国津道 第60回
『国津道(くにつみち)』 目次
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- 国津道(くにつみち)- 第60回
この何十年と社に手を合わせに行った女たちが息ある姿で戻って来ない。 すぐに言い継がれていた花生のことが頭に浮かんだ。 花生は社が朽ちるのを待っている。 その社に近づくものを許さないであろう。
今はまだ花生の名が出てきてはいないが、花生が言っていたことが親戚筋以外に漏れていて、もし各家で花生が悪言を言っていたと言い伝えられていたのなら、いつ思い出すか分からない。
花生のことは思い出されては困る。
だから他の家々から花生の名を消すために、呪いが大蛇の姿として山に現れた、そう広めた。
山神のせいにはしなかった。 でなければ、どうして山神が大蛇を遣わしたかと、人間が何かをしたからだという話になってしまうかもしれないからだった。 だが呪いという言葉に変えてしまえば、恐れるあまり何に対しての呪いなのかとは口にしない。
それがいつしか僧里村では山ではなく社に大蛇が居ると変わってきた家もあった。 他の村ではいつどう変わったのか、山神ということになっていた。
お婆が花生の名を消すために大蛇話を広めたということ、この事は長治から聞いて次郎も知っていた。 このことは大婆の家では子供を持った時点で伝えられる。 それまでは他と同じように漠然と大蛇と語られ教えられているだけであった。
大婆も長治ももちろん次郎もそのことを浅香に言わなかった。
それを思うと・・・昔語りは全てが真実ではないということだ。 子供の頃、信じてきた昔語りがそうでなかったように。
お婆がしたように、浅香が言うように、どこかに嘘や誤魔化しが混じっているということだ。 そしてそれが主役になるということもあるということだ。
「家によって少々の昔語りの違いはある、口伝やから。 口伝やからこそ違ってきたんやないですか?」
「どういうことや」
「昔語りなんてそういうものやってことですよ。 昔々に誰かがこの山に上った。 そして足を滑らせた。 不幸なことが続いた。 ・・・親父も足を滑らせた」
「え?」
「後ろを歩いていた彼が支えてくれましたけどね」
それが無ければ大婆と共に山を落ちていただろう。
「山の中、雨が降れば足元が悪くなる、滑りやすくなる。 雨が降らんけりゃ土が乾いてこれも滑りやすくなる」
今日は土が乾いていた、 通常なら足など滑らせないはずだが、大婆を背負っていた。 だが孫が居ると言えど長治はまだ若い。 そう思うと年寄があの階段を、坂を上ろうとすれば足を滑らすだろう。 朱葉姫に謝りに来たのは、呪者から聞かされた花生のことを知った花生の親戚筋で、家をまとめていた女たちのはず。 それはその家の年長者であったはず。
「そ、それは、滑ったんか、や、山に居る大蛇に落とされたと違うんか」
話していた男と別の男が言う。 だがまだ大蛇を恐れているのだろう、どもりながら言う相手を一瞥して「滑ったって言っただろ」 と言い捨てて話を続ける。
「親父の時には彼が支えてくれたけど、不幸が続いた時には晴れ間が続き・・・雨が続いていたかもしれん」
「雨で足を滑らせたというんか」
「可能性として。 まだ疑っとるんやったら一度、社まで上ったら?」
「・・・」
誰も返事をしない。
「彼、社の修理もしてるけど・・・いや、社の修理をしてくれたけど、なんともない」
「え・・・」
「社はかなり傷んでる。 雨が続けば朽ちる」
社が・・・朽ちる? 思ってもみなかったことだ。 だか冷静に考えるとそうではないか。 もう何十年、いや何百年と手を入れていなかった社ではないか。
いや待て・・・。 そう考えるとおかしなことがある。 いつから村の人々が社に行かなくなったのか、昔語りはいつからあったのか、正確なところは分からない。 だが少なくとも百年以上、いや二百年、三百年、それ以上。
