辰刻の雫 ~蒼い月~ 第202回
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第202回
回廊下を覗こうとした紫揺だったが、紫揺の手首を引っ張ってリツソが止める。 あの可愛らしいリツソの力とは思えないほどの力である。
「紫揺をお放し下さい」
「杠」
こんな所を他の誰かに見られるわけにはいかない。 大きな声は出せない。
「杠か、お前に何を言われることなどない」
「己はマツリ様付きで御座います。 マツリ様の御内儀様となられる紫揺をお守りするのも己の任で御座います」
「たしか・・・シユラが兄と慕っていると聞いたが?」
「己も紫揺のことを妹と思っております」
「では我の義兄となるということか」
「そのような事は御座いません。 紫揺はマツリ様の御内儀様に御座います」
「勝手なことを言うでないわ!」
声が掠れていると言えど立場の違うリツソの大喝にびくともしない杠。
「リツソ様、如何で御座いますか? ここで己を倒されれば己は諦めましょう。 見なかったことといたしましょう。 紫揺をお連れになるのでしたら、今だけではなくこれからも紫揺を守らなければならないのは必需で御座います」
杠の言う通りだ。 このまま紫揺を連れて逃げれば武官が探しに来る。 武官だけではなくマツリ自身も来るかもしれない。 尾能が言っていたようにマツリや武官たち以外にも盗賊からも紫揺を守らなければいけない。
杠はマツリ付の官吏であり武官ではない。 四方の仕事も手伝っていたと聞いている。 どちらかと言えば文官に近いだろう。
紫揺と二人で暮らせるように勉学に励んだ。 鍛練は受けていないが、それでも勉学をしていない時には自分なりに身体を動かしていた。 マツリには到底及ばないが勉学ばかりしていた官吏風情には負けはしない。
「その言葉忘れるな」
紫揺の手を離すと小階段を降り杠に対峙する。
「己の方が歳が上で御座います。 左手一本でお相手させて頂きましょう」
「ば! 馬鹿にしおって!!」
闇雲にリツソがかかっていったがあまりにも呆気なく終わった。
宣言したように左手一本を軽く腹に入れ、前屈みになったところに背中に左肘を入れた。 倒れてくるリツソをこれまた左腕だけで支える。
「杠・・・」
杠が戦ったところなど初めて見た。 杠が強いのかリツソが弱いのか分かりもしないが、それでも無駄な動きが無かった事は分かる。 でも腹に入れてそれで終わっていればよかったのではないか? どうして背中まで打つのか。
「大丈夫だ、少しリツソ様が落ち着かれるまで待っている。 明日に備えて寝ておいで。 尾能殿、申し訳ありませんが紫揺・・・紫さまをお房にお願い致します」
「は、はい」
呻いているリツソを肩に担ぎ上げ、懐に入れていた光石を手に取ると回廊から離れている東屋に向かった。
光石を卓の上に置き、まだ呻いているリツソを椅子に座らせる。
「申し訳御座いませんでした。 どこか具合の悪いところが御座いませんか?」
肘を打ちつけた背中をさすってやる。
「う・・・うるさいわ! うう・・・」
呻きの声の中から力なげに言い返す。
さすっていた手を止め、もう一つの椅子に座りリツソが落ち着くのを待っていると、そのうちリツソが杠を睨みだしてきた。
「お力がお戻りになったようで」
「お前は・・・官吏であろう」
「はい」
「それなのに、どうして」
「官吏で御座いますので己が主であるマツリ様をお守りするのも、己が妹であり御内儀様をお守りするのも己の任で御座います。 その為の鍛練は欠かしてはおりません」
鍛練をしていたのか・・・。 早くそれを言え。
プイッとリツソが横を向いた。
尾能が言っていたのがこの事なのだろうか。
『女人が選ばれたお相手は、私よりずっと女人をお守りできる方。 私などお相手の方ほども女人をお守りできません』
『武術に長け、知恵もお持ち。 賊に入られれば私などすぐにやられてしまいます。 ですがお相手の方は、最後まで女人をお守りできるお力をお持ち』
『女人をお守りできないのであれば、心を苦しめるだけではなく身体も苦しめてしまうことになりかねません』
もし賊に入られてしまっていては、こうしてリツソが呻いている間に紫揺が何をされるか分からない。
