虚空の辰刻(とき) 第79回
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- 虚空の辰刻(とき)- 第79回
男の背中を摩ろうとしていたシキの手が止まり後ろを振り返った。 かなり離れた所から走ってくる男の姿が見えた。
いま手を添えている男も、走ってきている男も見かけなかった中心の男ということは分かっていた。
『何やってんだよっ!』 叫びながら男が走ってくる。
男が醍十に近づくと、大きな身体の醍十の陰になっていたシキの存在にようやく気付いた。
『こ、これはシキ様!』 慌てて片膝をつき頭を垂れた。
『あらたまることはありません』
走って来た野夜を見ながら、シキが醍十の背中をさすってやる。
『この者は、悲しみに暮れているようです』
と、一瞬にして醍十を視た。 視たくなかったがそれが己の仕事。
醍十はただひたすら紫を失ったことだけを思っていた。
野夜の背筋に冷たい汗が走る。 醍十を視たのかと。 自分を視られたら最後だ・・・。 自分は醍十のように純粋ではない。
日本のことが、紫揺のことがバレてしまう。
『・・・はい』
『此処は足場が悪いですから気を付けてあげてください』
『はい』
『では、この者をお頼みしますね』
『はい』
シキはそれ以上何も言わなかった。 ロセイに乗るとその場を去った。 醍十の想いが余りに悲しすぎてこれ以上その場にいられなかった。 と言う。
「あの悲しみは・・・過去の紫へのものとは異なると思います」
あの時は男の持つあまりの悲しみに心が潰れそうになり冷静になれなかったが、あとでよく考えるとあの悲しみは大きすぎる。 居なくなった紫を知らないものが持つ感情ではない。
「どういうことだ?」
「確かに、過去の紫への想いは東の民が皆思っていることです。 ですが・・・余りにも大きすぎます。 まるで、数刻前に紫を失ったような大きな悲しみでした」
「どういうことだ・・・」
再度同じことを言い、四方が腕を組んだ。
「分かりません。 その後、他の中心の民も視ましたが、今までと同じく紫への想いがあるのみでした。 辺境においても変わりはありませんでした」
「その男一人が、紫を・・・とうに居なくなった紫を、身近に感じていたという事か?」
「父上の仰る通り、とうに居なくなった紫を身近に感じ紫が居なくなったと悲しみに暮れたという事ですか?」
ずっと黙っていたマツリが口をはさんだ。 だがそれは四方の言ったことの重複だった。 それ程に疑問があったのだから。 だが四方とは違う。 新しい疑問が芽生える。
「紫のことで心が潰れ、発狂したとは考えられませんか?」
何十年も前に居なくなった紫を身近に感じるということはおかしな話であるし、その者は多分紫を見たことがないはず。
紫が居なくなった十数年から考えて紫の姿を知っている者はもう限られているだろう。
「・・・」
シキが答えられない。 醍十の心が悲しみの一色だけになっていたのだから。
だが、あの時シキに冷静なる心があれば・・・民に沿う心を捨てていれば、仕事だけに心を寄せていれば、野夜の心を視たはず。
醍十は何の隠し事も疑う心も持っていない。 真っ直ぐに生きていた。 自分が紫揺の乗ったフェリーを追えなかったことを気に病んでいた。 そして紫揺が北の領土に入ったと聞かされ、全てが自分のせいだと思った。 取り返しのつかないことをしてしまったと。 すぐさま一人領土に帰ってきてからは毎日、紫が落ちたとされる崖の周辺で彷徨っていた。
野夜も他の者も紫揺が北の領土に入ったことを聞かされた時に絶望を感じたが、まだ僅かな期待を捨てきれていなかった。 だからずっとあの地で紫揺を待つつもりでいた。 だが、塔弥から醍十の奇行を知らされ、野夜が一人飛んでやって来た。 シキと会ったのはその時だった。