風雨にさらされたまま何の手入れもされていなかった社が今もある。 ここになって雨が続けば朽ちる、そんな状態でも社がある。 そうれはどういうことだ。
「お・・・大婆が言っとった朱葉姫の返事とは・・・なんや?」
次郎が口角を上げる。
「話さん」
「なっ、どういうことや!」
「村は何百年と紅葉姫社に足を運ばんかった。 放りっぱなしやった。 居もしない大蛇を恐れて。 大婆は社に向かった。 その大婆に朱葉姫が返事をくれた。 おれもそれを受け取った。 それが何かは話してやらん」
「次郎・・・」
「おれの家の宝として語られる。 おれと親父は彼のあとを継いで社を修理する」
「次郎、もしかして今の今まで社がもってたのは・・・その、なんて言っていいのか・・・朱葉姫、か?」
他の男たちも同じように考えていたのだろう。
「朱葉姫が社を守ってくれてたんか?」
「山にも社にも大蛇はおらん、朱葉姫が守ってくれてただけか?」
「想像するも勝手、行くのも行かんのも勝手。 好きにすりゃええ」
浅香の手を借りて長治がセカンドシートに大婆を乗せた。 その大婆がぐったりと体を横たえている。
活きのいい大婆だったが、何十年とずっと家の中に居て急に外に出たのだ。 外の空気に触れただけでも疲れただろう。 ましてや信じられない事に朱葉姫からの返事もあった。 山を下りきると興奮に疲れを感じたのだろう。
浅香が大婆の脈をとっている。 百歳を越している。 年齢的に考えても安心できるものではない。
「姉ちゃん・・・」
「きっと大丈夫よ。 それに浅香さんがみてくれてるから」
「うん・・・」
浅香が大婆の手首から手を離す。
「脈が少し遅いです、呼吸も浅い」
どうしようか。 ここから山を下りて行くにはピンカーブこそないがカーブが続く。 そしてアスファルトが敷いてあるといってもそれは荒く、都会の中のようなアスファルトではないし、時々山からの石が落ちてきていることもある。 決して車で走るに邪魔になるほどの大きな石ではないが、それなりの衝撃はある。
だがそれを押してでも病院に運ばなければならない時もある。
振動を回避するために運ばないか、それとも振動を受けながらでも運ぶか。 二つに一つ・・・。
「・・・しばらくこのまま安静にしましょう」
年齢的なことを考えると判断を下すには勇気のいるものだったが、普段の大婆のことを考えると一時的な可能性が高い。 それなら要らない振動を避けるべきだろう。
それにここで救急車に運ばれてしまえば、語り継がれているだけだった昔語りなのに何百年と息を沈めていた大蛇が現実として受け止められるかもしれない。
山の下で村人が待っていたことは知っている。 大婆の決断を無に帰したくはないし、救急隊員として考えてはいけない事とは分かっているが、大婆も朱葉姫を肌で感じてくれたのだ、それを周りから崩されるようなことはしたくない。
「ああ・・・」
長治にしてみれば大婆はずっと当たり前に生きているものだと思っていた。 それがどこか間違っているとは思っていたが、そう思わせる大婆だった。 その大婆が今は目を閉じてシートに身体をあずけている。
「大婆・・・」
祐樹の学校では既に入学式が終わっていた。
「一年生って小っせーの」
背の低い祐樹だったが、さすがに五年生になった祐樹は一年生よりずっと背が高い。
その一年生の世話係となった祐樹の相手は塁(るい)という名前だった。 両親ともにバスケットボールの八村塁選手のU-16の時から応援しているファンだということで、両親は塁をバスケット選手にしたいらしい。
「塁のお父さんとお母さんって背が高いのか?」
活躍している背の高くない選手もいるには居るが、一般的に考えるとバスケットボール選手になりたければ背が高いことが望まれる。
「うーん・・・。 普通」
給食の鍋を抱えている祐樹の横に付いて歩いていた塁が考えるようにして答えた。
