虚空の辰刻(とき) 第197回
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何が起きたのか分からなかった唱和がなんとか抵抗を試みるが、到底五歳。 ウーウーと猿轡から声を漏らすことしか出来なかった。 だがそれすらも疎んだその男が、唱和に何かの匂いを含んだ手巾を顔に被せた。
唱和の記憶はここで一旦途絶えている。
男の話し声が聞こえてうっすらと目覚めた。 頭がぼんやりとしている。 猿轡はとられていたが、まだ身体は縛られていた。 誰かが、何人かが出入りのする音も聞こえてきた。 波に揺れてはいない。 それに畳の上にいる。 船の上ではないのが分かる。
何が起こったのか、ここはどこなのか、どうして縛られているのか、何も分からない。 不安が黒い点となり果てしなく心の中に広がっていく。 涙が出そうになるのを口を一文字にして堪える。 だんだんと頭の中がはっきりとしてきて、男たちの話す内容も聞き取ることが出来る様になってきた。
『ムラサキを取り逃したらしい』
『どういうことだ』
『崖から落ちたらしい』
また戸が開いた。
『様子はどうだ?』
『まだ目覚めていません』
『 “古の力を持つ者” を持って帰ってこられたんだ。 ムラサキを追わせろ』
『ですが、崖から落ちたと』
『ああ、だから崖の下を探す。 少しでも息があれば “古の力を持つ者” なら分かるだろう。 東より先に見つけねばならんのだからな』
(紫さまが崖から落ちられた?)
驚いて身体を動かした拍子に足元にあった小卓に当たってしまい、その上に置いてあった筆がばらばらと音をたてて落ちた。
『起きたようだな。 お前の後を継ぐ者だ。 しっかりと鍛え上げろ』
戸の閉まる音がしてそれ以上何も聞こえなくなった。
(後を継ぐ?)
意味が全く分からない。
唱和が横たわっている部屋の障子が開いた。
『目が覚めたか』
初めて見る男だ。
『ここはどこですか、どうしてこんなことをするのですか』
『お前はこれから北の領土の “古の力を持つ者” として生きていく』
軽く持ち上げられると立たされた。 男が背筋を伸ばして目の前に座った。
人差し指と中指にフッと息を吹きかけた。
(封じ込まれる!)
そう思った瞬間、自分の名前に精神を集中させた。 いつか自分のことを分かってもらえるために、いつか自分自身で封じ込めを破るために、それには名しかない。
―――唱和。
額に人差し指を充てられた。
唱和の瞼に続いて頭がゆっくりと上がる。
「いかがで御座いますか? 痛みはなくなりましたでしょうか? 頭痛だけではなく、腹の底からの痛みも」
頭痛以外にそんな所に痛みがあるなどとニョゼは知らなかった。 だがよく考えると、ショウワが背中をさすってくれと言っていたのがその痛みだったのだろうか。
唱和の顔が上がった。 その目には二筋の涙が零れていた。
「唱和様、お帰りなさいませ。 お迎えがこれほどに遅れましたこと、師匠と共に深謝いたします」
ニョゼが居る “古の力を持つ者” 独唱と共に深謝するとは言えない。
四方がシキを見た。 終わったということなのだろうか、という目をしている。
別部屋に敷かれた布団に唱和が横臥し、その横にはニョゼがついている。
そのニョゼの耳に唱和の口から聞かされたことは、四方が言っていたことを裏付けするものだった。
唱和は東から攫われてきた “古の力を持つ者” だった。
今は中休憩ということになり、唱和の疲れが取れてからこれからのことを話すということになっている。
紫揺たちはいつも食事をとる部屋に戻り三人で茶を前にしている。
「凄かったですね、此之葉さん」
「ええ、本当に。 堂々としていて。 驚きました」
「いえ、そんな・・・あの、紫さま・・・」
「はい?」
「先ほどは有難う御座いました」
「あの時は此之葉さんの付き人のつもりで行きましたから、何にも気にしないでください」
唱和に手を携えたことを言っている。
「付き人だなんて、紫さまにそのようなことをお考えさせてしまい申し訳ありませんでした。 私が不甲斐ないばかりに」
「何を言ってるんです。 いつも此之葉さんにお世話になってるんですから、それと比べれば手を取ったことくらい、私のしたことなんてノミみたいなものです」
「ノミ?」 訊き返した秋我が声を大きくして笑った。
「まぁ、秋我ったら」
「いや、申し訳ありません」
謝ったのにまだ笑っている。
「紫さまが手を携えて下さったのもそうですが、あの時、ニョゼ様に私を信じるようにと言って下さったこと。 とても嬉しくて。 落ち着いて解けたのも紫さまのお言葉添えがあったからです」
「本当のことを言っただけですから」
悪びれることもなく言う。
「紫さまはご自分のお力にまだお気づきになっておられないようですが、紫さまのお一言がどれだけ大きなものか。 此之葉はよくよく分かったと思います。 私もですが」
笑いを収めた秋我が言い、此之葉が頷く。
「思ったことを言ってるだけです。 前言撤回もきっと簡単にしますし・・・あ、するかなぁ? どちらにしても口と頭が直結しているみたいです」
「口と頭が直結? それはどういう意味でしょうか?」
「思ったことをすぐ口にして、考えてないってことです」
秋我がまた大きな声で笑った。 見た目も領主によく似ているが、声帯も似ているのだろう。 良く響く声である。
「あら、また秋我様の笑い声」
「どんなお話をなさっているのかしら」
「襖に耳をくっ付けましょうか」
襖の向こうで三人が話している。
ん? 三人?