シキが野夜の心を視れば、東のことも北のことも日本のことも紫のことも、全てわかった筈だった。
「発狂か・・・有り得るかもしれんな」
四方もシキに東を預ける前は己で足を運んでいた。 東の現状は知っていた。 シキほどには民の心の中を視ることは出来なかったが、何十年も経つというのに、どこか影を見せる民を見ていた。
「己は・・・東のことはあまりよく知りませんが、それ程までに民は紫に領土に帰ってきてほしいと思っているのですか?」
マツリがシキの見る東の領土と南の領土に行くのは年に一度。 各領土の祭の時だけである。 それも包括に民を見るだけで誰と話すわけではない。
「ああ。 だが生きていればの話だ」
あの崖から落ちのだ。 四方はその崖を知っている。 身体は見つかってはいないものの、生きているはずはない。
「東の民は紫が生きていると信じているからこそ、今も待っているのでしょう?」
「ええ、そうよ」
「紫が生きているかどうかはあの時より今まで分からんが・・・あれから何十年。 紫の身体は何処にも上がってこなかった」
「はい」
「だが今も生きているという可能性はないに等しい」
「父上?」
何を言うのかと、シキが問う。
「東に新たな五色を迎えさせよう」
「東は受けないと思います」
「いつまでも悲しみに暮れていても・・・。 何十年と経っているのに発狂したかもしれない男が居るのだろう。 これ以上、東の心を荒らしてはならん」
「ですが・・・」
「終わりのないことに誰かが終わらせねばならん。 時を追ってわしが東に向かう」
『時を追って』 今すぐではない。 マツリが僅かに眉を顰めた。
(本領がお忙しすぎるのか・・・)
机いっぱいに広がる書類の山を思い出した。
「そろそろいい刻限になったか」
四方が椅子から立ち上がるとマツリとシキに朝餉を食べるように言い執務室に向かった。
それから少しすると始業を知らせる太鼓の音が鳴り響いた。
シキの去った東の領土では、野夜が醍十以上にその場に崩れていた。
「ホント・・・やめてくれよ・・・」
崩れている醍十に言う。
シキに心を視られなかったことに安堵し、身体中の力が抜けた。
「おい、醍十」
醍十がゆっくりと生気のない目を野夜に向ける。
「お前は・・・バカか」
醍十の目が伏せようとしかけた。
「紫さまが、北の領土をお出になった」
伏せかけた瞼が止まった。 そしてゆっくりと上がる。
「紫さま・・・が?」
「そうだ。 あの地に帰って来られた。 領土に入る前に連絡があった」
「紫さまがっ!?」
「バッ! バカ! よせ!」
野夜の肩を両方の腕で握り締めると力いっぱい寄せた。
「肩が潰れるっ!」
「あ・・・悪い」
「この、バカ力がっ!」
醍十の手が野夜の肩から外されると野夜が立ち上がった。
「醍十、行くぞ。 紫さまをお救いに」
「お、おう!」
青い空の下、醍十の目に純粋に光る灯りが戻った。
その日の夕餉の席では、仕事に追われることなく東の領土に出向いていたシキに四方が領土の様子を訊いていた。 夕餉の席には四方とマツリ、そしてシキが居るだけである。
本領領主の右腕左腕になるマツリとシキ。 四方の奥である澪引は、四方の本領領主としてのイロハを何も知らない。 四方が何をしているのか、マツリとシキが何をしているのかも。 だがせめて邪魔はしたくなかった。 それが悲しいとは言えなかった。
夕餉に同席はしないでおこうと思っていた。 そして上手い具合と言っていいのだろうか、体調を崩し夕餉の席に同席することが出来なくなった。
「領主は?」
「ここの所は会っておりません」
「シキが東に赴いているのを知っているのにか?」
「祭で会った時、領主に何かがあるように視えましたが、それが何かまでは分かりませんでした。 とても燻ぶっていたものでしたので。 それ以降は・・・民の方が心配でしたので、辺境にばかり赴いておりました。 辺境の領主の息子がよくしてくれております」
