辰刻の雫 ~蒼い月~ 第204回
『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第204回
明日からマツリが来る。
夜伽(よとぎ)に。
「・・・嫌だぁ・・・」
そのままポテンと卓に伏せた。
あと一辰刻(いちしんこく:二時間)と二刻(にこく:一時間)で月の雫の儀の刻となる。
回廊からそっと襖が開けられた。 ススススと “最高か” と “庭の世話か” が紫揺の部屋に入って行く。
すると目の前の卓に紫揺が伏せたまま眠っているではないか。
「まぁ、どう致しましょう!」
まさか寝ているとは思いもしなかった。
「紫さま! お目覚めになって下さいませ!」
慌てて紫揺を起こし、もう少しすれば真丈が来るからと、しっかり目を開けるようにと指で目をこじ開ける。
「目・・・目が乾く・・・」
真丈が月の雫の儀式の流れを説明した。 それは特に難しいものでは無かった。
要は敷物の上を静々と歩いてマツリのすることを真似ればよいだけということである。 それを真丈は最後に言ったのだが、ちゃんと細かいことを言っていた。
難関は誰も手を添えてくれない階段の上り下りで転ばないかどうかだった。
説明が終わると身体を湯に浸けに行き、用意されていた部屋で月の雫の儀式の衣裳に着替える。
真っ白の衣装で銀糸で縫われていて派手さも何もなかったが、その後ろの裾は今までになく長い。
化粧も髪飾りもしないということであった。
真丈に手を取られ、いつの間に敷かれていたのだろうか、大階段の下には真っ白な長細い敷物が大階段から垂直に真っ直ぐに敷かれ、そこから右に直角に曲がっている。 暗闇の中その先は見えないが、真丈の話からすると延々と敷かれているのだろう。
東の領主が居る。 その横に此之葉と秋我。 少し離れて女官たちが敷物の両端にずらりと並び皆が頭を下げている。
大階段を降りるとそっと真丈が手を離し深く頭を下げた。
ここからこの敷物の上を一人で歩いて行く。
この敷物の先にマツリが居て二人で階段を上がる、真丈からそう聞いている。
白い敷物は宮内に延々と続いている。
東の領主に頭を下げると一歩を出した。 誰に何の文句も言われず東の領主に頭を下げられるのはこれで最後である。 この儀式から戻ってくれば東の領主より高い位置に居ることになるのだから。
この白い敷物もそうだが、いつの間に光石も置かれていたのか。 この闇の中、まるで光石が紫揺を誘導ように次々と足元を照らしていく。
(夕の宴が終わってからこれだけの用意をしてたんだ・・・)
そんなことも知らず卓に突っ伏して寝ていた。
何度か曲がりながら光石と白い敷物に導かれ進むと、紫揺の全く知らないところに出た。
曲がり角を曲がり、真っ直ぐに前を見ると目の先の階段のすぐ前にマツリが立ってこちらを見ているのが見える。 白い衣装が輝くように光石の中に浮いている。
(マツリ・・・)
真丈から声を出してはいけないと言われている。
言われなくとも、さすがにこのシチュエーションでマツリ! と叫ぶことは無いが。
マツリの前までゆっくりと歩く。
『宜しいで御座いますか、マツリ様のお姿を見られたからと、歩みを変えてはなりません』
よく見ると白い敷物が平行にもう一筋あった。 きっとマツリはその敷物を歩いて来たのだろう。 紫揺とは違うルートで歩いて来て階段を正面にした時に二本の白い敷物が隣り合って階段まで敷かれている。
マツリの前まで来るとマツリを見上げた。 そしてゆっくりとマツリの右に立つ。
マツリは無表情だ。
マツリが階段に向き階段を上がる。 一歩遅れて裾を持った紫揺も階段を上がる。
『裾は上げ過ぎず、だからと言って踏まれませぬように』
月の雫の儀式。