先の二人は “最高か” だ。 だが、その二人に混じって一人の存在がある。
その一人は、紫揺と此之葉と秋我、それぞれに違う茶を出した者でその時に紫揺に 『・・・すごい』 と言わせたシキの従者。 いわゆる紫揺派新参者である。
「まぁ、丹和歌(にわか)ったら、そんなことを言っては、はしたないわよ」
と言う彩楓の耳は襖に近寄っていく。
「そうよ。 そんなはしたないことをシキ様がお知りになったらお嘆きになるわ」
紅香の耳がピタリと襖にくっ付けられた。
「あら、お言葉とされていることが違いますが?」
丹和歌の耳も襖にくっついた。
「唱和はどちらを選ぶと思う」
長年いた北の領土か、生まれ故郷の東の領土か。 シキとマツリがそれぞれに考える様子を見せる。
「咎を与えなければいけない時がある」
唱和の選ぶそれによっては、それなりの咎を考えなくてはならない。
「攫われたのに咎ですの?」
「この何十年かは、何も知らなかったのだから仕方のないことだ。 それに唱和がしたくてしたことではない。 そこに咎はない。 だが攫われたことを知った、そのあとに選ぶ道の咎だ」
「攫われ、北の領土の者ではないと知っても、北の領土を選んだ者への咎ということですか?」
マツリが言う。
「そうだ。 唱和の身に起こったことはあってはならぬことだ。 だがそれを知っても尚 『各々の領土に足を踏み入れぬこと』 それを犯すと言うならば、それなりの咎を考えねばならん」
「父上、ですが・・・」
「シキ、唱和は攫われた時のままの童女ではない。 領土のことも本領のことも、よくよく把握しておる。 その上で唱和がどちらかを選ぶのだからな」
「それは今日中にということですか?」
マツリが問う。
「ああ。 東の領主が言っておった。 すぐにでも唱和を連れ帰りたいと。 唱和が東の領土の人間だと分かったその時点で、唱和を東に帰すのが尋常一様。 だが、あまりにも北に居た時が長すぎる。 唱和に選ばすのも筋であろう。 それは今日中に。 そして唱和が北を選んだ時の咎を考えておくのが本領たるもの。 北と東が洞を見つけ報告が無かった事に対しての咎も未だ出しておらん。 唱和のことが明らかになったからには、そちらの方もすぐに考えねばならん」
「そちらの件はどうなさいます。 北の領主はまだ動けない状態でございますし、簡単に本領のように労働、罰金というわけにはいきません」
「だからといって咎が無かった事には出来ん」
東西南北の領土が独立して初めての咎である。 それまでなら、各領土とも本領とも行き来があり、各領土とも互いの本領や領土を行き交うに金も持っていた。 だが各領土が独立にするにあたり金は本領が没収している。
金を造っていたのは本領であるということと、金があるから問題が起きるという理由からであった。 独立前は咎があれば罰金や本領に赴かせ労働を強いていたが、今はそれがままならない。
「謹慎と言う事では治まりませんか?」
「謹慎?」
「北は領主が動けません。 その上に唱和のことがあります。 これからを考えてゆかねばならないでしょう。 東は東の領主が言っていたように、紫が現れて民が浮足立っているかもしれません。 そんな時に領土を離れるのは考えものです。 本来なら本領での労働が望ましいところではありますが、今回は領土独立後初めてということで大赦として領土内での謹慎。 それではいけませんでしょうか」
四方が腕を組んだ。
「父上、マツリの言うのがよろしいかと」
「・・・緩いな」
「父上!」
「シキ、そう怒るな。 今は今回のことを除けば各領土が落ち着いておる。 だが領土が荒れたならばそんな緩いことは言っておられん。 過去にこれほど軽い咎があったではないかと言われたならばどうする」
「そうは言わせません」
問われたシキではなくマツリが応える。
「なにを根拠に」
「我が代々の祖、そして父上より引き継ぐ本領と各領土を平静に保ち、のちの世も争いなきよう我が身を粉にしてそう致します。 よって、その様な言(げん)を吐く者はおりません」
「・・・マツリ」
あまりにも早い言葉の出だった。
本領では本領領主の跡を継ぐ者が、本領と各領土の先ことを考えて己の身を削ることを宣言した時が代替わりである。 そしてその事は代替わりをしてから知らされる。 よってマツリは今その事を知らない。
だがマツリは代替わりにはまだ若すぎる。
