・・・先輩来てくれなかった」
それはそうだよね、って思える。 急にあの時の時間に此処に来てと言われて、納得できないだろう。 先輩が三年の時の一年生が何を生意気に言うのか、そう思って然るべき。 当たり前。
でも首など垂れない。 お父さんとお母さんの元に帰るんだから。 先輩の元に押し掛けるしかない。 その方法をガザンに訊こう。
ガザンの居る方に足を進める。 足元がはっきり見えなくとも、此処から真っ直ぐに歩けばガザンがいるはず。 それが何歩目か目を瞑って距離感を掴もうとした時、別棟の明かりが点いた。
「え?」
明かりのついた部屋は、春樹と会った時と同じ部屋の窓だった。
と、パタンとドアを閉める音が聞こえた。
「先輩・・・?」
そう思いながらも明かりのついた窓の下に隠れた。
少しすると春樹が辺りをキョロキョロしながら姿を現した。
「先輩!」
思わず声に出して窓の下から立ち上がった。
「わっ! もう来てたんだ」
「先輩、来てくれたんですね!」
「え? 朝、言ってたよね。 言われたら当たり前じゃない?」
いや、そんなことなど思っていない。 今にも浮足立ちそうだ。 自分が犬ならブンブン尻尾を振っていたことだろう。
「・・・先輩」
熱い視線を紫揺が春樹に向ける。
「あ・・・当たり前のことだから・・・」
熱い視線に耐えられなくなって目を逸らせ、頬をポリポリと掻く。
紫揺の熱い視線と春樹の思う紫揺の熱い視線の意味は、ちょっと違ってはいるが。 そこは二人とも分かっていない。
「先輩、教えて欲しいんです」
「え? 何?」
驚いて意味なく動かしていた指を止めた。
食いつくような紫揺の姿に春樹が腰を引く。 だって、春樹にとってはそんな段取りじゃなかったから。 具体的にどうのこうのとあったわけではないが、少なくとも教えて欲しいと言われる台詞は段取りには無かった。
「先輩、此処から出ようと思ったら船しかないって仰いましたよね?」
「日本海を泳げるわけもないからね」
台詞どころか段取りにない会話・・・。 でも、年上らしく冗談を交えて・・・。 ガンバレ俺!
「でも、泳ぐわけでもなく此処から出ようと思ったら、キノラさんが船の手配をしてくれる以外ないんですよね?」
「キノラ?」
「此処の―――」 まで言うと、春樹が 「ああ」 と言った。
「珍しい苗字だよね」
苗字か名前かは知らないが、今はそんなことはどうでもいい。
「・・・はい。 でもキノラさんがそう言ってたんですよね?」
「うん。 そう言われた」
「先輩・・・。 私、此処から出たいんです」
「え? じゃあ、キノラさんに頼めば?」 至極当然に言う。
「それが不可能だから先輩にお願いしたいんです」
「・・・どういうこと?」
「お願いしておいて詳しいことは話せないって、ルール違反なことは分かっています。 でも私はここから出たい。 その手助けをしてもらえないでしょうか?」
「はっ!?」
春樹にしてみれば、最初、こんなに大きな屋敷を持つ此処の娘かと思ったが、高校時代の情報収集が得意なクラスメートの話を思い出し、それは有り得ないと思った。 次にもしかして、考えたくはないが紫揺が結婚をし、その相手の屋敷かと思った。 それが一番無難な話だ。 だが紫揺が結婚をしたなどと考えたくはない。
「一つ訊いていい?」
「はい」
「・・・君、結婚した?」
春樹にとっては勇断といえる質問だった。
「はっ!?」
が、紫揺にとっては素っ頓狂な質問である。
「君の旦那さんが此処の―――」
もう、喋るしかない。 何を言っても喋るしかない。 でないと心がもたない。
「結婚なんてしてませんから!」
なんテンポも遅れて春樹がマメ鉄砲を食らったように口を開けた。
「・・・え?」
「此処の屋敷の主人は今は居ませんけど、私が詳しく知る人ではないです」
「・・・え? え!? そうなの?」
「先輩がどう考えていらっしゃるかは分かりませんが、ゴメンナサイ。 そこの誤解も解かなくてはいけないんでしょうけど、その、詳しいことは言えなくて。 でも一刻も早く私はここから出たいんです。 先輩の協力を頂きたいんです。 駄目ですか?」