「バスケットボールしたいの?」
塁が首を振る。
「何になりたいの?」
「レゴ」
「へ?」
「レゴ。 レゴブロックで色んなものを作る人になりたい」
レゴとはデンマークの玩具会社であり、プラスティックの組み立てブロック玩具のブランドである。
「そっか」
祐樹も母親が買ってくれたレゴブロックを持ってはいたが、さほど興味を引かなかった。 でもこの塁はレゴブロックに興味を持っているのだろう。
一度詩甫がレゴのテーマパークに連れて行ってくれた。 レゴのスタッフがいろいろと教えてくれてそのときは楽しかった。 目を輝かせて色々なものを組み立てた。 だがその後に続くことは無かった。 性に合っていなかったのだろう。
「なれるといいな」
テーマパークをあとにした時、手を繋いでいた詩甫が祐樹に言った。
『祐樹? 今のうちに色んなものをいっぱい作るといいわよ』
『今のうち?』
『そっ。 大人になったら色々と面倒臭いことがあるみたいだから』
あの時の詩甫はまだ勤めたばかりだった。 今から思えば初任給で連れて行ってくれたのかもしれない。
詩甫の言った“色んなもの” “作る” それはブロックで何かを作る、それだけの意味ではなかったのだろうか。
(あの時は気付かなかったな。 それに・・・)
“大人になったら” という言葉が頭の中で何度も鐘楼が鳴り響くように聞こえる。
祐樹の頭の中には大蛇の昔語りも然り、朱葉姫や花生、薄のことがある。
(よく分かんないことも多いけど・・・)
一年生の塁が祐樹を見上げていた。 その視線に気が付いた祐樹。
「ん? なに?」
鍋を胸で抱え直す。
「祐樹君みたいに言ったくれたの初めて」
「え?」
塁がパァッと顔を明るくする。
「鍋、僕も持つ」
塁が祐樹の抱えている鍋に手を伸ばした。
心配をかけたね、と長治から浅香に連絡が入った。
浅香の指示の元、あのあと家に戻りしばらく様子を見ていたという。
浅香が言っていたのは安静が一番だということで、暫く待って大婆の呼吸が十分に落ち着いてくれば病院に運ぶようにと言われていた。
病院に行くとすぐに点滴をされたということであったが、その後が大変だったという。 点滴がまだ終わらない内から大婆がいつもの息を吹き返したらしい。
『元気に戻り過ぎてな、紅葉姫社の修繕のことであーやこーやと口を挟んできた。 ましてや毎日社に行ってるよ。 まだまだ死なんわ』
どれだけ大婆が元気になったとしても足腰が若い頃に戻る筈はない。 大婆が社に行っているというのは、長治と次郎が背負って山を上がっているのだろう。
「それは、お疲れ様です。 でも大婆さんにとってもお社にとっても何よりです」
長治と次郎の苦労を思いながらも浅香が言うと、それを分かったのだろう長治が電話の向こうで笑った。
『そんなわけで連絡が遅れてすまんかったな』
「いいえ、大婆さんがお元気であればそれが一番なので」
『そう言ってくれると有難い。 社のことだけど、大工が入ってくれることになったよ』
「え? そうなんですか?」
『ああ、あの時、山に居た者たちも手伝ってくれる』
少なくとも材料を運ばなければいけないからだろう。
「それじゃあ・・・」
『ああ、昔語りの大蛇は居ない。 それが段々と広がるだろう』
浅香が詩甫に連絡を入れた。 長治から聞いたことを話すためである。
『それじゃあ、お社は・・・』
耳にあてているスマホの向こうの詩甫が言う。
「ええ、本職さんによって修繕されるようです」
詩甫の返事がない。 浅香は詩甫の気持ちを察してそのまま何も言わなかった。
暫くして詩甫の声がした。
『浅香さん・・・』
「はい」
更に二十秒ほどの間があった。
『朱葉姫・・・朱葉姫は・・・』
詩甫の言わんとしていることは分かる。 浅香も同じように思っているからだ。 だがそれを言ってしまっては、他人である浅香が認めてしまうことになる。 それは言ってはいけないことだと思っている。