宮内の奥に五段の階段がしつらわれた台が作られており、その台には腰の高さの卓が置かれている。 そしてその卓の上には盥(たらい)の大きさの磨かれた黒曜石の水盤が置かれている。 そこに月の雫と言われる水が入っていて月の姿を映している。
『紫さまの側には一段の台が御座います。 その台に上がって下さいませ』
ようはマツリの腰の高さの卓が置かれ、その上に置かれた水盤の水をすくわなければいけないのだ、紫揺の背の高さでは届かない、若しくは零してしまうからと、これも苦肉の策だったのだろう。
黒曜石の両横には柄杓が置かれてあり、その柄杓で黒曜石の中の月の雫と言われる水に映った月の姿をすくう。
柄杓をそのまま口に付けると、すくった水を一口飲む。
それだけのことであった。
『よろしいですか、必ず両手で行いなされませ。 そして―――』
紫揺側にある台の上に上がって月を見上げる。
白く欠けることの無い丸い月が見下ろしている。 月の周りには雲ひとつ見えない。
紫揺が月を見上げているのを感じているのだろう、マツリがじっと紫揺を待っている。
声を出すなと言われていた、だから息を大きく吐くこともしてはならないのだろう。 そっと息を吐くと黒曜石に目を転じた。
(・・・え)
一瞬にして時が止まったように感じた。
『そして月で御座いますが―――』
(月が・・・)
―――蒼い。
黒曜石の中に映る月が蒼い。
『まずまず頭上に浮かぶ月、月の雫には白の月を映して御座いますが、もし蒼い月であれば、それは初代本領領主からの言祝ぎで御座います』
(初代本領領主からの・・・言祝ぎ)
もしこれが日本であったのならば、どこかに仕掛けやタネが隠されていないかと探すだろう。 だがここは日本ではないし、冗談で済まされる場でもない。
ここに、東の領土も然り、本領には日本で暮らしていれば信じられないことが山ほどあった。
蒼い月が初代本領領主からの言祝ぎと言われたとて、疑う余地など持ち合わせていない。
こんな・・・こんな日本で生まれ育った自分を祝って下さっているというのか。
『ですが蒼い月でなくとも気になさることは御座いません。 もう何代もそのようなことは御座いません。 書にも初代に近い頃だけにあったと書かれておりますので』
(蒼い月・・・)
月の雫に映る蒼い月をじっと見ている。
(・・・あ)
初代本領領主からの言祝ぎ。
(もしかして・・・)
東の領土の五色である初代紫は初代本領領主に匹敵するほどの力を持っていた。
初代本領領主は一人で五色を操る五色だったと聞いている。 だが他の領土と違い本領には五色が何人もいる。 それは一人で五色を操る五色も何人もいたということ。 その中で一番力の有った五色が初代本領領主となった。 その子孫が本領に居る。 その本領から東の領土の初代紫はやって来た。
(初代東の領土の五色は・・・紫は)
初代本領領主の筋・・・直系。 先祖を辿れば初代本領領主に行きつく?
初代紫だけではない、その子孫である紫揺も同じである。 だから初代本領領主からの言祝ぎがある?
紫揺が蒼い月に気付いたようだ。 話は聞いているだろう。 マツリが僅かに口角を上げたが、まだ黒曜石の中の蒼い月に見入っている紫揺が気付くことは無かった。
マツリが柄杓を手に取り黒曜石の中の蒼い月をすくうと、その柄杓に口を付け元に戻す。
柄杓の中に水は残っていない。
『マツリ様は柄杓の中の月の雫を全てお飲みされると思いますが、紫さまはご無理をされることは御座いません。 柄杓の中に残っていてもお気になさらないよう。 一口飲む、口を付けるだけでよろしいので』
マツリが動いたことで我に戻った紫揺が柄杓を手にした。 両手で柄杓を持ち黒曜石の中に浮かんでいる蒼い月の姿に柄杓を入れる。
月の姿が揺れる。
手の位置を変え透明な水、月の雫が入った柄杓を口に運ぶ。 全て飲むつもりだったが、口の横から垂れてしまいそうだ。 諦めてほんの僅かだけを飲んだ。
甘くまろやかな水だった。