それに賊は今の杠のように丸腰ではないのだから。
「我は・・・我ではシユラを守ってやれないということか」
「鍛練をお積になれば宜しいかと」
「・・・」
悲しい顔で紫揺が笑った。
『シキ様にはかなわないけど、それでもリツソ君のお姉さんになってもいい? 頑張るから』
頑張るから・・・。
さっきも紫揺の顔が曇った。
これも尾能が言っていたことなのだろうか。
『私が何かを言えばその女人が苦しむだけ。 想っている女人を苦しめたくは御座いません』
『想っていればこそ、その者の幸せを願いたいもの。 そう思われませんか?』
・・・分かっている。 尾能に言われて分かっていた。 でも・・・。
「我は・・・シユラを苦しめておるのか」
「それはリツソ様がお考え下さい。 ですが己は紫揺の幸せを願っております。 そのような者が一人でも多くなればと思っております。 それが紫揺の幸せに繋がりましょう」
目に涙が溢れてくる。
ぽたぽたと卓の上に幾粒もの涙が沁みを作る。
杠が回廊に立ち、離れた所からリツソが部屋に戻るのを見送った。
後方では回廊の隅から人影が出てきた。 背で気配を感じていた。 誰かは分かっている。
「手間をかけたな」
尾能が止めきれなかった時には出て行くつもりだったが、まさか六都から戻ってきた杠が偶然にも遭遇するとは。
ゆっくりと杠が振り返る。
「お休みになられておられなかったのですか」
杠を宮に戻すためにぎりぎりまで六都で働き、明日からは大変だというのに。
「杠が戻って来なかったのでな」
正式ではないにしろ、婚姻の儀への出席は勿論のこと、事前に紫揺と会わせてやりたくて今日中に戻って来いと言っていたのに、こんなに遅くまで六都に留まっているとは。
「何かあったのか?」 六都で。
「いいえ、気の済むまで居たというだけです」
「それなら良いが。 リツソはどんな具合だ?」
「お分かりになられたのではないでしょうか」
もうあんなことはしないだろう。 それに明日からは婚姻の儀が始まる、諦める以外にないであろう。
「紫揺はどうでした?」
尾能が紫揺を部屋に戻す時にマツリも見ていたはず。
「ああ・・・まあ、あんなものだろう」
「あんなものって・・・」
この刻限である、さすがの杠も紫揺の部屋を訪ねることなど出来ない。
「心配はいらんだろう。 どうだ? 呑まんか?」
この言い方であれば、深刻に紫揺の心配は要らないようだが。
「明日からのことをお考えになって下さい」
「夕刻に少し寝た。 杠が疲れているというのなら別だが?」
一つ息を吐くと両の眉を上げて答える。
「明日、酒臭くならない程度にですよ」
昼少し前から婚姻の儀が始まった。
本領で辺境に居た五色や遠方から来た者たちは宮都の宿に泊まっていて、昼前には宮に入っている。
西南北の領土の者たちは朝一番に領土を出て宮に入った。
岩山の下に造られていた建物には驚いた顔を見せていたが、見張番からここから正式な輿入れが始まったと聞かされ、誰もが頷いていた。
シキの時とは違って都司や郡司までもが来ている。 その五百人を超す招待客が舞台を見ている。
今日の為に作られた宮内の舞台にはマツリと紫揺は勿論のこと、マツリから少し離れて四方と澪引。 紫揺から少し離れた所に居るのは四方と此之葉。 通常なら両親が付くが親代理の領主である四方と、紫揺が五色だということは招待状に書かれていて誰もが知っている。 ”古の力を持つ者” が同席するのは不自然なことではない。
そしてマツリの斜め後ろには止まり木にとまったキョウゲンが居る。
マツリと紫揺の間はかなり空いている。 領主と此之葉の方がよほど近い。 それはシキの時に見ていて知っていたが、いざ舞台に上がると一人でいる気分だ。
初日の最初の衣装は輿入れの時と同じく赤と桃色が基調となっていた。 額の煌輪は外され、小さな飾り石が髪にちりばめられている。 今日もおしろいと紅がさされた。
よく声の通る文官によってマツリと紫揺の紹介がされ、続いて四方からの挨拶があった。
(おっさん、こんな時にもエラソー)
本領領主なのだから「遥か遠路を」とか言ったり、へこへことはしない事は分かっているが。 それでももうちょっと言いようがあるだろうに。 そう考えるのは紫揺だけなのだろうか。