セノギが伏せっている間、そしてムロイがいない間に。
春樹を見る紫揺の目。
いや、俺・・・その目に野垂れ死にそうなんですけど? が、そんな台詞は吐けない。
「君・・・どうしたの? どういうこと?」
紫揺が眉を寄せた。
「先輩・・・」
「なに?」
「協力を願ってこんなことを言うのは、失礼にあたると思うんですけど」
「なに? 何でも言って。 お・・・僕、何が何だか分からないよ」
「君、って止めてもらえますか? 私は藤滝紫揺ですから」
代名詞だからいいのに、代を取った名詞に敏感になってしまっている。
「・・・え・・・じゃ、ふ、藤滝さん」
苗字を呼んだ。 頼む! 苗字じゃなく、下の名前で呼んでくれと言ってくれ! 紫揺と呼んで下さいとっ。
「そう願います。 さんも必要ないほどです」
言ってくれなかった・・・。
心の中で肩をガクンと落とした。
「・・・」
いま目の前に居るのは春樹が見ていた時のあの紫揺とは違う。 あまりに強すぎる。 いや、あの時も春樹の知らない所で強かったのだろう。 でなければあれ程、舞台に上がることは無かったはずだ。 だが今の紫揺はあの時の強さとは違うものを持っている。 仔パンダのようにじゃれ合っていない。
「じゃ・・・じゃあ、藤滝さん・・・君、変わったよね?」
「君じゃありません」
「あ、ゴメン」
「先輩、スミマセン。 此処に居ると・・・」
芯が強くなる、そう思った。 だがそれは春樹に言っても始まらない事。
「なに?」
「いえ、何でもないです。 先輩、さっき言いましたけど、お願いがあります」
「え? うん、何なりと。 聞ける範囲で聞きます」
どっちが先輩だか分かったものではない。
紫揺の言うことはこういうことだった。
キノラに言って春樹に本土に帰ってもらって、その後にボートなりでここに来てもらう。 西門に。 そのボートに乗って紫揺が本土に帰る。 それを話した。
「きみ・・・じゃなくて、藤滝さん」
呼び方に慣れない。 紫揺ちゃんならすぐに言えるのに。 頭の中で何度もそう呼んでいたのだから。
「その、どうして此処を出たいの? 此処は贅沢に色んなことが出来るのに」
テニスコートもプールも馬場もある。 それを言っているのだろう。 その気持ちが分からないわけではない。
「先輩、私は家に帰りたいだけなんです」
「悪い。 訊くのは悪いと思ってる。 でも、ハッキリとさせたい。 君は・・・藤滝さんは此処に居れば、誰もが持ちたいと思う生活を出来るわけだ。 なのに、どうして?」
今の時代に携帯電話すら持たせてもらえない生活に帰ろうとするのか?
「先輩、此処は私にとっての場所じゃないんです。 私の家に帰りたいだけなんです」
「ゴメン。 確認する。 藤滝さんは藤滝さんの家に帰りたいだけってこと? それだけ?」
「はい」
「これだけ贅沢な此処を置いて?」
「私にとっての贅沢は父と母と過ごした家に帰ることです」
(イミ分んないよ・・・)
働いている風にも見えない。 なのにこれ程に贅沢なことはない筈なのに、どうしてそれを蹴るのか。
「何度も訊いてゴメン。 でも、協力するにあたって、お・・・僕の中で納得したいことがある」
「はい」
刺すような視線を春樹に送ってくる。
(や、やめてくれよその目。 あのパンダが団子になっている時の目をしてくれよ)
高校時代の屈託ない紫揺の目を思い出しながら、心の中で呟き僅かに瞳を上に上げた。
「藤滝さんは此処で働いてないの?」
「はい」
「という事は・・・何処で寝泊まりしてるの?」
この別棟は使用人の住まいと、春樹のような人間の寮だと聞かされていた。 働いていないのならばどこに居るのか?
「あの屋敷の三階に居ます」
「え!?」
屋敷に居るという事は、やはり此処の力のある何某なのではないのか?
「私は・・・働いてもいませんし・・・」
何か説明をしなくてはと思うが、それ以上何も言えなかった。
「そ・・・そうなんだ」
そうなんだ、と何を納得したのだろうか。 だが、少なくともこの屋敷の人間に嫁いできたわけではない。 では何故、働きもしていないのにこの屋敷に居るのか?