水が零れないよう、そっと柄杓を戻す。
そして向きを変えるとまるで巻き戻しのテープのように互いに戻って行った。 来た時と違うのは階段正面の敷物を曲がるところが来るまでマツリと歩いたことであった。
大階段前では真丈と女官が同じ姿で待っていた。 違っていたのは東の領主と此之葉と秋我が居なかったことだが、その場所を埋めていたのは四方と澪引であった。
きっと蒼い月のことはマツリが報告するだろう、紫揺から何を言うこともないだろう。
ひと眠りすると、早朝から今日の運びの説明を聞いた。
初代領主への婚姻の誓いという儀式では、途中までは介添えとして真丈が付いてくるが、建物の深奥までは介添え者が入ってはならないらしく、所作を覚えなくてはならなかった。
いくらか繰り返し所作を習うと、夕べとは違った真っ白な衣装に身を包み、真丈の介添えでマツリの後ろから宮内を長く歩いた。
足元も夕べと違って端に六色(ろくしょく)の色が入った白い敷物が敷かれ、今回も後ろに引きずる裾を持つ必要はない。
六色というのは五色(ごしき)に紫色が加わっている。 これは決して紫揺を表しているのではなく、初代本領領主の力がそうだったからである。
敷物から外れた左右には文官長・武官長と四方の従者が頭を垂れて並び、女官が敷物の左右からマツリと紫揺の後をついてくる。
初めて見る建物の戸が自動ドアのように手動で開き、足を入れると一人二人と後ろに付いていた者たちが退いて行き、最後に真丈が手をそっと引いた。
最終的にマツリと二人だけで深奥に入ると、祭壇の前に立ったマツリがそこに置かれていたものをひろげ長々と何やら言っていた、いや、読んでいた。
その中でマツリが「本領の民、東西南北の領主からも言祝ぎを受け・・・」 と言っていたが、北の領主代理と南の領主、そして紫揺の親代わりとなる東の領主と此之葉と秋我、この本領で一番最初に言祝いでくれた見張番以外は皆、首を傾げていたが、そこは無かったものにしたようだ。 それとも決まり文句なのだろうか。
その後に初代領主へ婚姻の誓いの言葉をそれぞれが言った。 少なくとも紫揺は夕べの蒼い月を思い出しながら。
書いてあるものを読むだけで良かったものの、覚えろと言われたらどうしようかと思うくらいの難しい言葉遣いであった。
所作は・・・きっと間違っていなかったと思う。
昼餉を終わらせると、裾が下にすらない薄い色合いの衣装に着替え、多くの武官を引き連れ馬車で代々が眠る陵墓に行き、初代本領領主の陵墓の前でマツリが婚姻の報告をした。 これが代々の領主への報告ともなる。
紫揺はマツリの横で辞儀をするだけでよかった。
これでひと段落である。 あとは明日から馬車で民の前に出るだけである。 疲れる着替えもしなくて済む。
だが・・・。
今日から夜伽がある。
気のせいか、夕餉を終わらせた湯浴みではいつも以上に、四人の手によって徹底的に磨かれたような気がする。
それに、くん、と腕の匂いを嗅げば、今までと違った香りがするような気がする。
いつもなら紫揺を寝かせる刻限になると寝台に寝かせ四人で居なくなるのに、今日は紫揺を寝台に入れると、回廊に面している部屋の襖内に座っている。
マツリが来るのを迎えるらしい。
時計があれば秒針の音がずっと鳴っていただろう。 長針が動き、続いて短針が動く音も聞こえたかもしれない。
「おかしいわね・・・」
「どういうことかしら」
いくら待ってもマツリが来ない。
そのマツリは杠の部屋を訪ねていた。
「は?」
どうしてこの刻限にマツリがここに居る?
「何をしておるのか、言ったであろう、今日も我の房に来るようにと」
確かに聞いた。 昨日酒を吞みながら。 だが・・・。
「え? 本気だったのですか?」
紫揺の元に行かないのか?
「どうして我が杠に嘘をつかねばならんのか」
「いや、ですが・・・」
夜伽をせねばなるまい?