今日は朝一番に紫揺だけで四方と澪引に挨拶に行った。 その時にも結構エラソーだったことを思い出す。
宮での決まごとの挨拶口上があるらしく、今日は一人で朝餉を終わらせると真丈と名乗る女官がやって来て紙に書かれた口上を見せられ、この真丈が今回の婚姻の儀の裏を取り仕切る一人だと聞いた。
夜衣から朝餉を食べていた衣装、そして挨拶に向かう衣装、戻ってからはもう一度朝餉を食べていた衣装に着替え、婚姻の儀が始まる前には今着ている衣裳に着替えた。 あと二度着替えるらしい。 試着を除いて一日に六度も着替えるのは初めてである。
一人で色々と考えている間に進行はどんどん進んでいき、いつの間にか舞台の最前に椅子が用意されていた。
これもシキの時に経験済みである。
何故舞台の最前に座るかは、一人一人から言祝ぎを受ける為である。 そして招待客が婚姻の儀を行っている者たちより頭が高くならないために、少し高めの椅子が用意される。
さほども高い舞台ではない。 学校の体育館の舞台ほどだろうか。 背の高い者は背を丸めていたのを思い出す。
紫揺はこの身長である。 当然に座高も低くなる。 背を丸める者の人数が多くなるだろう。
澪引は四方に手を取られ、紫揺は女官に手を取られ、此之葉が領主に手を取ってもらい最前に置かれた椅子に座る。 紫揺の椅子の下には足置き台が置かれていた。 見た目が不細工だが、足をブラブラさせるよりよほどましであると判断したのだろう。
マツリと紫揺だけではなく、四方夫妻と東の領主と此之葉にも言祝ぎが行われる。
マツリと紫揺の椅子が先程より随分と近くに置かれたが、それでも隣り合って座っているという感覚ではない。
招待客たちの卓にどんどん料理が置かれていく。 その一方で四方夫婦、マツリ、紫揺、東の領主と此之葉という順に言祝ぎが行われていった。 紫揺を知らない者たちは紫揺の前に来ると誰もが首を傾げていた。
言いたいことは分かっている。 澪引やシキと大きな違いだと。 ましてやお義婆様であるご隠居の奥を知っていれば尚更だろう。
(これが三日続くのか・・・)
気が遠くなりそうである。
見たことも会ったこともない者たちから、どこどこの何兵衛ですと自己紹介をされたのち、順々に言祝がれ、それに笑顔で応える。
真丈からは話さなくてもいいと言われた。 「ありがとう」の一言で良いと。 それだけは助かった。
二度場を外し着替えに入る。 その時に紫揺にも舞台に上がっているマツリたちにも、軽い食が用意されていた。 そしてその間の言祝ぎはストップされているらしい。
二度目に着替えた衣裳には桃色がなくなっていて、薄い緑系の色が入ってきていた。
空が茜色に染まる頃には、今日の言祝ぎはこれまでとされ、明日明後日に持ち越され、紫揺の今日のお仕事はこれまでとなる。
そして招待客には夕刻になれば『夕の宴』として夕餉が用意され、あちこちで楽が流れ、手妻や軽業が行われたりとする。
『夕の宴』を終わらせたのち宿に戻ったり、家に戻ったりとしてまた明日明後日と来るということになる。 東の領土の領主と此之葉は勿論だが、西南北の領主と五色 ”古の力を持つ者” は宮に泊まる。
「つ・・・疲れたぁ・・・」
ポテンと寝台に倒れ込んだ。
「まぁ、紫さま」
「ささ、お疲れでしょうが、まだお着替えの途中で御座いますよ」
「あと少しご辛抱下さいませ」
丹和歌が微笑みながら茶の用意をしている。
「みんな、よくじっと座ってられる・・・」
紫揺は着替えに立つことが出来たが、マツリも四方夫妻も領主も此之葉も座りっぱなしである。
「お尻痛くならないのかなぁ」
グズグズ言いながら立ち上がると手際よく着替えさせられた。
「領主さんたちの所に行っていいですか?」
「領主様と此之葉様はまだ戻っておられません。 たしか・・・」
「ええ、お知り合いの方と会われたとかで、そのまま夕の宴に残られていらっしゃるかと」
「お知り合い? 誰だろ」
ポテンと寝台に座る。 本領で知り合いなどいるはずが・・・。
「あ! 南の領主さんたちかな」
「申し訳御座いません、お伺いしておりません」
「北の領主は来たんですか?」