「先輩! お願いします! 此処から出る為の協力をして下さい!」
「うん・・・。 君がそう言うなら惜しむことはないけど」
何がどうなっているんだ?
「先輩、さっき言いました。 私は君ではないです。 藤滝紫揺です」
「あ、ハイ。 藤滝さんだよね」
分かってはいた。 だが敢えて君と言った。 何故なら、紫揺から紫揺と呼ぶようにと言って欲しかったからだが、またもやフルネームで言われてしまった。
(俺って、心狭ぇー) 思いながらも紫揺の話を聞く。
「先輩、此処に来て間がないことは分かっています。 そんな時にこんなお願いをするのは申し訳ないんですけど、一日でも早く家に帰りたいんです」
来て早々、本土に帰るから船を出せなどと・・・。
「いや、いいよ」
少しでも渋ると思っていた。 なのに軽く返事が返って来た。
「え?」
「でも藤滝さんの言うやり方ではなく、専門学校の時の友達に親父さんが船舶の免許を持ってるヤツがいてさ、今は実家に帰ってるはずなんだ。 たしか実家が福井って言ってたと思う。 ここからそんなに遠くないしさ、そいつに頼んでみる。 藤滝さんには悪いけど、さすがに来て間なしの俺・・・僕がキノラさんに頼むのも言い辛いしね。 それと親父さんの都合もあるから、明日、明後日と言われたら無理と思うんだけどそれでもいい?」
喫煙も携帯も禁止されていたが、どちらも簡単に違反していた。 来て早々、アンテナが立っているのも確認していた。 だからと言って禁止されている携帯。 此処に来て今まで何処に連絡を入れたわけではないが連絡はつくはずだ。
「・・・先輩」
とーっても感謝されてる熱い視線を感じる。 出来ればその感謝を胸に刻んでおいて欲しい。
「先輩、僕じゃなくて俺でいいです」
「・・・はい」
一日でも、一時間でも早くお願いしたいと言い残した紫揺。 だが、脱出は夜にしたいとしっかりと言った。 セノギとムロイが居なくともあのお婆さんと五色が居る。 目立つ昼間にはしたくない。
翌日もまたこの時間に此処で、と約束して春樹は部屋に戻り紫揺はガザンの元に向かった。
「何がどうなってんだよ・・・」
部屋に戻った春樹が後ろ手に戸を閉めるとその場で言った。
「と、とにかく連絡」
部屋に入ると隠しておいた携帯を手に取った。
「悪い。 新しいリストだ。 これでいってくれ」
何枚ものコピーを渡した。
「阿秀・・・大丈夫ですか?」
阿秀から手渡されたメモを受け取ると野夜が言った。 阿秀の顔色が悪い。
「ああ、何でもない」
「此処からは俺らが動きます。 阿秀は休んでいてください」
「ああ。 悪いな。 最初に渡したリストで残っている所には★マークを付けておいた。 前のリストは捨ててくれていい」
「分かりました」
「★マークは福井方面だが、新しいリストは更に北を書いている。 前に探したより南は有り得ない気がしてきた。 だが、先に★マークから探してくれ」
「阿秀・・・訊いていいですか?」
訊きたくないが訊かずにはいられない。
「なんだ?」
「日本から出たとは考えられませんか?」
阿秀が悪い顔色を更に悪く変える。
「醍十が言っていました。 日本から出てしまってはどうにもならないと」
阿秀を責めて言っているのではない。 真実を知りたいだけだ。
「・・・私には分からん。 だが、可能性のある所から潰していく。 それは何の情報もない今の状況で考えられる範囲での近場からだ。 お前たちには無駄足を多く踏ませているのは分かっているが、それでも今はその方法しかない」
「・・・分かりました」
阿秀も日本から出たのかもしれないと考えているのだろう。 でも希望をもって洗いやすい日本の島や海岸沿いの場所をリストに起こしている。
阿秀も分かっていると思う。 海岸沿いとは限らない事と。 船を降りて車なり飛行機で移動したかもしれないと。
だが阿秀には独唱や此之葉の足元にも及ばないが、古(いにしえ)の力が僅かにある。 阿秀の先祖に古の力を持つ者がいたからだ。 阿秀自身は鼻が利くとか目が利く、感が利く程度のものだが。 その力を集中させてリストを作ったのだろう。 疲れても仕方あるまい。
リストを持ってホテルを出ると待っていた者達に手渡す。