「自信があるというのだな?」
「はい」
自信ではない、その様に力を注ぐだけだ。
「ではマツリの言うように」
「有難うございます」
「唱和のことはどう考える」
「一切の咎は無いものと」
「何もかも分かっていて北の領土に残ると言ってもか」
「いいえ、唱和に選ばせることが酷かと思います」
「どういうことだ?」
「唱和は迷うでしょう。 ですから本領から東へ帰るようにと言えばよろしいかと」
「唱和が迷うとは限らん。 それに北に残りたいと思っておっても本領が東へ帰れというのか」
「父上、それこそ緩いのではありませんか?」
四方が意外な目をした。 見方を変えるとそうなるのか。
「・・・そうかもしれんな」
「ははは、結局は全てマツリにしてやられたということか」
「そういうことになります」
四方が事の顛末をご隠居に報告に来ていた。
「だが、マツリのそれは若さがゆえ出てきた言(げん)だろう」
『我が身を粉にしてそう致します』 と言ったマツリの言のことを言っている。
「お前もまだ五十の歳じゃ」
「四十九でございます」
「一つくらいどうでもないであろうが。 それにそう言うならば “まだ五十の歳” より更に歳が足らんということ。 マツリにおいては領主どころか、男としてまだまだの二十四じゃ。 『己の身を削ることを宣言した時が代替わりである』 代々のそれにはまだまだ当てはまらん。 あまりマツリの言うことを優先せず、お前の手で決めよ」
「私の歳を間違えて、マツリの歳を違いなく覚えておられるとは、如何ともしがたいですな」
「そんなことはどうでもいいじゃろうが。 それで? 唱和は納得して東に帰ったのか?」
「納得も何もありませんでした。 ただ頷いただけでございました。 あまりに心配になり視気(シキ)に視させましたら、北への想いは微塵もなかったようです」
セノギに『わしは、別段此処を気に入っておるわけではない。 だからと言って北の領土も気に入っておるわけで・・・』 と言ったそのままだった。
此処というのは日本にあるムロイの屋敷のことである。
咎のことを考えた時が無駄だったか、と四方はどこかでそう思ったが、マツリとシキと問答することも大切な時である。
少しの溜息で済んだものだった。
だが、それだけではないことを四方は知らなかった。
官吏が罪人への咎を迷った時には、何の迷いもなく四方が咎を与える。
シキはそれをいつも心に病んでいた。 だがシキの知らないところで、こうして四方が深く考察していたのかと知ると、四方の言に心病んでいたことを猛省する思いであった。
シキがそんなことを考えていることなど知りもしない四方であった。
「で? 結局は当時のことを何も覚えておらんということか」
唱和の身体が楽になった後、四方が唱和に当時のことを訊いたが、唱和は何も聞かされていないということであった。
「覚えていないのではなく、知らされなかったということでしょう」
ご隠居が言ったように年齢なことというより、当時の北の領土内のことを何も見聞きさせられなかったということだった。
「当時の北の領土のことはこれで糸が切れたということでしょう」
「致し方あるまい。 それに過ぎたことだ」
「はい・・・」
その四方は “古の力を持つ者” に対して思うことがあった。 それをご隠居に聞かせる。
本領には “古の力を持つ者” は辺境にしかいない。 その力を目にすることなどそうそうない。
此之葉が封じ込めを解いたあと、唱和がニョゼに支えられ別部屋に行った後、四方が此之葉に訊いた。
何十年とあったものが、あれだけの言葉で解けたというには、なんとも理解しがたいのだが、と。
此之葉の説明はこうだった。
唱和に掛けられた封じ込めは、これからどんな人間として生きていくかというだけのことであった。 それは唱和を見た時にすぐに分かったという。
たしかに『お前は北の民』 と封じ込めの最初に命じられていたが、東への望郷をも封じ込めたわけではなかった。
残念ながらそれが表に出てくることは無かったが、どこかでそれを感じ、北の領土に思い入れを持っているわけではないと思っていたのだろう。
もしこれが独唱や此之葉が同じ言葉で封じ込めをしたとすれば、望郷も何もかも一つ一つを詳しく命じずとも、全てを封じ込めることが出来、逆にそれを解こうとするならば、あんな短い言葉や時では済まなかったということであった。