互いに見合うが首を振る。
「どなたがいらしておられるのかは存じ上げなく」
シキの時のようにセノギが来たのならニョゼも来ているかもしれないと思ったが。
「あ、いいです。 大丈夫です」
言祝ぎの時に分かるだろう。
「このままちょっと寝ちゃいそうですけど・・・」
「お疲れで御座いますものね」
「茶を飲んでお眠り下さいませ」
丹和歌が紫揺に茶を握らせる。 紫揺の好きな茶の香りがする。 コクリと飲むつもりがコクコクと一気に飲んでしまった。 喉が渇いていたようだ。
「お替わりをお淹れいたしましょうか?」
「大丈夫です」
「では夕餉までお休みくださいませ」
結局昨日はリツソのことがあってまともに寝られなかった。 甘い茶を飲んだからだろうか、眠気が一気に襲ってきた。
「はい、起こして下さ・・・」
“い” まで言えなかった。
夕餉の用意が整い彩楓が紫揺を起こす。 泥のように寝ていた紫揺がゆっくりと目を開ける。 紫揺を起こす時にはパンチが飛んでくるかもしれないというアマフウの危惧など彩楓は知りもしない。
「夕餉の用意が整いまして御座います」
「・・・あ、はい」
ぼぉ-ッとした頭で起き上がると寝台を下りる。
四人に囲まれ夕餉と湯浴みを済ませると杠が訪ねてきた。 杠が特別であることを四人は知っている。 他の者であれば通すことなどないが、快く部屋に入れた。
「杠!」
「紫揺」
杠が両手を広げると紫揺がその腕の中に入って杠に抱きつく。 それを諫めることは無いが、たとえ杠と言えど座を外すわけにはいかない。 四人が襖内に座った。
「昨日は有難う」
昨日? 何のことだと四人が首を傾げる。
「あれからどうなったの?」
「紫揺が心配することは何もない。 落ち着かれた。 それとこれはマツリ様には内緒だがマツリ様も居られた」
「え? マツリが?」
「ああ、身を隠しておられたが、尾能殿ではどうにもいかないとなったら姿を現されていたそうだ」
マツリに尾能? いったい何のことであろうか。
「あ・・・あの日はマツリに会っちゃいけないって言われてたから、だから、か。 ・・・泣いてなかった?」
「もう落ち着かれたんだ、紫揺が案じることは無い」
眉を八の字にしている紫揺を見て杠が相好を崩して続ける。
「ようやくだな。 おめでとう」
情けない顔で紫揺が微笑む。
「うん、有難う」
杠に椅子に座るように勧めるが杠が首を振る。
「一言いいたかっただけだ。 今日は慣れないことで疲れただろう。 まだ続く。 ゆっくり休むといい」
「まだ宮に居るの?」
「ああ、婚姻の儀の間、宮に居られるようにマツリ様が奔走して下さった。 それであれだけ宮に戻られるのが遅くなられた。 己のせいだな、紫揺には寂しい思いをさせてしまった」
紫揺が首を振る。
「杠が居てくれて嬉しい」
もう一度杠にしがみ付くと顔を埋めて声を殺して泣きだした。
それがリツソへの涙と分かる。 そんな気持ちがありながら今日の婚姻の儀を過ごしていたのか。
四人の眉がピクピクと動く。 どういうことだ、いったい何があったのか。
「紫揺が気に病むことは無い。 めでたい席だぞ? そんな風に泣いてどうする」
何度も何度も頭を撫でてやる。
「う、え・・・ひっく・・・」
婚姻の儀の途中である、あまり紫揺の部屋に長居をしたくはなかったが致し方無い。
「紫揺? 椅子に座ろうか、な?」
紫揺を椅子に座らせるがまだ杠にしがみ付いている。 すぐ隣に椅子をつけて杠も座った。
まずは紫揺の気の済むまで泣かせてやろう。 その間、背中をさすってやろう。
グスングスンと言いながら、ようやく納まってきたようだ。
「少しは落ち着いたか? うん?」
背中をさすっていた手を止めて覗き込む。
「・・・うん」
「明日目が腫れたら大変だぞ?」
背中をさすっていた手を頭に持っていくと頭を撫でてやる。
「うん・・・」
「マツリ様にお任せするといい」
「・・・うん」
「明日もある。 目を冷やしてもらってからもう今日は寝た方がいい」
「うん」
「いい子だ」
最後にもう一度頭を撫で立ち上がると、襖内に座る四人に目を向け、紫揺の目を冷やしてもらうようにと言い部屋を出て行った。
マツリに今日も呑むのに付き合えと言われている。 マツリの部屋に足を向ける。