「朱葉姫が決めることです」
民の顔を見た、民の気持ちを聞いた、朱葉姫はこれからもあの社に残るだろう。 それは朱葉姫が最初の最初に望んでいたことだ。 望んでいたことが叶ったということ、いや続けていけるということ。
だが詩甫も浅香もそうではなかった。 朱葉姫が社に残る、それを危惧していた。 寂しく思っていた。
切っ掛けは花生の言葉だった。 波夏真が花生を待っている。 そして二人で生まれ変わるという話を聞いたことから始まった。
あくまでも朱葉姫は神ではない。 もし輪廻転生があるのなら、朱葉姫があのまま社に居るということは転生出来ないということになる。
朱葉姫は嫁ぐ前に呪詛された。 それはあの時代の年齢を考慮して歳を重ねた年齢ではなかったはず。 未来的に誰かの元に嫁ぐということだったのか、もう相手が決まっていたのか。 もし相手が決まっていたのならば、その相手は政略的な相手だったのか、それとも・・・。
曹司から聞いていた朱葉姫の父親、そして花生からも聞いた兄である波夏真のことを考えると政略結婚などは有り得ないだろう。
曹司の話では、父親が朱葉姫が嫁ぐために作った衣装の中の一つを朱葉姫が気に入っていて、その赤い着物を着て埋葬され今も身に付けているという。 きっとその着物を着て愛する相手に嫁ぐはずだったのだろう。
未来的に誰かの元に嫁ぐというのではなく、相手は決まっていた可能性が高い。 万が一にも政略結婚であったならば、嫌な相手であれば気に入った着物などないであろう。
詩甫がそう考えると同じ様に浅香も考えている。
未来的に誰かの元に嫁ぐための衣装、その衣装を気に入る朱葉姫。 それは有り得ない。 朱葉姫を知っている詩甫だからこそ分かる。
朱葉姫が心を寄せた誰か。 朱葉姫の父親も波夏真もその誰かに朱葉姫を嫁がせたかったはず。
朱葉姫を知っている詩甫が考えていることなのに、浅香が知っているかのように、朱葉姫が決めることだと答えた。
『浅香さん・・・私は、朱葉姫に生まれ変わってほしいんです』
そして縁があるのならその誰かと結ばれてほしい。
ずっと社に括らされて欲しくない。
『お社で村の人達の喜ぶ顔を見て朱葉姫が微笑むのではなく、朱葉姫自身の手に幸せをつかんでほしいんです』
詩甫は朱葉姫に花生の子孫と、それから幾人かの村の民を見せてから社を閉じるつもりだった。 社を閉じれば朱葉姫は朱葉姫としての生涯を終える。 そして新しい道に踏み出せる。 そこに朱葉姫が心を寄せたその誰かが居てくれる、それを願って。
それが朱葉姫の幸せだと思っている。
「それも一つでしょうね」
『え?』
「人の幸せなんて誰にも分かりませんよ。 自分自身も」
『浅香さん・・・』
「朱葉姫は誰かに恋をしていたのかもしれません。 あの呪詛さえなければ、その恋は成就したのかもしれません。 それで嫁ぐという話になったのかもしれません。 ですがその前に呪詛が行われました。 状況は変わりました」
『・・・』
「その状況は野崎さんと僕が朱葉姫を知るもっともっと以前のことです」
そうだ。 朱葉姫は呪詛された体を癒していた。 そこに民の声が聞こえた。 朱葉姫は恋した相手を待たなかった。 民の声に応えたのだった。
「朱葉姫が決めることです。 僕も曹司も・・・いえ、曹司は朱葉姫が決めたことに従うでしょうけど」
朱葉姫は恋した相手ではなく民を選んだのだった。
『浅香さん・・・』
「全ては朱葉姫が決めることです」
『・・・はい』
詩甫の二つの瞳から各々(おのおの)に一筋の涙が零れる。
愛する人の元に行けない、どれだけ悲しいのだろうか。 背負うということはこういう事なのだろうか。
「野崎さん、朱葉姫を信じて下さい」
『え・・・』
詩甫は朱葉姫を信じている。 疑いなど持ったことは無い。
「いい加減な曹司ですけど、曹司から朱葉姫の心を聞きました」
朱葉姫の心?