「まずは★マークからあたってくれ。 今まで洗ったより南には居られないような気がすると阿秀が言っていた」
野夜から渡されたリストを見て各々口々に言う。
「更に北ってか?」
「最北は佐渡島?」
「★マークって前のリストにもあったよな」
それぞれに言いたいように言わせる。 そして間をおいて
「★マークは前のリストにもあって、まだ調べられていない所だ。 阿秀はそこからあたってくれという事だ」
「★マークは京都と福井か・・・」
「島は緯度経度で探せば見つかるはずだ」
リストには河岸沿いには住所、島には緯度経度が書かれていた。
ムロイの手が動いた。
「領主!」
ずっと横に居た薬師が思わず叫んだ。
「領主! お気づきですか!?」
「うぅぅ・・・」
北の領主であるムロイが眉間に皺を寄せ、喉から声を出した。
「薬草を塗ってはおりますが身体の痛みはまだあると思います。 ですが気を確かに持ってください。 さぁ、この粉薬を」
そう言うと、匙で粉薬を取り口に入れる。 その後に水を飲ませる。
「これで痛みは少々楽になるかと思います」
ムロイの姿は沿え木が肩と足に、そして不自然に鼻にも当てられ、その顔も打撲で青じんでいたり腫れたり切り傷があったりしている。 手足や身体にも打ち身の後がある。
「ご安心ください。 マツリ様が領主のお身体を診てくださいました」
マツリと聞いて瞼の腫れている領主の目が僅かに開いた。
「マツリ様からのご伝言です。 待つ、と仰っておられました」
それを聞いたムロイ。 薬師から見て全身の力が抜けたように見えた。 ムロイはそのまま、また眠りについた。
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闇の中を足早に動く。 月明かりが味方。 別棟、使用人と言われる人の建物まで来た。 すぐに裏に回る。 が、春樹の姿が見えない。 それどころか明かりさえもなく、手探りでその奥に居るガザンの元に行くしかないという状況だ。 頼りは月明かりだけ。
「あの時は懐中電灯があったけど・・・」
迂闊だった。 ガザンと西小門を抜ける時には懐中電灯を持っていたが今は持っていない。
「やっぱり・・・先輩来てくれなかった」
それはそうだよね、って思える。 急にあの時の時間に此処に来てと言われて、納得できないだろう。 先輩が三年の時の一年生が何を生意気に言うのか、そう思って然るべき。 当たり前。
でも首など垂れない。 お父さんとお母さんの元に帰るんだから。 先輩の元に押し掛けるしかない。 その方法をガザンに訊こう。
ガザンの居る方に足を進める。 足元がはっきり見えなくとも、此処から真っ直ぐに歩けばガザンがいるはず。 それが何歩目か目を瞑って距離感を掴もうとした時、別棟の明かりが点いた。
「え?」
明かりのついた部屋は、春樹と会った時と同じ部屋の窓だった。
と、パタンとドアを閉める音が聞こえた。
「先輩・・・?」
そう思いながらも明かりのついた窓の下に隠れた。
少しすると春樹が辺りをキョロキョロしながら姿を現した。
「先輩!」
思わず声に出して窓の下から立ち上がった。
「わっ! もう来てたんだ」
「先輩、来てくれたんですね!」
「え? 朝、言ってたよね。 言われたら当たり前じゃない?」
いや、そんなことなど思っていない。 今にも浮足立ちそうだ。 自分が犬ならブンブン尻尾を振っていたことだろう。
「・・・先輩」
熱い視線を紫揺が春樹に向ける。
「あ・・・当たり前のことだから・・・」
熱い視線に耐えられなくなって目を逸らせ、頬をポリポリと掻く。
紫揺の熱い視線と春樹の思う紫揺の熱い視線の意味は、ちょっと違ってはいるが。 そこは二人とも分かっていない。
「先輩、教えて欲しいんです」
「え? 何?」
驚いて意味なく動かしていた指を止めた。
食いつくような紫揺の姿に春樹が腰を引く。 だって、春樹にとってはそんな段取りじゃなかったから。 具体的にどうのこうのとあったわけではないが、少なくとも教えて欲しいと言われる台詞は段取りには無かった。
「先輩、此処から出ようと思ったら船しかないって仰いましたよね?」
「日本海を泳げるわけもないからね」
台詞どころか段取りにない会話・・・。 でも、年上らしく冗談を交えて・・・。 ガンバレ俺!