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第202回
回廊下を覗こうとした紫揺だったが、紫揺の手首を引っ張ってリツソが止める。 あの可愛らしいリツソの力とは思えないほどの力である。
「紫揺をお放し下さい」
「杠」
こんな所を他の誰かに見られるわけにはいかない。 大きな声は出せない。
「杠か、お前に何を言われることなどない」
「己はマツリ様付きで御座います。 マツリ様の御内儀様となられる紫揺をお守りするのも己の任で御座います」
「たしか・・・シユラが兄と慕っていると聞いたが?」
「己も紫揺のことを妹と思っております」
「では我の義兄となるということか」
「そのような事は御座いません。 紫揺はマツリ様の御内儀様に御座います」
「勝手なことを言うでないわ!」
声が掠れていると言えど立場の違うリツソの大喝にびくともしない杠。
「リツソ様、如何で御座いますか? ここで己を倒されれば己は諦めましょう。 見なかったことといたしましょう。 紫揺をお連れになるのでしたら、今だけではなくこれからも紫揺を守らなければならないのは必需で御座います」
杠の言う通りだ。 このまま紫揺を連れて逃げれば武官が探しに来る。 武官だけではなくマツリ自身も来るかもしれない。 尾能が言っていたようにマツリや武官たち以外にも盗賊からも紫揺を守らなければいけない。
杠はマツリ付の官吏であり武官ではない。 四方の仕事も手伝っていたと聞いている。 どちらかと言えば文官に近いだろう。
紫揺と二人で暮らせるように勉学に励んだ。 鍛練は受けていないが、それでも勉学をしていない時には自分なりに身体を動かしていた。 マツリには到底及ばないが勉学ばかりしていた官吏風情には負けはしない。
「その言葉忘れるな」
紫揺の手を離すと小階段を降り杠に対峙する。
「己の方が歳が上で御座います。 左手一本でお相手させて頂きましょう」
「ば! 馬鹿にしおって!!」
闇雲にリツソがかかっていったがあまりにも呆気なく終わった。
宣言したように左手一本を軽く腹に入れ、前屈みになったところに背中に左肘を入れた。 倒れてくるリツソをこれまた左腕だけで支える。
「杠・・・」
杠が戦ったところなど初めて見た。 杠が強いのかリツソが弱いのか分かりもしないが、それでも無駄な動きが無かった事は分かる。 でも腹に入れてそれで終わっていればよかったのではないか? どうして背中まで打つのか。
「大丈夫だ、少しリツソ様が落ち着かれるまで待っている。 明日に備えて寝ておいで。 尾能殿、申し訳ありませんが紫揺・・・紫さまをお房にお願い致します」
「は、はい」
呻いているリツソを肩に担ぎ上げ、懐に入れていた光石を手に取ると回廊から離れている東屋に向かった。
光石を卓の上に置き、まだ呻いているリツソを椅子に座らせる。
「申し訳御座いませんでした。 どこか具合の悪いところが御座いませんか?」
肘を打ちつけた背中をさすってやる。
「う・・・うるさいわ! うう・・・」
呻きの声の中から力なげに言い返す。
さすっていた手を止め、もう一つの椅子に座りリツソが落ち着くのを待っていると、そのうちリツソが杠を睨みだしてきた。
「お力がお戻りになったようで」
「お前は・・・官吏であろう」
「はい」
「それなのに、どうして」
「官吏で御座いますので己が主であるマツリ様をお守りするのも、己が妹であり御内儀様をお守りするのも己の任で御座います。 その為の鍛練は欠かしてはおりません」
鍛練をしていたのか・・・。 早くそれを言え。
プイッとリツソが横を向いた。
尾能が言っていたのがこの事なのだろうか。
『女人が選ばれたお相手は、私よりずっと女人をお守りできる方。 私などお相手の方ほども女人をお守りできません』
『武術に長け、知恵もお持ち。 賊に入られれば私などすぐにやられてしまいます。 ですがお相手の方は、最後まで女人をお守りできるお力をお持ち』
『女人をお守りできないのであれば、心を苦しめるだけではなく身体も苦しめてしまうことになりかねません』
もし賊に入られてしまっていては、こうしてリツソが呻いている間に紫揺が何をされるか分からない。