『それは・・・』
それは何なのだろう。 朱葉姫は民に添った姫。 ただただ民に添った。
きっとその中で愛する人を見つけたのだろう。 成就することは無かったが。
「朱葉姫は自分の幸せより民を選ばれるだろうということでした。 それが朱葉姫の幸せでもあると」
『・・・え』
「朱葉姫は今も民の幸せを願っているんです。 朱葉姫が居ることによって民が幸せを感じる。 そして朱葉姫自身も民よって支えられている。 その声を聞きたい、その笑顔を見たい。 民の幸せを願いたい」
浅香の言いたいことは分かっている。 朱葉姫が民を選んだことも。 だが詩甫が首を振る。 それでは朱葉姫の未来がない。
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この何十年と社に手を合わせに行った女たちが息ある姿で戻って来ない。 すぐに言い継がれていた花生のことが頭に浮かんだ。 花生は社が朽ちるのを待っている。 その社に近づくものを許さないであろう。
今はまだ花生の名が出てきてはいないが、花生が言っていたことが親戚筋以外に漏れていて、もし各家で花生が悪言を言っていたと言い伝えられていたのなら、いつ思い出すか分からない。
花生のことは思い出されては困る。
だから他の家々から花生の名を消すために、呪いが大蛇の姿として山に現れた、そう広めた。
山神のせいにはしなかった。 でなければ、どうして山神が大蛇を遣わしたかと、人間が何かをしたからだという話になってしまうかもしれないからだった。 だが呪いという言葉に変えてしまえば、恐れるあまり何に対しての呪いなのかとは口にしない。
それがいつしか僧里村では山ではなく社に大蛇が居ると変わってきた家もあった。 他の村ではいつどう変わったのか、山神ということになっていた。
お婆が花生の名を消すために大蛇話を広めたということ、この事は長治から聞いて次郎も知っていた。 このことは大婆の家では子供を持った時点で伝えられる。 それまでは他と同じように漠然と大蛇と語られ教えられているだけであった。
大婆も長治ももちろん次郎もそのことを浅香に言わなかった。
それを思うと・・・昔語りは全てが真実ではないということだ。 子供の頃、信じてきた昔語りがそうでなかったように。
お婆がしたように、浅香が言うように、どこかに嘘や誤魔化しが混じっているということだ。 そしてそれが主役になるということもあるということだ。
「家によって少々の昔語りの違いはある、口伝やから。 口伝やからこそ違ってきたんやないですか?」
「どういうことや」
「昔語りなんてそういうものやってことですよ。 昔々に誰かがこの山に上った。 そして足を滑らせた。 不幸なことが続いた。 ・・・親父も足を滑らせた」
「え?」
「後ろを歩いていた彼が支えてくれましたけどね」
それが無ければ大婆と共に山を落ちていただろう。
「山の中、雨が降れば足元が悪くなる、滑りやすくなる。 雨が降らんけりゃ土が乾いてこれも滑りやすくなる」
今日は土が乾いていた、 通常なら足など滑らせないはずだが、大婆を背負っていた。 だが孫が居ると言えど長治はまだ若い。 そう思うと年寄があの階段を、坂を上ろうとすれば足を滑らすだろう。 朱葉姫に謝りに来たのは、呪者から聞かされた花生のことを知った花生の親戚筋で、家をまとめていた女たちのはず。 それはその家の年長者であったはず。
「そ、それは、滑ったんか、や、山に居る大蛇に落とされたと違うんか」
話していた男と別の男が言う。 だがまだ大蛇を恐れているのだろう、どもりながら言う相手を一瞥して「滑ったって言っただろ」 と言い捨てて話を続ける。
「親父の時には彼が支えてくれたけど、不幸が続いた時には晴れ間が続き・・・雨が続いていたかもしれん」
「雨で足を滑らせたというんか」
「可能性として。 まだ疑っとるんやったら一度、社まで上ったら?」
「・・・」
誰も返事をしない。
「彼、社の修理もしてるけど・・・いや、社の修理をしてくれたけど、なんともない」
「え・・・」
「社はかなり傷んでる。 雨が続けば朽ちる」
社が・・・朽ちる? 思ってもみなかったことだ。 だか冷静に考えるとそうではないか。 もう何十年、いや何百年と手を入れていなかった社ではないか。