時の北の領土の “古の力を持つ者” は、東の持つ力の足元にも及ばなかったようである。
「ふむ。 過程を考えるとなんとも寂しいものがあるが、時を戻せるわけではない。 時の北の “古の力を持つ者” の力が弱かったお蔭で丸く収まったと考えるしかないのう。 で、領主代理とやらは?」
「最初は肩を落としておりましたが、それが唱和の一番の道であろうと、北に帰り領主にその旨をしっかりと伝えると言っておりました。 代理が男ならよかったのですが・・・女の涙は見たくありませんなぁ」
ニョゼが先に本領を発った。 帰る時にはニョゼは涙にむせんでいたという。
「なんじゃ、美しかったのか?」
「そんな意味では御座いません」
美しかったが。
「怪しいもんじゃ。 それで? 北と東に咎の言い渡しに行っておるのか?」
「今頃は唱和を東の領土に降ろしていることでしょう。 今日はロセイが三度も籠を乗せ飛んだことになります。 キョウゲンもまた連日の陽の高い中で、今日は最初に様子を見に行ったのが一度、ロセイについて陽の高いうちを三度も飛び、シキとマツリが休ませたいと言いまして」
「ロセイのことは前代未聞じゃ。 主以外を乗せるなどと、身体どころか精神を休ませても仕方があるまい。 まぁ、キョウゲンも昼日中に連日で飛んでいては目も効かんようになってしまうかもしれん。 どちらも致し方ないことか」
「明日には飛ばせます」
「ああ、そうじゃな。 それでいいじゃろう。 それで・・・」
ご隠居が先程までと違って厳しい表情を見せて四方を見る。
「リツソが来年十五の歳になる。 二つ名は考えておるのだろうな」
二つに一つ、厳しい顔をする方を間違っているのではないか。 まぁ、もう今は領主ではないのだから、領主としてのことを考えなければならないことは必要ないとは分かっているが、それにしてもここにきてリツソの二つ名の話しとは。 四方が大きな溜息を吐く。
「なんじゃ考えておらんのか」
「リツソにはまだ何の才も見当たりません。 考えようもありません」
二つ名を決めるにあたって生まれ持っての才能に合わせて決めるが、リツソにはそれが全く見えない。
「お前が見落としているだけではないのか」
「まだ勉学すらもままならない状態です」
「では何と申すか、十五の歳を迎えても幼名で過ごさせるということか」
「そう焦られずともまだ時があります」
「そんな呑気なことを言って―――」
襖の向こうから声がして、すっと開くと四方の側付きが座っていた。
「お話のところ申し訳ありません。 四方様に官吏から急ぎ相談があるとのことで・・・」
「ああ、そうか。 すぐに行く。 それでは父上、失礼いたします」
「しかと考えておけよ」
笑顔で応えた。
ご隠居の屋敷を出ると振り返り側付きに礼を言う。
「助かった。 言いたいことは言えたし、あれ以上になれば止めることも出来んかったわ。 良い頃合いだった」
「それはよう御座いました」
官吏からの相談というのは真っ赤な嘘である。 ご隠居の屋敷に入る前に、リツソなりシキなり澪引の話が出れば、呼び出しが来たと四方を助け出すということを画策していたのであった。
四方が馬に跨った。
「さて、仕事が溜まっておるのぉ・・・」
考えただけでゾッとする。
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何が起きたのか分からなかった唱和がなんとか抵抗を試みるが、到底五歳。 ウーウーと猿轡から声を漏らすことしか出来なかった。 だがそれすらも疎んだその男が、唱和に何かの匂いを含んだ手巾を顔に被せた。
唱和の記憶はここで一旦途絶えている。
男の話し声が聞こえてうっすらと目覚めた。 頭がぼんやりとしている。 猿轡はとられていたが、まだ身体は縛られていた。 誰かが、何人かが出入りのする音も聞こえてきた。 波に揺れてはいない。 それに畳の上にいる。 船の上ではないのが分かる。
何が起こったのか、ここはどこなのか、どうして縛られているのか、何も分からない。 不安が黒い点となり果てしなく心の中に広がっていく。 涙が出そうになるのを口を一文字にして堪える。 だんだんと頭の中がはっきりとしてきて、男たちの話す内容も聞き取ることが出来る様になってきた。
『ムラサキを取り逃したらしい』
『どういうことだ』
『崖から落ちたらしい』
また戸が開いた。
『様子はどうだ?』