東の領土に飛ぶと泊りがけで辺境の民を見て回っていた。 そのシキに付いて回り、食事からシキの寝泊まりする場所の用意などを、辺境で二手に分かれて暮らす領主の二人の息子がしていたということである。
「そうか。 東の領主は古(いにしえ)の力を多少なりとも持っておるからな。 シキとて簡単に視ることなどできないのであろうな」
古の力を持つ者、それは女人に限られて少なく生まれてくる。 だが突然と言っていいのだろうか、現東の領主は古の力を持って生まれてきた。
だが古の力を持つ者から、力不足として落とされたと聞く。 それでも多少なりとも力はあるはず。
「他には」
「御座いません」
「姉上―――」
マツリが言いかけた時、四方がそれを止めた。
「明日、話そう」
そう言ってマツリを見た後にシキを見た。
「シキ、疲れたであろう。 湯浴みをしてゆるりとするが良い」
報告はこれまでだと、それ以上のことは何も要らないと言われている。
「はい、明日」
マツリから何かあるのだろうかと、シキがマツリを見るとマツリが頬を緩めた。
「姉上はお疲れで御座います。 今日一晩ゆるりとされて下さい」
ずっと東の領土に泊まり込んで東の地でどれだけ民に話しかけ励ましたのだろう。 声もまだ嗄れている。 思いを表には見せないが、東の民を想って悲しんでいるのは分かっている。
「昌耶に薬湯の用意が出来たか訊いて来ます」
マツリがその場を立とうとするとシキがそれを目で断った。 四方がもう自分はこの場に必要ないと言っているのだ。
「マツリ、手を添えてもらえる?」
「姉上?」
「薬湯の用意は出来ているでしょう。 昌耶ですもの。 房に戻って休むわ」
四方が両手を合わせたそれを、顔の中央に運び、鼻を挟むように手を置いた。
「シキ」
「はい」
シキの返事を聞いてその顔を上げる。
「お前は・・・これからはお前のことを考えろ」
「父上?」
不穏な空気を感じてマツリが四方を呼んだが、四方はシキを見ている。
「明日、頼みごとがある」
「承りました」
表情を変えずただ笑みを持っていう。
『明日の頼み事』 は分かる。 先ほど己が言いかけたことだ。 だが 『お前は、お前のことを考えろ』 それはどういうことだ。
疑問を持った後、一瞬にしてマツリが顔を蒼白にさせた。
(姉上が・・・姉上が、お役御免ということか!?)
「マツリ?」
シキが顔面蒼白になっているマツリを呼ぶ。
「は、はい」
「手を添えてもらえないかしら?」
気丈に振舞っているとしか見えないシキの手を震える手で迎える。
「姉上・・・」
「お房まで送ってもらえるかしら?」
振舞ってなどいない。 シキはいつもと同じだ。
シキが眠れない夜を越した。 翌日の朝餉の席に向かわねばならない。 久しぶりに家族全員が揃う席であるはず。
昨日は朝餉をマツリと、昼餉を母とリツソと食べたが、夕餉時には母である澪引が体調を崩したと部屋から出ることが無かった。 そして母親想いのリツソが母親についていた。
身体を起こす。
シキが目覚めたことを悟った昌耶(しょうや)が、襖を開け部屋の中に入る。 部屋の中は回廊から襖を開けても中が見えないように背の高い衝立が立ててある。 衝立を避けるように部屋に入ると、その奥の部屋に寝室がある。 寝室のある襖の前に座る。
「シキ様、お目覚めですか?」
「・・・ええ」
「では衣裳のお替えをお手伝いいたします」
「ええ、お願いね」
僅かに襖が開いた。 そこから滑るように昌耶が入って来る。 回廊には残された従者が並んでいる。
着替えを手伝いながら昌耶が言う。
「シキ様、少しは時を頂けませんと」
「あら? なんの時かしら?」
着替えを全て済ませ昌耶が回廊に繋がる襖を開けた。
「あら・・・」
まだ陽が昇って間なしだというのに、開けられた襖の向こうに波葉(なみは)が立っていた。 シキを見てニコリと微笑むと深くお辞儀をした