いや待て・・・。 そう考えるとおかしなことがある。 いつから村の人々が社に行かなくなったのか、昔語りはいつからあったのか、正確なところは分からない。 だが少なくとも百年以上、いや二百年、三百年、それ以上。
風雨にさらされたまま何の手入れもされていなかった社が今もある。 ここになって雨が続けば朽ちる、そんな状態でも社がある。 そうれはどういうことだ。
「お・・・大婆が言っとった朱葉姫の返事とは・・・なんや?」
次郎が口角を上げる。
「話さん」
「なっ、どういうことや!」
「村は何百年と紅葉姫社に足を運ばんかった。 放りっぱなしやった。 居もしない大蛇を恐れて。 大婆は社に向かった。 その大婆に朱葉姫が返事をくれた。 おれもそれを受け取った。 それが何かは話してやらん」
「次郎・・・」
「おれの家の宝として語られる。 おれと親父は彼のあとを継いで社を修理する」
「次郎、もしかして今の今まで社がもってたのは・・・その、なんて言っていいのか・・・朱葉姫、か?」
他の男たちも同じように考えていたのだろう。
「朱葉姫が社を守ってくれてたんか?」
「山にも社にも大蛇はおらん、朱葉姫が守ってくれてただけか?」
「想像するも勝手、行くのも行かんのも勝手。 好きにすりゃええ」
浅香の手を借りて長治がセカンドシートに大婆を乗せた。 その大婆がぐったりと体を横たえている。
活きのいい大婆だったが、何十年とずっと家の中に居て急に外に出たのだ。 外の空気に触れただけでも疲れただろう。 ましてや信じられない事に朱葉姫からの返事もあった。 山を下りきると興奮に疲れを感じたのだろう。
浅香が大婆の脈をとっている。 百歳を越している。 年齢的に考えても安心できるものではない。
「姉ちゃん・・・」
「きっと大丈夫よ。 それに浅香さんがみてくれてるから」
「うん・・・」
浅香が大婆の手首から手を離す。
「脈が少し遅いです、呼吸も浅い」
どうしようか。 ここから山を下りて行くにはピンカーブこそないがカーブが続く。 そしてアスファルトが敷いてあるといってもそれは荒く、都会の中のようなアスファルトではないし、時々山からの石が落ちてきていることもある。 決して車で走るに邪魔になるほどの大きな石ではないが、それなりの衝撃はある。
だがそれを押してでも病院に運ばなければならない時もある。
振動を回避するために運ばないか、それとも振動を受けながらでも運ぶか。 二つに一つ・・・。
「・・・しばらくこのまま安静にしましょう」
年齢的なことを考えると判断を下すには勇気のいるものだったが、普段の大婆のことを考えると一時的な可能性が高い。 それなら要らない振動を避けるべきだろう。
それにここで救急車に運ばれてしまえば、語り継がれているだけだった昔語りなのに何百年と息を沈めていた大蛇が現実として受け止められるかもしれない。
山の下で村人が待っていたことは知っている。 大婆の決断を無に帰したくはないし、救急隊員として考えてはいけない事とは分かっているが、大婆も朱葉姫を肌で感じてくれたのだ、それを周りから崩されるようなことはしたくない。
「ああ・・・」
長治にしてみれば大婆はずっと当たり前に生きているものだと思っていた。 それがどこか間違っているとは思っていたが、そう思わせる大婆だった。 その大婆が今は目を閉じてシートに身体をあずけている。
「大婆・・・」
祐樹の学校では既に入学式が終わっていた。
「一年生って小っせーの」
背の低い祐樹だったが、さすがに五年生になった祐樹は一年生よりずっと背が高い。
その一年生の世話係となった祐樹の相手は塁(るい)という名前だった。 両親ともにバスケットボールの八村塁選手のU-16の時から応援しているファンだということで、両親は塁をバスケット選手にしたいらしい。
「塁のお父さんとお母さんって背が高いのか?」
活躍している背の高くない選手もいるには居るが、一般的に考えるとバスケットボール選手になりたければ背が高いことが望まれる。
「うーん・・・。 普通」
給食の鍋を抱えている祐樹の横に付いて歩いていた塁が考えるようにして答えた。