『まだ目覚めていません』
『 “古の力を持つ者” を持って帰ってこられたんだ。 ムラサキを追わせろ』
『ですが、崖から落ちたと』
『ああ、だから崖の下を探す。 少しでも息があれば “古の力を持つ者” なら分かるだろう。 東より先に見つけねばならんのだからな』
(紫さまが崖から落ちられた?)
驚いて身体を動かした拍子に足元にあった小卓に当たってしまい、その上に置いてあった筆がばらばらと音をたてて落ちた。
『起きたようだな。 お前の後を継ぐ者だ。 しっかりと鍛え上げろ』
戸の閉まる音がしてそれ以上何も聞こえなくなった。
(後を継ぐ?)
意味が全く分からない。
唱和が横たわっている部屋の障子が開いた。
『目が覚めたか』
初めて見る男だ。
『ここはどこですか、どうしてこんなことをするのですか』
『お前はこれから北の領土の “古の力を持つ者” として生きていく』
軽く持ち上げられると立たされた。 男が背筋を伸ばして目の前に座った。
人差し指と中指にフッと息を吹きかけた。
(封じ込まれる!)
そう思った瞬間、自分の名前に精神を集中させた。 いつか自分のことを分かってもらえるために、いつか自分自身で封じ込めを破るために、それには名しかない。
―――唱和。
額に人差し指を充てられた。
唱和の瞼に続いて頭がゆっくりと上がる。
「いかがで御座いますか? 痛みはなくなりましたでしょうか? 頭痛だけではなく、腹の底からの痛みも」
頭痛以外にそんな所に痛みがあるなどとニョゼは知らなかった。 だがよく考えると、ショウワが背中をさすってくれと言っていたのがその痛みだったのだろうか。
唱和の顔が上がった。 その目には二筋の涙が零れていた。
「唱和様、お帰りなさいませ。 お迎えがこれほどに遅れましたこと、師匠と共に深謝いたします」
ニョゼが居る “古の力を持つ者” 独唱と共に深謝するとは言えない。
四方がシキを見た。 終わったということなのだろうか、という目をしている。
別部屋に敷かれた布団に唱和が横臥し、その横にはニョゼがついている。
そのニョゼの耳に唱和の口から聞かされたことは、四方が言っていたことを裏付けするものだった。
唱和は東から攫われてきた “古の力を持つ者” だった。
今は中休憩ということになり、唱和の疲れが取れてからこれからのことを話すということになっている。
紫揺たちはいつも食事をとる部屋に戻り三人で茶を前にしている。
「凄かったですね、此之葉さん」
「ええ、本当に。 堂々としていて。 驚きました」
「いえ、そんな・・・あの、紫さま・・・」
「はい?」
「先ほどは有難う御座いました」
「あの時は此之葉さんの付き人のつもりで行きましたから、何にも気にしないでください」
唱和に手を携えたことを言っている。
「付き人だなんて、紫さまにそのようなことをお考えさせてしまい申し訳ありませんでした。 私が不甲斐ないばかりに」
「何を言ってるんです。 いつも此之葉さんにお世話になってるんですから、それと比べれば手を取ったことくらい、私のしたことなんてノミみたいなものです」
「ノミ?」 訊き返した秋我が声を大きくして笑った。
「まぁ、秋我ったら」
「いや、申し訳ありません」
謝ったのにまだ笑っている。
「紫さまが手を携えて下さったのもそうですが、あの時、ニョゼ様に私を信じるようにと言って下さったこと。 とても嬉しくて。 落ち着いて解けたのも紫さまのお言葉添えがあったからです」
「本当のことを言っただけですから」
悪びれることもなく言う。
「紫さまはご自分のお力にまだお気づきになっておられないようですが、紫さまのお一言がどれだけ大きなものか。 此之葉はよくよく分かったと思います。 私もですが」
笑いを収めた秋我が言い、此之葉が頷く。
「思ったことを言ってるだけです。 前言撤回もきっと簡単にしますし・・・あ、するかなぁ? どちらにしても口と頭が直結しているみたいです」
「口と頭が直結? それはどういう意味でしょうか?」
「思ったことをすぐ口にして、考えてないってことです」
秋我がまた大きな声で笑った。 見た目も領主によく似ているが、声帯も似ているのだろう。 良く響く声である。
「あら、また秋我様の笑い声」
「どんなお話をなさっているのかしら」
「襖に耳をくっ付けましょうか」
襖の向こうで三人が話している。
ん? 三人?