それに賊は今の杠のように丸腰ではないのだから。
「我は・・・我ではシユラを守ってやれないということか」
「鍛練をお積になれば宜しいかと」
「・・・」
悲しい顔で紫揺が笑った。
『シキ様にはかなわないけど、それでもリツソ君のお姉さんになってもいい? 頑張るから』
頑張るから・・・。
さっきも紫揺の顔が曇った。
これも尾能が言っていたことなのだろうか。
『私が何かを言えばその女人が苦しむだけ。 想っている女人を苦しめたくは御座いません』
『想っていればこそ、その者の幸せを願いたいもの。 そう思われませんか?』
・・・分かっている。 尾能に言われて分かっていた。 でも・・・。
「我は・・・シユラを苦しめておるのか」
「それはリツソ様がお考え下さい。 ですが己は紫揺の幸せを願っております。 そのような者が一人でも多くなればと思っております。 それが紫揺の幸せに繋がりましょう」
目に涙が溢れてくる。
ぽたぽたと卓の上に幾粒もの涙が沁みを作る。
杠が回廊に立ち、離れた所からリツソが部屋に戻るのを見送った。
後方では回廊の隅から人影が出てきた。 背で気配を感じていた。 誰かは分かっている。
「手間をかけたな」
尾能が止めきれなかった時には出て行くつもりだったが、まさか六都から戻ってきた杠が偶然にも遭遇するとは。
ゆっくりと杠が振り返る。
「お休みになられておられなかったのですか」
杠を宮に戻すためにぎりぎりまで六都で働き、明日からは大変だというのに。
「杠が戻って来なかったのでな」
正式ではないにしろ、婚姻の儀への出席は勿論のこと、事前に紫揺と会わせてやりたくて今日中に戻って来いと言っていたのに、こんなに遅くまで六都に留まっているとは。
「何かあったのか?」 六都で。
「いいえ、気の済むまで居たというだけです」
「それなら良いが。 リツソはどんな具合だ?」
「お分かりになられたのではないでしょうか」
もうあんなことはしないだろう。 それに明日からは婚姻の儀が始まる、諦める以外にないであろう。
「紫揺はどうでした?」
尾能が紫揺を部屋に戻す時にマツリも見ていたはず。
「ああ・・・まあ、あんなものだろう」
「あんなものって・・・」
この刻限である、さすがの杠も紫揺の部屋を訪ねることなど出来ない。
「心配はいらんだろう。 どうだ? 呑まんか?」
この言い方であれば、深刻に紫揺の心配は要らないようだが。
「明日からのことをお考えになって下さい」
「夕刻に少し寝た。 杠が疲れているというのなら別だが?」
一つ息を吐くと両の眉を上げて答える。
「明日、酒臭くならない程度にですよ」
昼少し前から婚姻の儀が始まった。
本領で辺境に居た五色や遠方から来た者たちは宮都の宿に泊まっていて、昼前には宮に入っている。
西南北の領土の者たちは朝一番に領土を出て宮に入った。
岩山の下に造られていた建物には驚いた顔を見せていたが、見張番からここから正式な輿入れが始まったと聞かされ、誰もが頷いていた。
シキの時とは違って都司や郡司までもが来ている。 その五百人を超す招待客が舞台を見ている。
今日の為に作られた宮内の舞台にはマツリと紫揺は勿論のこと、マツリから少し離れて四方と澪引。 紫揺から少し離れた所に居るのは四方と此之葉。 通常なら両親が付くが親代理の領主である四方と、紫揺が五色だということは招待状に書かれていて誰もが知っている。 ”古の力を持つ者” が同席するのは不自然なことではない。
そしてマツリの斜め後ろには止まり木にとまったキョウゲンが居る。
マツリと紫揺の間はかなり空いている。 領主と此之葉の方がよほど近い。 それはシキの時に見ていて知っていたが、いざ舞台に上がると一人でいる気分だ。
初日の最初の衣装は輿入れの時と同じく赤と桃色が基調となっていた。 額の煌輪は外され、小さな飾り石が髪にちりばめられている。 今日もおしろいと紅がさされた。
よく声の通る文官によってマツリと紫揺の紹介がされ、続いて四方からの挨拶があった。
(おっさん、こんな時にもエラソー)
本領領主なのだから「遥か遠路を」とか言ったり、へこへことはしない事は分かっているが。 それでももうちょっと言いようがあるだろうに。 そう考えるのは紫揺だけなのだろうか。