「バスケットボールしたいの?」
塁が首を振る。
「何になりたいの?」
「レゴ」
「へ?」
「レゴ。 レゴブロックで色んなものを作る人になりたい」
レゴとはデンマークの玩具会社であり、プラスティックの組み立てブロック玩具のブランドである。
「そっか」
祐樹も母親が買ってくれたレゴブロックを持ってはいたが、さほど興味を引かなかった。 でもこの塁はレゴブロックに興味を持っているのだろう。
一度詩甫がレゴのテーマパークに連れて行ってくれた。 レゴのスタッフがいろいろと教えてくれてそのときは楽しかった。 目を輝かせて色々なものを組み立てた。 だがその後に続くことは無かった。 性に合っていなかったのだろう。
「なれるといいな」
テーマパークをあとにした時、手を繋いでいた詩甫が祐樹に言った。
『祐樹? 今のうちに色んなものをいっぱい作るといいわよ』
『今のうち?』
『そっ。 大人になったら色々と面倒臭いことがあるみたいだから』
あの時の詩甫はまだ勤めたばかりだった。 今から思えば初任給で連れて行ってくれたのかもしれない。
詩甫の言った“色んなもの” “作る” それはブロックで何かを作る、それだけの意味ではなかったのだろうか。
(あの時は気付かなかったな。 それに・・・)
“大人になったら” という言葉が頭の中で何度も鐘楼が鳴り響くように聞こえる。
祐樹の頭の中には大蛇の昔語りも然り、朱葉姫や花生、薄のことがある。
(よく分かんないことも多いけど・・・)
一年生の塁が祐樹を見上げていた。 その視線に気が付いた祐樹。
「ん? なに?」
鍋を胸で抱え直す。
「祐樹君みたいに言ったくれたの初めて」
「え?」
塁がパァッと顔を明るくする。
「鍋、僕も持つ」
塁が祐樹の抱えている鍋に手を伸ばした。
心配をかけたね、と長治から浅香に連絡が入った。
浅香の指示の元、あのあと家に戻りしばらく様子を見ていたという。
浅香が言っていたのは安静が一番だということで、暫く待って大婆の呼吸が十分に落ち着いてくれば病院に運ぶようにと言われていた。
病院に行くとすぐに点滴をされたということであったが、その後が大変だったという。 点滴がまだ終わらない内から大婆がいつもの息を吹き返したらしい。
『元気に戻り過ぎてな、紅葉姫社の修繕のことであーやこーやと口を挟んできた。 ましてや毎日社に行ってるよ。 まだまだ死なんわ』
どれだけ大婆が元気になったとしても足腰が若い頃に戻る筈はない。 大婆が社に行っているというのは、長治と次郎が背負って山を上がっているのだろう。
「それは、お疲れ様です。 でも大婆さんにとってもお社にとっても何よりです」
長治と次郎の苦労を思いながらも浅香が言うと、それを分かったのだろう長治が電話の向こうで笑った。
『そんなわけで連絡が遅れてすまんかったな』
「いいえ、大婆さんがお元気であればそれが一番なので」
『そう言ってくれると有難い。 社のことだけど、大工が入ってくれることになったよ』
「え? そうなんですか?」
『ああ、あの時、山に居た者たちも手伝ってくれる』
少なくとも材料を運ばなければいけないからだろう。
「それじゃあ・・・」
『ああ、昔語りの大蛇は居ない。 それが段々と広がるだろう』
浅香が詩甫に連絡を入れた。 長治から聞いたことを話すためである。
『それじゃあ、お社は・・・』
耳にあてているスマホの向こうの詩甫が言う。
「ええ、本職さんによって修繕されるようです」
詩甫の返事がない。 浅香は詩甫の気持ちを察してそのまま何も言わなかった。
暫くして詩甫の声がした。
『浅香さん・・・』
「はい」
更に二十秒ほどの間があった。
『朱葉姫・・・朱葉姫は・・・』
詩甫の言わんとしていることは分かる。 浅香も同じように思っているからだ。 だがそれを言ってしまっては、他人である浅香が認めてしまうことになる。 それは言ってはいけないことだと思っている。
「朱葉姫が決めることです」
民の顔を見た、民の気持ちを聞いた、朱葉姫はこれからもあの社に残るだろう。 それは朱葉姫が最初の最初に望んでいたことだ。 望んでいたことが叶ったということ、いや続けていけるということ。
だが詩甫も浅香もそうではなかった。 朱葉姫が社に残る、それを危惧していた。 寂しく思っていた。