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男の背中を摩ろうとしていたシキの手が止まり後ろを振り返った。 かなり離れた所から走ってくる男の姿が見えた。
いま手を添えている男も、走ってきている男も見かけなかった中心の男ということは分かっていた。
『何やってんだよっ!』 叫びながら男が走ってくる。
男が醍十に近づくと、大きな身体の醍十の陰になっていたシキの存在にようやく気付いた。
『こ、これはシキ様!』 慌てて片膝をつき頭を垂れた。
『あらたまることはありません』
走って来た野夜を見ながら、シキが醍十の背中をさすってやる。
『この者は、悲しみに暮れているようです』
と、一瞬にして醍十を視た。 視たくなかったがそれが己の仕事。
醍十はただひたすら紫を失ったことだけを思っていた。
野夜の背筋に冷たい汗が走る。 醍十を視たのかと。 自分を視られたら最後だ・・・。 自分は醍十のように純粋ではない。
日本のことが、紫揺のことがバレてしまう。
『・・・はい』
『此処は足場が悪いですから気を付けてあげてください』
『はい』
『では、この者をお頼みしますね』
『はい』
シキはそれ以上何も言わなかった。 ロセイに乗るとその場を去った。 醍十の想いが余りに悲しすぎてこれ以上その場にいられなかった。 と言う。
「あの悲しみは・・・過去の紫へのものとは異なると思います」
あの時は男の持つあまりの悲しみに心が潰れそうになり冷静になれなかったが、あとでよく考えるとあの悲しみは大きすぎる。 居なくなった紫を知らないものが持つ感情ではない。
「どういうことだ?」
「確かに、過去の紫への想いは東の民が皆思っていることです。 ですが・・・余りにも大きすぎます。 まるで、数刻前に紫を失ったような大きな悲しみでした」
「どういうことだ・・・」
再度同じことを言い、四方が腕を組んだ。
「分かりません。 その後、他の中心の民も視ましたが、今までと同じく紫への想いがあるのみでした。 辺境においても変わりはありませんでした」
「その男一人が、紫を・・・とうに居なくなった紫を、身近に感じていたという事か?」
「父上の仰る通り、とうに居なくなった紫を身近に感じ紫が居なくなったと悲しみに暮れたという事ですか?」
ずっと黙っていたマツリが口をはさんだ。 だがそれは四方の言ったことの重複だった。 それ程に疑問があったのだから。 だが四方とは違う。 新しい疑問が芽生える。
「紫のことで心が潰れ、発狂したとは考えられませんか?」
何十年も前に居なくなった紫を身近に感じるということはおかしな話であるし、その者は多分紫を見たことがないはず。
紫が居なくなった十数年から考えて紫の姿を知っている者はもう限られているだろう。
「・・・」
シキが答えられない。 醍十の心が悲しみの一色だけになっていたのだから。
だが、あの時シキに冷静なる心があれば・・・民に沿う心を捨てていれば、仕事だけに心を寄せていれば、野夜の心を視たはず。
醍十は何の隠し事も疑う心も持っていない。 真っ直ぐに生きていた。 自分が紫揺の乗ったフェリーを追えなかったことを気に病んでいた。 そして紫揺が北の領土に入ったと聞かされ、全てが自分のせいだと思った。 取り返しのつかないことをしてしまったと。 すぐさま一人領土に帰ってきてからは毎日、紫が落ちたとされる崖の周辺で彷徨っていた。
野夜も他の者も紫揺が北の領土に入ったことを聞かされた時に絶望を感じたが、まだ僅かな期待を捨てきれていなかった。 だからずっとあの地で紫揺を待つつもりでいた。 だが、塔弥から醍十の奇行を知らされ、野夜が一人飛んでやって来た。 シキと会ったのはその時だった。
シキが野夜の心を視れば、東のことも北のことも日本のことも紫のことも、全てわかった筈だった。