今日は朝一番に紫揺だけで四方と澪引に挨拶に行った。 その時にも結構エラソーだったことを思い出す。
宮での決まごとの挨拶口上があるらしく、今日は一人で朝餉を終わらせると真丈と名乗る女官がやって来て紙に書かれた口上を見せられ、この真丈が今回の婚姻の儀の裏を取り仕切る一人だと聞いた。
夜衣から朝餉を食べていた衣装、そして挨拶に向かう衣装、戻ってからはもう一度朝餉を食べていた衣装に着替え、婚姻の儀が始まる前には今着ている衣裳に着替えた。 あと二度着替えるらしい。 試着を除いて一日に六度も着替えるのは初めてである。
一人で色々と考えている間に進行はどんどん進んでいき、いつの間にか舞台の最前に椅子が用意されていた。
これもシキの時に経験済みである。
何故舞台の最前に座るかは、一人一人から言祝ぎを受ける為である。 そして招待客が婚姻の儀を行っている者たちより頭が高くならないために、少し高めの椅子が用意される。
さほども高い舞台ではない。 学校の体育館の舞台ほどだろうか。 背の高い者は背を丸めていたのを思い出す。
紫揺はこの身長である。 当然に座高も低くなる。 背を丸める者の人数が多くなるだろう。
澪引は四方に手を取られ、紫揺は女官に手を取られ、此之葉が領主に手を取ってもらい最前に置かれた椅子に座る。 紫揺の椅子の下には足置き台が置かれていた。 見た目が不細工だが、足をブラブラさせるよりよほどましであると判断したのだろう。
マツリと紫揺だけではなく、四方夫妻と東の領主と此之葉にも言祝ぎが行われる。
マツリと紫揺の椅子が先程より随分と近くに置かれたが、それでも隣り合って座っているという感覚ではない。
招待客たちの卓にどんどん料理が置かれていく。 その一方で四方夫婦、マツリ、紫揺、東の領主と此之葉という順に言祝ぎが行われていった。 紫揺を知らない者たちは紫揺の前に来ると誰もが首を傾げていた。
言いたいことは分かっている。 澪引やシキと大きな違いだと。 ましてやお義婆様であるご隠居の奥を知っていれば尚更だろう。
(これが三日続くのか・・・)
気が遠くなりそうである。
見たことも会ったこともない者たちから、どこどこの何兵衛ですと自己紹介をされたのち、順々に言祝がれ、それに笑顔で応える。
真丈からは話さなくてもいいと言われた。 「ありがとう」の一言で良いと。 それだけは助かった。
二度場を外し着替えに入る。 その時に紫揺にも舞台に上がっているマツリたちにも、軽い食が用意されていた。 そしてその間の言祝ぎはストップされているらしい。
二度目に着替えた衣裳には桃色がなくなっていて、薄い緑系の色が入ってきていた。
空が茜色に染まる頃には、今日の言祝ぎはこれまでとされ、明日明後日に持ち越され、紫揺の今日のお仕事はこれまでとなる。
そして招待客には夕刻になれば『夕の宴』として夕餉が用意され、あちこちで楽が流れ、手妻や軽業が行われたりとする。
『夕の宴』を終わらせたのち宿に戻ったり、家に戻ったりとしてまた明日明後日と来るということになる。 東の領土の領主と此之葉は勿論だが、西南北の領主と五色 ”古の力を持つ者” は宮に泊まる。
「つ・・・疲れたぁ・・・」
ポテンと寝台に倒れ込んだ。
「まぁ、紫さま」
「ささ、お疲れでしょうが、まだお着替えの途中で御座いますよ」
「あと少しご辛抱下さいませ」
丹和歌が微笑みながら茶の用意をしている。
「みんな、よくじっと座ってられる・・・」
紫揺は着替えに立つことが出来たが、マツリも四方夫妻も領主も此之葉も座りっぱなしである。
「お尻痛くならないのかなぁ」
グズグズ言いながら立ち上がると手際よく着替えさせられた。
「領主さんたちの所に行っていいですか?」
「領主様と此之葉様はまだ戻っておられません。 たしか・・・」
「ええ、お知り合いの方と会われたとかで、そのまま夕の宴に残られていらっしゃるかと」
「お知り合い? 誰だろ」
ポテンと寝台に座る。 本領で知り合いなどいるはずが・・・。
「あ! 南の領主さんたちかな」
「申し訳御座いません、お伺いしておりません」
「北の領主は来たんですか?」
互いに見合うが首を振る。