切っ掛けは花生の言葉だった。 波夏真が花生を待っている。 そして二人で生まれ変わるという話を聞いたことから始まった。
あくまでも朱葉姫は神ではない。 もし輪廻転生があるのなら、朱葉姫があのまま社に居るということは転生出来ないということになる。
朱葉姫は嫁ぐ前に呪詛された。 それはあの時代の年齢を考慮して歳を重ねた年齢ではなかったはず。 未来的に誰かの元に嫁ぐということだったのか、もう相手が決まっていたのか。 もし相手が決まっていたのならば、その相手は政略的な相手だったのか、それとも・・・。
曹司から聞いていた朱葉姫の父親、そして花生からも聞いた兄である波夏真のことを考えると政略結婚などは有り得ないだろう。
曹司の話では、父親が朱葉姫が嫁ぐために作った衣装の中の一つを朱葉姫が気に入っていて、その赤い着物を着て埋葬され今も身に付けているという。 きっとその着物を着て愛する相手に嫁ぐはずだったのだろう。
未来的に誰かの元に嫁ぐというのではなく、相手は決まっていた可能性が高い。 万が一にも政略結婚であったならば、嫌な相手であれば気に入った着物などないであろう。
詩甫がそう考えると同じ様に浅香も考えている。
未来的に誰かの元に嫁ぐための衣装、その衣装を気に入る朱葉姫。 それは有り得ない。 朱葉姫を知っている詩甫だからこそ分かる。
朱葉姫が心を寄せた誰か。 朱葉姫の父親も波夏真もその誰かに朱葉姫を嫁がせたかったはず。
朱葉姫を知っている詩甫が考えていることなのに、浅香が知っているかのように、朱葉姫が決めることだと答えた。
『浅香さん・・・私は、朱葉姫に生まれ変わってほしいんです』
そして縁があるのならその誰かと結ばれてほしい。
ずっと社に括らされて欲しくない。
『お社で村の人達の喜ぶ顔を見て朱葉姫が微笑むのではなく、朱葉姫自身の手に幸せをつかんでほしいんです』
詩甫は朱葉姫に花生の子孫と、それから幾人かの村の民を見せてから社を閉じるつもりだった。 社を閉じれば朱葉姫は朱葉姫としての生涯を終える。 そして新しい道に踏み出せる。 そこに朱葉姫が心を寄せたその誰かが居てくれる、それを願って。
それが朱葉姫の幸せだと思っている。
「それも一つでしょうね」
『え?』
「人の幸せなんて誰にも分かりませんよ。 自分自身も」
『浅香さん・・・』
「朱葉姫は誰かに恋をしていたのかもしれません。 あの呪詛さえなければ、その恋は成就したのかもしれません。 それで嫁ぐという話になったのかもしれません。 ですがその前に呪詛が行われました。 状況は変わりました」
『・・・』
「その状況は野崎さんと僕が朱葉姫を知るもっともっと以前のことです」
そうだ。 朱葉姫は呪詛された体を癒していた。 そこに民の声が聞こえた。 朱葉姫は恋した相手を待たなかった。 民の声に応えたのだった。
「朱葉姫が決めることです。 僕も曹司も・・・いえ、曹司は朱葉姫が決めたことに従うでしょうけど」
朱葉姫は恋した相手ではなく民を選んだのだった。
『浅香さん・・・』
「全ては朱葉姫が決めることです」
『・・・はい』
詩甫の二つの瞳から各々(おのおの)に一筋の涙が零れる。
愛する人の元に行けない、どれだけ悲しいのだろうか。 背負うということはこういう事なのだろうか。
「野崎さん、朱葉姫を信じて下さい」
『え・・・』
詩甫は朱葉姫を信じている。 疑いなど持ったことは無い。
「いい加減な曹司ですけど、曹司から朱葉姫の心を聞きました」
朱葉姫の心?
『それは・・・』
それは何なのだろう。 朱葉姫は民に添った姫。 ただただ民に添った。
きっとその中で愛する人を見つけたのだろう。 成就することは無かったが。
「朱葉姫は自分の幸せより民を選ばれるだろうということでした。 それが朱葉姫の幸せでもあると」
『・・・え』
「朱葉姫は今も民の幸せを願っているんです。 朱葉姫が居ることによって民が幸せを感じる。 そして朱葉姫自身も民よって支えられている。 その声を聞きたい、その笑顔を見たい。 民の幸せを願いたい」
浅香の言いたいことは分かっている。 朱葉姫が民を選んだことも。 だが詩甫が首を振る。 それでは朱葉姫の未来がない。