「でも、泳ぐわけでもなく此処から出ようと思ったら、キノラさんが船の手配をしてくれる以外ないんですよね?」
「キノラ?」
「此処の―――」 まで言うと、春樹が 「ああ」 と言った。
「珍しい苗字だよね」
苗字か名前かは知らないが、今はそんなことはどうでもいい。
「・・・はい。 でもキノラさんがそう言ってたんですよね?」
「うん。 そう言われた」
「先輩・・・。 私、此処から出たいんです」
「え? じゃあ、キノラさんに頼めば?」 至極当然に言う。
「それが不可能だから先輩にお願いしたいんです」
「・・・どういうこと?」
「お願いしておいて詳しいことは話せないって、ルール違反なことは分かっています。 でも私はここから出たい。 その手助けをしてもらえないでしょうか?」
「はっ!?」
春樹にしてみれば、最初、こんなに大きな屋敷を持つ此処の娘かと思ったが、高校時代の情報収集が得意なクラスメートの話を思い出し、それは有り得ないと思った。 次にもしかして、考えたくはないが紫揺が結婚をし、その相手の屋敷かと思った。 それが一番無難な話だ。 だが紫揺が結婚をしたなどと考えたくはない。
「一つ訊いていい?」
「はい」
「・・・君、結婚した?」
春樹にとっては勇断といえる質問だった。
「はっ!?」
が、紫揺にとっては素っ頓狂な質問である。
「君の旦那さんが此処の―――」
もう、喋るしかない。 何を言っても喋るしかない。 でないと心がもたない。
「結婚なんてしてませんから!」
なんテンポも遅れて春樹がマメ鉄砲を食らったように口を開けた。
「・・・え?」
「此処の屋敷の主人は今は居ませんけど、私が詳しく知る人ではないです」
「・・・え? え!? そうなの?」
「先輩がどう考えていらっしゃるかは分かりませんが、ゴメンナサイ。 そこの誤解も解かなくてはいけないんでしょうけど、その、詳しいことは言えなくて。 でも一刻も早く私はここから出たいんです。 先輩の協力を頂きたいんです。 駄目ですか?」
セノギが伏せっている間、そしてムロイがいない間に。
春樹を見る紫揺の目。
いや、俺・・・その目に野垂れ死にそうなんですけど? が、そんな台詞は吐けない。
「君・・・どうしたの? どういうこと?」
紫揺が眉を寄せた。
「先輩・・・」
「なに?」
「協力を願ってこんなことを言うのは、失礼にあたると思うんですけど」
「なに? 何でも言って。 お・・・僕、何が何だか分からないよ」
「君、って止めてもらえますか? 私は藤滝紫揺ですから」
代名詞だからいいのに、代を取った名詞に敏感になってしまっている。
「・・・え・・・じゃ、ふ、藤滝さん」
苗字を呼んだ。 頼む! 苗字じゃなく、下の名前で呼んでくれと言ってくれ! 紫揺と呼んで下さいとっ。
「そう願います。 さんも必要ないほどです」
言ってくれなかった・・・。
心の中で肩をガクンと落とした。
「・・・」
いま目の前に居るのは春樹が見ていた時のあの紫揺とは違う。 あまりに強すぎる。 いや、あの時も春樹の知らない所で強かったのだろう。 でなければあれ程、舞台に上がることは無かったはずだ。 だが今の紫揺はあの時の強さとは違うものを持っている。 仔パンダのようにじゃれ合っていない。
「じゃ・・・じゃあ、藤滝さん・・・君、変わったよね?」
「君じゃありません」
「あ、ゴメン」
「先輩、スミマセン。 此処に居ると・・・」
芯が強くなる、そう思った。 だがそれは春樹に言っても始まらない事。
「なに?」
「いえ、何でもないです。 先輩、さっき言いましたけど、お願いがあります」
「え? うん、何なりと。 聞ける範囲で聞きます」
どっちが先輩だか分かったものではない。
紫揺の言うことはこういうことだった。
キノラに言って春樹に本土に帰ってもらって、その後にボートなりでここに来てもらう。 西門に。 そのボートに乗って紫揺が本土に帰る。 それを話した。
「きみ・・・じゃなくて、藤滝さん」
呼び方に慣れない。 紫揺ちゃんならすぐに言えるのに。 頭の中で何度もそう呼んでいたのだから。
「その、どうして此処を出たいの? 此処は贅沢に色んなことが出来るのに」
テニスコートもプールも馬場もある。 それを言っているのだろう。 その気持ちが分からないわけではない。
「先輩、私は家に帰りたいだけなんです」
「悪い。 訊くのは悪いと思ってる。 でも、ハッキリとさせたい。 君は・・・藤滝さんは此処に居れば、誰もが持ちたいと思う生活を出来るわけだ。 なのに、どうして?」
今の時代に携帯電話すら持たせてもらえない生活に帰ろうとするのか?