「言ったであろうが」
聞いた。 だが本気だとは思ってもいなかった。
「我の房に来い。 用意をしておる。 呑むぞ」
「あ? え?」
夕べマツリが言った。
『紫の房にはいかん』と。
驚いて訊き返した。
『は? どうしてですか!』
『考えてもみろ。 東の領土で夜伽のことを聞いたとしても、あれだろう? 民の前に行くのに不貞腐れられても困る。 それならまだしも睨み据えられそうだ』
『まあ、有り得なくは無いでしょうか』
笑って聞いていたが、それが本気だったとは思ってもいなかった。 酒の席でのことだけだと思っていた。
「嘘だろぉー・・・」
仕方なく、マツリのあとに続いた。
ドギマギして待っていた紫揺だったが、いつのまにか寝てしまった。
そして朝を迎えるといつも通りに “最高か” と “庭の世話か” を見た。
「私、寝ちゃったみたいですけど、マツリ、来たんですか?」
そう訊く紫揺の心が折れていると思う四人。 その四人は徹夜。
「あ・・・それが・・・何かあられたようで」
「はい?」
「その・・・来られては・・・」
「来なかったんですか?」
はっきりと言ってくれる。 こちらの心が折れそうだ。
「きっと何か・・・ええ、何か御座いましたのでしょう」
「御座い・・・そっか、御座ったんだ!」
「は?」 素っ頓狂なカルテット。
「今日も明日も御座ってくれたらいいな! ずっと御座ってくれたらいいな! うん、御座るだろう! よしっ!」
何故だ、その満面笑みは。 どうしてだ、その目の輝きは。 握られた拳はなんだ。
だがどうやら空元気ではなさそうだ。 紫揺の心は折れていないらしい。 だがだが・・・御座ってくれたら、御座るだろうとは・・・どういう意味だろう。
夕べのことを思うと打って変わった紫揺の表情を見ながら、朝餉と着替えを済ませると少しして馬車に送った。 言祝ぎの時には朝はゆっくり出来ていたが、昨日からとこれからの三日間は朝が早い。
杠が紫揺に言っていた通り紫揺と杠が言葉を交わすことは無かったが、ちゃんと紫揺の目に映るように見送っていた。
前後を人馬共に武装した武官と馬に挟まれた馬車にマツリと紫揺が並んで座る。
馬車が動き出した。
「リツソが―――」
までマツリが言うと紫揺が言葉を被せた。
「リツソ君どう?」
「まだ会ってはおらん。 尾能がついてくれておる」
「そうなんだ・・・」
杠はマツリに任せればいいと言っていた。
「今、我がリツソに顔を見せれば逆撫でしかねぬ。 そこのところを尾能が抑えてくれておる」
「・・・うん」
「もっと早くに、我がリツソと話をしなければならなかった。 悪かった」
「マツリには時が無かったもん。 六都のことで一杯だったでしょ?」
「リツソには寂しい思いをさせ、紫には恐い思いをさせた。 六都のことなど言い訳に過ぎん」
紫揺の手を取る。 リツソによって握り締められた手首。 まだリツソの指の痣が残っている。
“最高か” と“庭の世話か” そして着替えをさせてくれる女官には隠し通した手首。
「痛い思いをさせた」
「そんなことない」
今日のルートは本領の北東にある四都の手前まで行く。 宮都の民が手を振っている。 紫さま! マツリ様! お目出とう御座いますと叫びながら。
二日目は宮都の西にあたる一都手前まで。 そして三日目の最終日は北方向にあたる三都手前まで。
最終日、三都手前まで来た時、知っている顔が見えた。
「マツリ、あっち」
耳打ちをされて紫揺の目の先を追ったマツリ。 そこに柳技と芯直と絨礼の姿があった。 大きく手を振っている。 それに応える紫揺。
「あいつら・・」
憎々し気に言ったが、この三人は今のところ特別な動きをしなくてもいいはず。 その三人が来ているということは、六都に対して安心していいということだろう。 きっと享沙がこの三人を出したのだろう。
「六都、大丈夫みたいね」
思いもしないことを紫揺が言った。
「そのようだな」
何もかも分かってくれている。 こんな紫揺だから安心して思いのままできているのかもしれない。 改めて紫揺の懐の深さを知った。 紫揺のそれはきっと無意識なのだろうが。