「発狂か・・・有り得るかもしれんな」
四方もシキに東を預ける前は己で足を運んでいた。 東の現状は知っていた。 シキほどには民の心の中を視ることは出来なかったが、何十年も経つというのに、どこか影を見せる民を見ていた。
「己は・・・東のことはあまりよく知りませんが、それ程までに民は紫に領土に帰ってきてほしいと思っているのですか?」
マツリがシキの見る東の領土と南の領土に行くのは年に一度。 各領土の祭の時だけである。 それも包括に民を見るだけで誰と話すわけではない。
「ああ。 だが生きていればの話だ」
あの崖から落ちのだ。 四方はその崖を知っている。 身体は見つかってはいないものの、生きているはずはない。
「東の民は紫が生きていると信じているからこそ、今も待っているのでしょう?」
「ええ、そうよ」
「紫が生きているかどうかはあの時より今まで分からんが・・・あれから何十年。 紫の身体は何処にも上がってこなかった」
「はい」
「だが今も生きているという可能性はないに等しい」
「父上?」
何を言うのかと、シキが問う。
「東に新たな五色を迎えさせよう」
「東は受けないと思います」
「いつまでも悲しみに暮れていても・・・。 何十年と経っているのに発狂したかもしれない男が居るのだろう。 これ以上、東の心を荒らしてはならん」
「ですが・・・」
「終わりのないことに誰かが終わらせねばならん。 時を追ってわしが東に向かう」
『時を追って』 今すぐではない。 マツリが僅かに眉を顰めた。
(本領がお忙しすぎるのか・・・)
机いっぱいに広がる書類の山を思い出した。
「そろそろいい刻限になったか」
四方が椅子から立ち上がるとマツリとシキに朝餉を食べるように言い執務室に向かった。
それから少しすると始業を知らせる太鼓の音が鳴り響いた。
シキの去った東の領土では、野夜が醍十以上にその場に崩れていた。
「ホント・・・やめてくれよ・・・」
崩れている醍十に言う。
シキに心を視られなかったことに安堵し、身体中の力が抜けた。
「おい、醍十」
醍十がゆっくりと生気のない目を野夜に向ける。
「お前は・・・バカか」
醍十の目が伏せようとしかけた。
「紫さまが、北の領土をお出になった」
伏せかけた瞼が止まった。 そしてゆっくりと上がる。
「紫さま・・・が?」
「そうだ。 あの地に帰って来られた。 領土に入る前に連絡があった」
「紫さまがっ!?」
「バッ! バカ! よせ!」
野夜の肩を両方の腕で握り締めると力いっぱい寄せた。
「肩が潰れるっ!」
「あ・・・悪い」
「この、バカ力がっ!」
醍十の手が野夜の肩から外されると野夜が立ち上がった。
「醍十、行くぞ。 紫さまをお救いに」
「お、おう!」
青い空の下、醍十の目に純粋に光る灯りが戻った。
その日の夕餉の席では、仕事に追われることなく東の領土に出向いていたシキに四方が領土の様子を訊いていた。 夕餉の席には四方とマツリ、そしてシキが居るだけである。
本領領主の右腕左腕になるマツリとシキ。 四方の奥である澪引は、四方の本領領主としてのイロハを何も知らない。 四方が何をしているのか、マツリとシキが何をしているのかも。 だがせめて邪魔はしたくなかった。 それが悲しいとは言えなかった。
夕餉に同席はしないでおこうと思っていた。 そして上手い具合と言っていいのだろうか、体調を崩し夕餉の席に同席することが出来なくなった。
「領主は?」
「ここの所は会っておりません」
「シキが東に赴いているのを知っているのにか?」
「祭で会った時、領主に何かがあるように視えましたが、それが何かまでは分かりませんでした。 とても燻ぶっていたものでしたので。 それ以降は・・・民の方が心配でしたので、辺境にばかり赴いておりました。 辺境の領主の息子がよくしてくれております」