「先輩、此処は私にとっての場所じゃないんです。 私の家に帰りたいだけなんです」
「ゴメン。 確認する。 藤滝さんは藤滝さんの家に帰りたいだけってこと? それだけ?」
「はい」
「これだけ贅沢な此処を置いて?」
「私にとっての贅沢は父と母と過ごした家に帰ることです」
(イミ分んないよ・・・)
働いている風にも見えない。 なのにこれ程に贅沢なことはない筈なのに、どうしてそれを蹴るのか。
「何度も訊いてゴメン。 でも、協力するにあたって、お・・・僕の中で納得したいことがある」
「はい」
刺すような視線を春樹に送ってくる。
(や、やめてくれよその目。 あのパンダが団子になっている時の目をしてくれよ)
高校時代の屈託ない紫揺の目を思い出しながら、心の中で呟き僅かに瞳を上に上げた。
「藤滝さんは此処で働いてないの?」
「はい」
「という事は・・・何処で寝泊まりしてるの?」
この別棟は使用人の住まいと、春樹のような人間の寮だと聞かされていた。 働いていないのならばどこに居るのか?
「あの屋敷の三階に居ます」
「え!?」
屋敷に居るという事は、やはり此処の力のある何某なのではないのか?
「私は・・・働いてもいませんし・・・」
何か説明をしなくてはと思うが、それ以上何も言えなかった。
「そ・・・そうなんだ」
そうなんだ、と何を納得したのだろうか。 だが、少なくともこの屋敷の人間に嫁いできたわけではない。 では何故、働きもしていないのにこの屋敷に居るのか?
「先輩! お願いします! 此処から出る為の協力をして下さい!」
「うん・・・。 君がそう言うなら惜しむことはないけど」
何がどうなっているんだ?
「先輩、さっき言いました。 私は君ではないです。 藤滝紫揺です」
「あ、ハイ。 藤滝さんだよね」
分かってはいた。 だが敢えて君と言った。 何故なら、紫揺から紫揺と呼ぶようにと言って欲しかったからだが、またもやフルネームで言われてしまった。
(俺って、心狭ぇー) 思いながらも紫揺の話を聞く。
「先輩、此処に来て間がないことは分かっています。 そんな時にこんなお願いをするのは申し訳ないんですけど、一日でも早く家に帰りたいんです」
来て早々、本土に帰るから船を出せなどと・・・。
「いや、いいよ」
少しでも渋ると思っていた。 なのに軽く返事が返って来た。
「え?」
「でも藤滝さんの言うやり方ではなく、専門学校の時の友達に親父さんが船舶の免許を持ってるヤツがいてさ、今は実家に帰ってるはずなんだ。 たしか実家が福井って言ってたと思う。 ここからそんなに遠くないしさ、そいつに頼んでみる。 藤滝さんには悪いけど、さすがに来て間なしの俺・・・僕がキノラさんに頼むのも言い辛いしね。 それと親父さんの都合もあるから、明日、明後日と言われたら無理と思うんだけどそれでもいい?」
喫煙も携帯も禁止されていたが、どちらも簡単に違反していた。 来て早々、アンテナが立っているのも確認していた。 だからと言って禁止されている携帯。 此処に来て今まで何処に連絡を入れたわけではないが連絡はつくはずだ。
「・・・先輩」
とーっても感謝されてる熱い視線を感じる。 出来ればその感謝を胸に刻んでおいて欲しい。
「先輩、僕じゃなくて俺でいいです」
「・・・はい」
一日でも、一時間でも早くお願いしたいと言い残した紫揺。 だが、脱出は夜にしたいとしっかりと言った。 セノギとムロイが居なくともあのお婆さんと五色が居る。 目立つ昼間にはしたくない。
翌日もまたこの時間に此処で、と約束して春樹は部屋に戻り紫揺はガザンの元に向かった。
「何がどうなってんだよ・・・」