東の領土のお付きたちが聞くと『その懐には穴が開いているかもしれません』 と言うかもしれない。
宮に戻った後、四方と澪引に婚姻の儀を無事終わらせたと、マツリと共に報告に上がった。
そして同じことが三日続いた違う事情の “最高か” と “庭の世話か”。
四日目を迎え、この三日間と同じように紫揺を寝台に置くと半ギレになって襖内に座っている。
「どうしてお渡りが無いの!?」
「マツリ様は何を考えていらっしゃるのかしら!」
この三日間、寝ずに過ごしていた。 とうとう目の下にクマを作って。
「我がどうした」
襖の外からマツリの声がする。
驚いて襖を開けるとそこにマツリが立っていた。
「マツリ様・・・」
「入って良いか」
「も、勿論に御座います」
直ぐに彩楓が奥の部屋に居る紫揺に声をかける。
「マツリ様に御座います」
「え? マツリ?」
こんな時間に何の用だろうか。
紫揺の中では完全に夜伽は嬉しい消滅となっている。
「お開けしても宜しいでしょうか」
「あ・・・はい」
彩楓が奥の間の襖を開ける。
マツリを迎えることなく足を前に出して寝台に座っている。 まるで今から前屈でもしよう体勢だ。
「どうしたの?」
マツリにとって想定内の反応。
彩楓が手を着き深く辞儀をすると襖を閉め、四人で紫揺の部屋を出た。
回廊側の襖を閉めると、やっと四人がホッとした顔を見せる。 唯一、世和歌が頬を赤く染めている。
無言で回廊を歩く四人であった。
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第204回
明日からマツリが来る。
夜伽(よとぎ)に。
「・・・嫌だぁ・・・」
そのままポテンと卓に伏せた。
あと一辰刻(いちしんこく:二時間)と二刻(にこく:一時間)で月の雫の儀の刻となる。
回廊からそっと襖が開けられた。 ススススと “最高か” と “庭の世話か” が紫揺の部屋に入って行く。
すると目の前の卓に紫揺が伏せたまま眠っているではないか。
「まぁ、どう致しましょう!」
まさか寝ているとは思いもしなかった。
「紫さま! お目覚めになって下さいませ!」
慌てて紫揺を起こし、もう少しすれば真丈が来るからと、しっかり目を開けるようにと指で目をこじ開ける。
「目・・・目が乾く・・・」
真丈が月の雫の儀式の流れを説明した。 それは特に難しいものでは無かった。
要は敷物の上を静々と歩いてマツリのすることを真似ればよいだけということである。 それを真丈は最後に言ったのだが、ちゃんと細かいことを言っていた。
難関は誰も手を添えてくれない階段の上り下りで転ばないかどうかだった。
説明が終わると身体を湯に浸けに行き、用意されていた部屋で月の雫の儀式の衣裳に着替える。
真っ白の衣装で銀糸で縫われていて派手さも何もなかったが、その後ろの裾は今までになく長い。
化粧も髪飾りもしないということであった。
真丈に手を取られ、いつの間に敷かれていたのだろうか、大階段の下には真っ白な長細い敷物が大階段から垂直に真っ直ぐに敷かれ、そこから右に直角に曲がっている。 暗闇の中その先は見えないが、真丈の話からすると延々と敷かれているのだろう。
東の領主が居る。 その横に此之葉と秋我。 少し離れて女官たちが敷物の両端にずらりと並び皆が頭を下げている。
大階段を降りるとそっと真丈が手を離し深く頭を下げた。
ここからこの敷物の上を一人で歩いて行く。
この敷物の先にマツリが居て二人で階段を上がる、真丈からそう聞いている。
白い敷物は宮内に延々と続いている。
東の領主に頭を下げると一歩を出した。 誰に何の文句も言われず東の領主に頭を下げられるのはこれで最後である。 この儀式から戻ってくれば東の領主より高い位置に居ることになるのだから。
この白い敷物もそうだが、いつの間に光石も置かれていたのか。 この闇の中、まるで光石が紫揺を誘導ように次々と足元を照らしていく。
(夕の宴が終わってからこれだけの用意をしてたんだ・・・)
そんなことも知らず卓に突っ伏して寝ていた。