「どなたがいらしておられるのかは存じ上げなく」
シキの時のようにセノギが来たのならニョゼも来ているかもしれないと思ったが。
「あ、いいです。 大丈夫です」
言祝ぎの時に分かるだろう。
「このままちょっと寝ちゃいそうですけど・・・」
「お疲れで御座いますものね」
「茶を飲んでお眠り下さいませ」
丹和歌が紫揺に茶を握らせる。 紫揺の好きな茶の香りがする。 コクリと飲むつもりがコクコクと一気に飲んでしまった。 喉が渇いていたようだ。
「お替わりをお淹れいたしましょうか?」
「大丈夫です」
「では夕餉までお休みくださいませ」
結局昨日はリツソのことがあってまともに寝られなかった。 甘い茶を飲んだからだろうか、眠気が一気に襲ってきた。
「はい、起こして下さ・・・」
“い” まで言えなかった。
夕餉の用意が整い彩楓が紫揺を起こす。 泥のように寝ていた紫揺がゆっくりと目を開ける。 紫揺を起こす時にはパンチが飛んでくるかもしれないというアマフウの危惧など彩楓は知りもしない。
「夕餉の用意が整いまして御座います」
「・・・あ、はい」
ぼぉ-ッとした頭で起き上がると寝台を下りる。
四人に囲まれ夕餉と湯浴みを済ませると杠が訪ねてきた。 杠が特別であることを四人は知っている。 他の者であれば通すことなどないが、快く部屋に入れた。
「杠!」
「紫揺」
杠が両手を広げると紫揺がその腕の中に入って杠に抱きつく。 それを諫めることは無いが、たとえ杠と言えど座を外すわけにはいかない。 四人が襖内に座った。
「昨日は有難う」
昨日? 何のことだと四人が首を傾げる。
「あれからどうなったの?」
「紫揺が心配することは何もない。 落ち着かれた。 それとこれはマツリ様には内緒だがマツリ様も居られた」
「え? マツリが?」
「ああ、身を隠しておられたが、尾能殿ではどうにもいかないとなったら姿を現されていたそうだ」
マツリに尾能? いったい何のことであろうか。
「あ・・・あの日はマツリに会っちゃいけないって言われてたから、だから、か。 ・・・泣いてなかった?」
「もう落ち着かれたんだ、紫揺が案じることは無い」
眉を八の字にしている紫揺を見て杠が相好を崩して続ける。
「ようやくだな。 おめでとう」
情けない顔で紫揺が微笑む。
「うん、有難う」
杠に椅子に座るように勧めるが杠が首を振る。
「一言いいたかっただけだ。 今日は慣れないことで疲れただろう。 まだ続く。 ゆっくり休むといい」
「まだ宮に居るの?」
「ああ、婚姻の儀の間、宮に居られるようにマツリ様が奔走して下さった。 それであれだけ宮に戻られるのが遅くなられた。 己のせいだな、紫揺には寂しい思いをさせてしまった」
紫揺が首を振る。
「杠が居てくれて嬉しい」
もう一度杠にしがみ付くと顔を埋めて声を殺して泣きだした。
それがリツソへの涙と分かる。 そんな気持ちがありながら今日の婚姻の儀を過ごしていたのか。
四人の眉がピクピクと動く。 どういうことだ、いったい何があったのか。
「紫揺が気に病むことは無い。 めでたい席だぞ? そんな風に泣いてどうする」
何度も何度も頭を撫でてやる。
「う、え・・・ひっく・・・」
婚姻の儀の途中である、あまり紫揺の部屋に長居をしたくはなかったが致し方無い。
「紫揺? 椅子に座ろうか、な?」
紫揺を椅子に座らせるがまだ杠にしがみ付いている。 すぐ隣に椅子をつけて杠も座った。
まずは紫揺の気の済むまで泣かせてやろう。 その間、背中をさすってやろう。
グスングスンと言いながら、ようやく納まってきたようだ。
「少しは落ち着いたか? うん?」
背中をさすっていた手を止めて覗き込む。
「・・・うん」
「明日目が腫れたら大変だぞ?」
背中をさすっていた手を頭に持っていくと頭を撫でてやる。
「うん・・・」
「マツリ様にお任せするといい」
「・・・うん」
「明日もある。 目を冷やしてもらってからもう今日は寝た方がいい」
「うん」
「いい子だ」
最後にもう一度頭を撫で立ち上がると、襖内に座る四人に目を向け、紫揺の目を冷やしてもらうようにと言い部屋を出て行った。
マツリに今日も呑むのに付き合えと言われている。 マツリの部屋に足を向ける。