部屋に戻った春樹が後ろ手に戸を閉めるとその場で言った。
「と、とにかく連絡」
部屋に入ると隠しておいた携帯を手に取った。
「悪い。 新しいリストだ。 これでいってくれ」
何枚ものコピーを渡した。
「阿秀・・・大丈夫ですか?」
阿秀から手渡されたメモを受け取ると野夜が言った。 阿秀の顔色が悪い。
「ああ、何でもない」
「此処からは俺らが動きます。 阿秀は休んでいてください」
「ああ。 悪いな。 最初に渡したリストで残っている所には★マークを付けておいた。 前のリストは捨ててくれていい」
「分かりました」
「★マークは福井方面だが、新しいリストは更に北を書いている。 前に探したより南は有り得ない気がしてきた。 だが、先に★マークから探してくれ」
「阿秀・・・訊いていいですか?」
訊きたくないが訊かずにはいられない。
「なんだ?」
「日本から出たとは考えられませんか?」
阿秀が悪い顔色を更に悪く変える。
「醍十が言っていました。 日本から出てしまってはどうにもならないと」
阿秀を責めて言っているのではない。 真実を知りたいだけだ。
「・・・私には分からん。 だが、可能性のある所から潰していく。 それは何の情報もない今の状況で考えられる範囲での近場からだ。 お前たちには無駄足を多く踏ませているのは分かっているが、それでも今はその方法しかない」
「・・・分かりました」
阿秀も日本から出たのかもしれないと考えているのだろう。 でも希望をもって洗いやすい日本の島や海岸沿いの場所をリストに起こしている。
阿秀も分かっていると思う。 海岸沿いとは限らない事と。 船を降りて車なり飛行機で移動したかもしれないと。
だが阿秀には独唱や此之葉の足元にも及ばないが、古(いにしえ)の力が僅かにある。 阿秀の先祖に古の力を持つ者がいたからだ。 阿秀自身は鼻が利くとか目が利く、感が利く程度のものだが。 その力を集中させてリストを作ったのだろう。 疲れても仕方あるまい。
リストを持ってホテルを出ると待っていた者達に手渡す。
「まずは★マークからあたってくれ。 今まで洗ったより南には居られないような気がすると阿秀が言っていた」
野夜から渡されたリストを見て各々口々に言う。
「更に北ってか?」
「最北は佐渡島?」
「★マークって前のリストにもあったよな」
それぞれに言いたいように言わせる。 そして間をおいて
「★マークは前のリストにもあって、まだ調べられていない所だ。 阿秀はそこからあたってくれという事だ」
「★マークは京都と福井か・・・」
「島は緯度経度で探せば見つかるはずだ」
リストには河岸沿いには住所、島には緯度経度が書かれていた。
ムロイの手が動いた。
「領主!」
ずっと横に居た薬師が思わず叫んだ。
「領主! お気づきですか!?」
「うぅぅ・・・」
北の領主であるムロイが眉間に皺を寄せ、喉から声を出した。
「薬草を塗ってはおりますが身体の痛みはまだあると思います。 ですが気を確かに持ってください。 さぁ、この粉薬を」
そう言うと、匙で粉薬を取り口に入れる。 その後に水を飲ませる。
「これで痛みは少々楽になるかと思います」
ムロイの姿は沿え木が肩と足に、そして不自然に鼻にも当てられ、その顔も打撲で青じんでいたり腫れたり切り傷があったりしている。 手足や身体にも打ち身の後がある。
「ご安心ください。 マツリ様が領主のお身体を診てくださいました」
マツリと聞いて瞼の腫れている領主の目が僅かに開いた。
「マツリ様からのご伝言です。 待つ、と仰っておられました」
それを聞いたムロイ。 薬師から見て全身の力が抜けたように見えた。 ムロイはそのまま、また眠りについた。