何度か曲がりながら光石と白い敷物に導かれ進むと、紫揺の全く知らないところに出た。
曲がり角を曲がり、真っ直ぐに前を見ると目の先の階段のすぐ前にマツリが立ってこちらを見ているのが見える。 白い衣装が輝くように光石の中に浮いている。
(マツリ・・・)
真丈から声を出してはいけないと言われている。
言われなくとも、さすがにこのシチュエーションでマツリ! と叫ぶことは無いが。
マツリの前までゆっくりと歩く。
『宜しいで御座いますか、マツリ様のお姿を見られたからと、歩みを変えてはなりません』
よく見ると白い敷物が平行にもう一筋あった。 きっとマツリはその敷物を歩いて来たのだろう。 紫揺とは違うルートで歩いて来て階段を正面にした時に二本の白い敷物が隣り合って階段まで敷かれている。
マツリの前まで来るとマツリを見上げた。 そしてゆっくりとマツリの右に立つ。
マツリは無表情だ。
マツリが階段に向き階段を上がる。 一歩遅れて裾を持った紫揺も階段を上がる。
『裾は上げ過ぎず、だからと言って踏まれませぬように』
月の雫の儀式。
宮内の奥に五段の階段がしつらわれた台が作られており、その台には腰の高さの卓が置かれている。 そしてその卓の上には盥(たらい)の大きさの磨かれた黒曜石の水盤が置かれている。 そこに月の雫と言われる水が入っていて月の姿を映している。
『紫さまの側には一段の台が御座います。 その台に上がって下さいませ』
ようはマツリの腰の高さの卓が置かれ、その上に置かれた水盤の水をすくわなければいけないのだ、紫揺の背の高さでは届かない、若しくは零してしまうからと、これも苦肉の策だったのだろう。
黒曜石の両横には柄杓が置かれてあり、その柄杓で黒曜石の中の月の雫と言われる水に映った月の姿をすくう。
柄杓をそのまま口に付けると、すくった水を一口飲む。
それだけのことであった。
『よろしいですか、必ず両手で行いなされませ。 そして―――』
紫揺側にある台の上に上がって月を見上げる。
白く欠けることの無い丸い月が見下ろしている。 月の周りには雲ひとつ見えない。
紫揺が月を見上げているのを感じているのだろう、マツリがじっと紫揺を待っている。
声を出すなと言われていた、だから息を大きく吐くこともしてはならないのだろう。 そっと息を吐くと黒曜石に目を転じた。
(・・・え)
一瞬にして時が止まったように感じた。
『そして月で御座いますが―――』
(月が・・・)
―――蒼い。
黒曜石の中に映る月が蒼い。
『まずまず頭上に浮かぶ月、月の雫には白の月を映して御座いますが、もし蒼い月であれば、それは初代本領領主からの言祝ぎで御座います』
(初代本領領主からの・・・言祝ぎ)
もしこれが日本であったのならば、どこかに仕掛けやタネが隠されていないかと探すだろう。 だがここは日本ではないし、冗談で済まされる場でもない。
ここに、東の領土も然り、本領には日本で暮らしていれば信じられないことが山ほどあった。
蒼い月が初代本領領主からの言祝ぎと言われたとて、疑う余地など持ち合わせていない。
こんな・・・こんな日本で生まれ育った自分を祝って下さっているというのか。
『ですが蒼い月でなくとも気になさることは御座いません。 もう何代もそのようなことは御座いません。 書にも初代に近い頃だけにあったと書かれておりますので』
(蒼い月・・・)
月の雫に映る蒼い月をじっと見ている。
(・・・あ)
初代本領領主からの言祝ぎ。
(もしかして・・・)
東の領土の五色である初代紫は初代本領領主に匹敵するほどの力を持っていた。
初代本領領主は一人で五色を操る五色だったと聞いている。 だが他の領土と違い本領には五色が何人もいる。 それは一人で五色を操る五色も何人もいたということ。 その中で一番力の有った五色が初代本領領主となった。 その子孫が本領に居る。 その本領から東の領土の初代紫はやって来た。
(初代東の領土の五色は・・・紫は)
初代本領領主の筋・・・直系。 先祖を辿れば初代本領領主に行きつく?
初代紫だけではない、その子孫である紫揺も同じである。 だから初代本領領主からの言祝ぎがある?