先の二人は “最高か” だ。 だが、その二人に混じって一人の存在がある。
その一人は、紫揺と此之葉と秋我、それぞれに違う茶を出した者でその時に紫揺に 『・・・すごい』 と言わせたシキの従者。 いわゆる紫揺派新参者である。
「まぁ、丹和歌(にわか)ったら、そんなことを言っては、はしたないわよ」
と言う彩楓の耳は襖に近寄っていく。
「そうよ。 そんなはしたないことをシキ様がお知りになったらお嘆きになるわ」
紅香の耳がピタリと襖にくっ付けられた。
「あら、お言葉とされていることが違いますが?」
丹和歌の耳も襖にくっついた。
「唱和はどちらを選ぶと思う」
長年いた北の領土か、生まれ故郷の東の領土か。 シキとマツリがそれぞれに考える様子を見せる。
「咎を与えなければいけない時がある」
唱和の選ぶそれによっては、それなりの咎を考えなくてはならない。
「攫われたのに咎ですの?」
「この何十年かは、何も知らなかったのだから仕方のないことだ。 それに唱和がしたくてしたことではない。 そこに咎はない。 だが攫われたことを知った、そのあとに選ぶ道の咎だ」
「攫われ、北の領土の者ではないと知っても、北の領土を選んだ者への咎ということですか?」
マツリが言う。
「そうだ。 唱和の身に起こったことはあってはならぬことだ。 だがそれを知っても尚 『各々の領土に足を踏み入れぬこと』 それを犯すと言うならば、それなりの咎を考えねばならん」
「父上、ですが・・・」
「シキ、唱和は攫われた時のままの童女ではない。 領土のことも本領のことも、よくよく把握しておる。 その上で唱和がどちらかを選ぶのだからな」
「それは今日中にということですか?」
マツリが問う。
「ああ。 東の領主が言っておった。 すぐにでも唱和を連れ帰りたいと。 唱和が東の領土の人間だと分かったその時点で、唱和を東に帰すのが尋常一様。 だが、あまりにも北に居た時が長すぎる。 唱和に選ばすのも筋であろう。 それは今日中に。 そして唱和が北を選んだ時の咎を考えておくのが本領たるもの。 北と東が洞を見つけ報告が無かった事に対しての咎も未だ出しておらん。 唱和のことが明らかになったからには、そちらの方もすぐに考えねばならん」
「そちらの件はどうなさいます。 北の領主はまだ動けない状態でございますし、簡単に本領のように労働、罰金というわけにはいきません」
「だからといって咎が無かった事には出来ん」
東西南北の領土が独立して初めての咎である。 それまでなら、各領土とも本領とも行き来があり、各領土とも互いの本領や領土を行き交うに金も持っていた。 だが各領土が独立にするにあたり金は本領が没収している。
金を造っていたのは本領であるということと、金があるから問題が起きるという理由からであった。 独立前は咎があれば罰金や本領に赴かせ労働を強いていたが、今はそれがままならない。
「謹慎と言う事では治まりませんか?」
「謹慎?」
「北は領主が動けません。 その上に唱和のことがあります。 これからを考えてゆかねばならないでしょう。 東は東の領主が言っていたように、紫が現れて民が浮足立っているかもしれません。 そんな時に領土を離れるのは考えものです。 本来なら本領での労働が望ましいところではありますが、今回は領土独立後初めてということで大赦として領土内での謹慎。 それではいけませんでしょうか」
四方が腕を組んだ。
「父上、マツリの言うのがよろしいかと」
「・・・緩いな」
「父上!」
「シキ、そう怒るな。 今は今回のことを除けば各領土が落ち着いておる。 だが領土が荒れたならばそんな緩いことは言っておられん。 過去にこれほど軽い咎があったではないかと言われたならばどうする」
「そうは言わせません」
問われたシキではなくマツリが応える。
「なにを根拠に」
「我が代々の祖、そして父上より引き継ぐ本領と各領土を平静に保ち、のちの世も争いなきよう我が身を粉にしてそう致します。 よって、その様な言(げん)を吐く者はおりません」