東の領土に飛ぶと泊りがけで辺境の民を見て回っていた。 そのシキに付いて回り、食事からシキの寝泊まりする場所の用意などを、辺境で二手に分かれて暮らす領主の二人の息子がしていたということである。
「そうか。 東の領主は古(いにしえ)の力を多少なりとも持っておるからな。 シキとて簡単に視ることなどできないのであろうな」
古の力を持つ者、それは女人に限られて少なく生まれてくる。 だが突然と言っていいのだろうか、現東の領主は古の力を持って生まれてきた。
だが古の力を持つ者から、力不足として落とされたと聞く。 それでも多少なりとも力はあるはず。
「他には」
「御座いません」
「姉上―――」
マツリが言いかけた時、四方がそれを止めた。
「明日、話そう」
そう言ってマツリを見た後にシキを見た。
「シキ、疲れたであろう。 湯浴みをしてゆるりとするが良い」
報告はこれまでだと、それ以上のことは何も要らないと言われている。
「はい、明日」
マツリから何かあるのだろうかと、シキがマツリを見るとマツリが頬を緩めた。
「姉上はお疲れで御座います。 今日一晩ゆるりとされて下さい」
ずっと東の領土に泊まり込んで東の地でどれだけ民に話しかけ励ましたのだろう。 声もまだ嗄れている。 思いを表には見せないが、東の民を想って悲しんでいるのは分かっている。
「昌耶に薬湯の用意が出来たか訊いて来ます」
マツリがその場を立とうとするとシキがそれを目で断った。 四方がもう自分はこの場に必要ないと言っているのだ。
「マツリ、手を添えてもらえる?」
「姉上?」
「薬湯の用意は出来ているでしょう。 昌耶ですもの。 房に戻って休むわ」
四方が両手を合わせたそれを、顔の中央に運び、鼻を挟むように手を置いた。
「シキ」
「はい」
シキの返事を聞いてその顔を上げる。
「お前は・・・これからはお前のことを考えろ」
「父上?」
不穏な空気を感じてマツリが四方を呼んだが、四方はシキを見ている。
「明日、頼みごとがある」
「承りました」
表情を変えずただ笑みを持っていう。
『明日の頼み事』 は分かる。 先ほど己が言いかけたことだ。 だが 『お前は、お前のことを考えろ』 それはどういうことだ。
疑問を持った後、一瞬にしてマツリが顔を蒼白にさせた。
(姉上が・・・姉上が、お役御免ということか!?)
「マツリ?」
シキが顔面蒼白になっているマツリを呼ぶ。
「は、はい」
「手を添えてもらえないかしら?」
気丈に振舞っているとしか見えないシキの手を震える手で迎える。
「姉上・・・」
「お房まで送ってもらえるかしら?」
振舞ってなどいない。 シキはいつもと同じだ。
シキが眠れない夜を越した。 翌日の朝餉の席に向かわねばならない。 久しぶりに家族全員が揃う席であるはず。
昨日は朝餉をマツリと、昼餉を母とリツソと食べたが、夕餉時には母である澪引が体調を崩したと部屋から出ることが無かった。 そして母親想いのリツソが母親についていた。
身体を起こす。
シキが目覚めたことを悟った昌耶(しょうや)が、襖を開け部屋の中に入る。 部屋の中は回廊から襖を開けても中が見えないように背の高い衝立が立ててある。 衝立を避けるように部屋に入ると、その奥の部屋に寝室がある。 寝室のある襖の前に座る。
「シキ様、お目覚めですか?」
「・・・ええ」
「では衣裳のお替えをお手伝いいたします」
「ええ、お願いね」
僅かに襖が開いた。 そこから滑るように昌耶が入って来る。 回廊には残された従者が並んでいる。
着替えを手伝いながら昌耶が言う。
「シキ様、少しは時を頂けませんと」
「あら? なんの時かしら?」
着替えを全て済ませ昌耶が回廊に繋がる襖を開けた。
「あら・・・」
まだ陽が昇って間なしだというのに、開けられた襖の向こうに波葉(なみは)が立っていた。 シキを見てニコリと微笑むと深くお辞儀をした