紫揺が蒼い月に気付いたようだ。 話は聞いているだろう。 マツリが僅かに口角を上げたが、まだ黒曜石の中の蒼い月に見入っている紫揺が気付くことは無かった。
マツリが柄杓を手に取り黒曜石の中の蒼い月をすくうと、その柄杓に口を付け元に戻す。
柄杓の中に水は残っていない。
『マツリ様は柄杓の中の月の雫を全てお飲みされると思いますが、紫さまはご無理をされることは御座いません。 柄杓の中に残っていてもお気になさらないよう。 一口飲む、口を付けるだけでよろしいので』
マツリが動いたことで我に戻った紫揺が柄杓を手にした。 両手で柄杓を持ち黒曜石の中に浮かんでいる蒼い月の姿に柄杓を入れる。
月の姿が揺れる。
手の位置を変え透明な水、月の雫が入った柄杓を口に運ぶ。 全て飲むつもりだったが、口の横から垂れてしまいそうだ。 諦めてほんの僅かだけを飲んだ。
甘くまろやかな水だった。
水が零れないよう、そっと柄杓を戻す。
そして向きを変えるとまるで巻き戻しのテープのように互いに戻って行った。 来た時と違うのは階段正面の敷物を曲がるところが来るまでマツリと歩いたことであった。
大階段前では真丈と女官が同じ姿で待っていた。 違っていたのは東の領主と此之葉と秋我が居なかったことだが、その場所を埋めていたのは四方と澪引であった。
きっと蒼い月のことはマツリが報告するだろう、紫揺から何を言うこともないだろう。
ひと眠りすると、早朝から今日の運びの説明を聞いた。
初代領主への婚姻の誓いという儀式では、途中までは介添えとして真丈が付いてくるが、建物の深奥までは介添え者が入ってはならないらしく、所作を覚えなくてはならなかった。
いくらか繰り返し所作を習うと、夕べとは違った真っ白な衣装に身を包み、真丈の介添えでマツリの後ろから宮内を長く歩いた。
足元も夕べと違って端に六色(ろくしょく)の色が入った白い敷物が敷かれ、今回も後ろに引きずる裾を持つ必要はない。
六色というのは五色(ごしき)に紫色が加わっている。 これは決して紫揺を表しているのではなく、初代本領領主の力がそうだったからである。
敷物から外れた左右には文官長・武官長と四方の従者が頭を垂れて並び、女官が敷物の左右からマツリと紫揺の後をついてくる。
初めて見る建物の戸が自動ドアのように手動で開き、足を入れると一人二人と後ろに付いていた者たちが退いて行き、最後に真丈が手をそっと引いた。
最終的にマツリと二人だけで深奥に入ると、祭壇の前に立ったマツリがそこに置かれていたものをひろげ長々と何やら言っていた、いや、読んでいた。
その中でマツリが「本領の民、東西南北の領主からも言祝ぎを受け・・・」 と言っていたが、北の領主代理と南の領主、そして紫揺の親代わりとなる東の領主と此之葉と秋我、この本領で一番最初に言祝いでくれた見張番以外は皆、首を傾げていたが、そこは無かったものにしたようだ。 それとも決まり文句なのだろうか。
その後に初代領主へ婚姻の誓いの言葉をそれぞれが言った。 少なくとも紫揺は夕べの蒼い月を思い出しながら。
書いてあるものを読むだけで良かったものの、覚えろと言われたらどうしようかと思うくらいの難しい言葉遣いであった。
所作は・・・きっと間違っていなかったと思う。
昼餉を終わらせると、裾が下にすらない薄い色合いの衣装に着替え、多くの武官を引き連れ馬車で代々が眠る陵墓に行き、初代本領領主の陵墓の前でマツリが婚姻の報告をした。 これが代々の領主への報告ともなる。
紫揺はマツリの横で辞儀をするだけでよかった。
これでひと段落である。 あとは明日から馬車で民の前に出るだけである。 疲れる着替えもしなくて済む。
だが・・・。
今日から夜伽がある。
気のせいか、夕餉を終わらせた湯浴みではいつも以上に、四人の手によって徹底的に磨かれたような気がする。
それに、くん、と腕の匂いを嗅げば、今までと違った香りがするような気がする。
いつもなら紫揺を寝かせる刻限になると寝台に寝かせ四人で居なくなるのに、今日は紫揺を寝台に入れると、回廊に面している部屋の襖内に座っている。
マツリが来るのを迎えるらしい。
時計があれば秒針の音がずっと鳴っていただろう。 長針が動き、続いて短針が動く音も聞こえたかもしれない。
「おかしいわね・・・」
「どういうことかしら」
いくら待ってもマツリが来ない。
そのマツリは杠の部屋を訪ねていた。
「は?」
どうしてこの刻限にマツリがここに居る?