「・・・マツリ」
あまりにも早い言葉の出だった。
本領では本領領主の跡を継ぐ者が、本領と各領土の先ことを考えて己の身を削ることを宣言した時が代替わりである。 そしてその事は代替わりをしてから知らされる。 よってマツリは今その事を知らない。
だがマツリは代替わりにはまだ若すぎる。
「自信があるというのだな?」
「はい」
自信ではない、その様に力を注ぐだけだ。
「ではマツリの言うように」
「有難うございます」
「唱和のことはどう考える」
「一切の咎は無いものと」
「何もかも分かっていて北の領土に残ると言ってもか」
「いいえ、唱和に選ばせることが酷かと思います」
「どういうことだ?」
「唱和は迷うでしょう。 ですから本領から東へ帰るようにと言えばよろしいかと」
「唱和が迷うとは限らん。 それに北に残りたいと思っておっても本領が東へ帰れというのか」
「父上、それこそ緩いのではありませんか?」
四方が意外な目をした。 見方を変えるとそうなるのか。
「・・・そうかもしれんな」
「ははは、結局は全てマツリにしてやられたということか」
「そういうことになります」
四方が事の顛末をご隠居に報告に来ていた。
「だが、マツリのそれは若さがゆえ出てきた言(げん)だろう」
『我が身を粉にしてそう致します』 と言ったマツリの言のことを言っている。
「お前もまだ五十の歳じゃ」
「四十九でございます」
「一つくらいどうでもないであろうが。 それにそう言うならば “まだ五十の歳” より更に歳が足らんということ。 マツリにおいては領主どころか、男としてまだまだの二十四じゃ。 『己の身を削ることを宣言した時が代替わりである』 代々のそれにはまだまだ当てはまらん。 あまりマツリの言うことを優先せず、お前の手で決めよ」
「私の歳を間違えて、マツリの歳を違いなく覚えておられるとは、如何ともしがたいですな」
「そんなことはどうでもいいじゃろうが。 それで? 唱和は納得して東に帰ったのか?」
「納得も何もありませんでした。 ただ頷いただけでございました。 あまりに心配になり視気(シキ)に視させましたら、北への想いは微塵もなかったようです」
セノギに『わしは、別段此処を気に入っておるわけではない。 だからと言って北の領土も気に入っておるわけで・・・』 と言ったそのままだった。
此処というのは日本にあるムロイの屋敷のことである。
咎のことを考えた時が無駄だったか、と四方はどこかでそう思ったが、マツリとシキと問答することも大切な時である。
少しの溜息で済んだものだった。
だが、それだけではないことを四方は知らなかった。
官吏が罪人への咎を迷った時には、何の迷いもなく四方が咎を与える。
シキはそれをいつも心に病んでいた。 だがシキの知らないところで、こうして四方が深く考察していたのかと知ると、四方の言に心病んでいたことを猛省する思いであった。
シキがそんなことを考えていることなど知りもしない四方であった。
「で? 結局は当時のことを何も覚えておらんということか」
唱和の身体が楽になった後、四方が唱和に当時のことを訊いたが、唱和は何も聞かされていないということであった。
「覚えていないのではなく、知らされなかったということでしょう」
ご隠居が言ったように年齢なことというより、当時の北の領土内のことを何も見聞きさせられなかったということだった。
「当時の北の領土のことはこれで糸が切れたということでしょう」
「致し方あるまい。 それに過ぎたことだ」
「はい・・・」
その四方は “古の力を持つ者” に対して思うことがあった。 それをご隠居に聞かせる。
本領には “古の力を持つ者” は辺境にしかいない。 その力を目にすることなどそうそうない。
此之葉が封じ込めを解いたあと、唱和がニョゼに支えられ別部屋に行った後、四方が此之葉に訊いた。
何十年とあったものが、あれだけの言葉で解けたというには、なんとも理解しがたいのだが、と。
此之葉の説明はこうだった。
唱和に掛けられた封じ込めは、これからどんな人間として生きていくかというだけのことであった。 それは唱和を見た時にすぐに分かったという。
たしかに『お前は北の民』 と封じ込めの最初に命じられていたが、東への望郷をも封じ込めたわけではなかった。
残念ながらそれが表に出てくることは無かったが、どこかでそれを感じ、北の領土に思い入れを持っているわけではないと思っていたのだろう。
もしこれが独唱や此之葉が同じ言葉で封じ込めをしたとすれば、望郷も何もかも一つ一つを詳しく命じずとも、全てを封じ込めることが出来、逆にそれを解こうとするならば、あんな短い言葉や時では済まなかったということであった。
時の北の領土の “古の力を持つ者” は、東の持つ力の足元にも及ばなかったようである。
「ふむ。 過程を考えるとなんとも寂しいものがあるが、時を戻せるわけではない。 時の北の “古の力を持つ者” の力が弱かったお蔭で丸く収まったと考えるしかないのう。 で、領主代理とやらは?」
「最初は肩を落としておりましたが、それが唱和の一番の道であろうと、北に帰り領主にその旨をしっかりと伝えると言っておりました。 代理が男ならよかったのですが・・・女の涙は見たくありませんなぁ」
ニョゼが先に本領を発った。 帰る時にはニョゼは涙にむせんでいたという。
「なんじゃ、美しかったのか?」
「そんな意味では御座いません」
美しかったが。
「怪しいもんじゃ。 それで? 北と東に咎の言い渡しに行っておるのか?」
「今頃は唱和を東の領土に降ろしていることでしょう。 今日はロセイが三度も籠を乗せ飛んだことになります。 キョウゲンもまた連日の陽の高い中で、今日は最初に様子を見に行ったのが一度、ロセイについて陽の高いうちを三度も飛び、シキとマツリが休ませたいと言いまして」
「ロセイのことは前代未聞じゃ。 主以外を乗せるなどと、身体どころか精神を休ませても仕方があるまい。 まぁ、キョウゲンも昼日中に連日で飛んでいては目も効かんようになってしまうかもしれん。 どちらも致し方ないことか」
「明日には飛ばせます」
「ああ、そうじゃな。 それでいいじゃろう。 それで・・・」
ご隠居が先程までと違って厳しい表情を見せて四方を見る。
「リツソが来年十五の歳になる。 二つ名は考えておるのだろうな」
二つに一つ、厳しい顔をする方を間違っているのではないか。 まぁ、もう今は領主ではないのだから、領主としてのことを考えなければならないことは必要ないとは分かっているが、それにしてもここにきてリツソの二つ名の話しとは。 四方が大きな溜息を吐く。
「なんじゃ考えておらんのか」
「リツソにはまだ何の才も見当たりません。 考えようもありません」
二つ名を決めるにあたって生まれ持っての才能に合わせて決めるが、リツソにはそれが全く見えない。
「お前が見落としているだけではないのか」
「まだ勉学すらもままならない状態です」
「では何と申すか、十五の歳を迎えても幼名で過ごさせるということか」
「そう焦られずともまだ時があります」
「そんな呑気なことを言って―――」
襖の向こうから声がして、すっと開くと四方の側付きが座っていた。
「お話のところ申し訳ありません。 四方様に官吏から急ぎ相談があるとのことで・・・」
「ああ、そうか。 すぐに行く。 それでは父上、失礼いたします」
「しかと考えておけよ」
笑顔で応えた。
ご隠居の屋敷を出ると振り返り側付きに礼を言う。
「助かった。 言いたいことは言えたし、あれ以上になれば止めることも出来んかったわ。 良い頃合いだった」
「それはよう御座いました」
官吏からの相談というのは真っ赤な嘘である。 ご隠居の屋敷に入る前に、リツソなりシキなり澪引の話が出れば、呼び出しが来たと四方を助け出すということを画策していたのであった。
四方が馬に跨った。
「さて、仕事が溜まっておるのぉ・・・」
考えただけでゾッとする。