「何をしておるのか、言ったであろう、今日も我の房に来るようにと」
確かに聞いた。 昨日酒を吞みながら。 だが・・・。
「え? 本気だったのですか?」
紫揺の元に行かないのか?
「どうして我が杠に嘘をつかねばならんのか」
「いや、ですが・・・」
夜伽をせねばなるまい?
「言ったであろうが」
聞いた。 だが本気だとは思ってもいなかった。
「我の房に来い。 用意をしておる。 呑むぞ」
「あ? え?」
夕べマツリが言った。
『紫の房にはいかん』と。
驚いて訊き返した。
『は? どうしてですか!』
『考えてもみろ。 東の領土で夜伽のことを聞いたとしても、あれだろう? 民の前に行くのに不貞腐れられても困る。 それならまだしも睨み据えられそうだ』
『まあ、有り得なくは無いでしょうか』
笑って聞いていたが、それが本気だったとは思ってもいなかった。 酒の席でのことだけだと思っていた。
「嘘だろぉー・・・」
仕方なく、マツリのあとに続いた。
ドギマギして待っていた紫揺だったが、いつのまにか寝てしまった。
そして朝を迎えるといつも通りに “最高か” と “庭の世話か” を見た。
「私、寝ちゃったみたいですけど、マツリ、来たんですか?」
そう訊く紫揺の心が折れていると思う四人。 その四人は徹夜。
「あ・・・それが・・・何かあられたようで」
「はい?」
「その・・・来られては・・・」
「来なかったんですか?」
はっきりと言ってくれる。 こちらの心が折れそうだ。
「きっと何か・・・ええ、何か御座いましたのでしょう」
「御座い・・・そっか、御座ったんだ!」
「は?」 素っ頓狂なカルテット。
「今日も明日も御座ってくれたらいいな! ずっと御座ってくれたらいいな! うん、御座るだろう! よしっ!」
何故だ、その満面笑みは。 どうしてだ、その目の輝きは。 握られた拳はなんだ。
だがどうやら空元気ではなさそうだ。 紫揺の心は折れていないらしい。 だがだが・・・御座ってくれたら、御座るだろうとは・・・どういう意味だろう。
夕べのことを思うと打って変わった紫揺の表情を見ながら、朝餉と着替えを済ませると少しして馬車に送った。 言祝ぎの時には朝はゆっくり出来ていたが、昨日からとこれからの三日間は朝が早い。
杠が紫揺に言っていた通り紫揺と杠が言葉を交わすことは無かったが、ちゃんと紫揺の目に映るように見送っていた。
前後を人馬共に武装した武官と馬に挟まれた馬車にマツリと紫揺が並んで座る。
馬車が動き出した。
「リツソが―――」
までマツリが言うと紫揺が言葉を被せた。
「リツソ君どう?」
「まだ会ってはおらん。 尾能がついてくれておる」
「そうなんだ・・・」
杠はマツリに任せればいいと言っていた。
「今、我がリツソに顔を見せれば逆撫でしかねぬ。 そこのところを尾能が抑えてくれておる」
「・・・うん」
「もっと早くに、我がリツソと話をしなければならなかった。 悪かった」
「マツリには時が無かったもん。 六都のことで一杯だったでしょ?」
「リツソには寂しい思いをさせ、紫には恐い思いをさせた。 六都のことなど言い訳に過ぎん」
紫揺の手を取る。 リツソによって握り締められた手首。 まだリツソの指の痣が残っている。
“最高か” と“庭の世話か” そして着替えをさせてくれる女官には隠し通した手首。
「痛い思いをさせた」
「そんなことない」
今日のルートは本領の北東にある四都の手前まで行く。 宮都の民が手を振っている。 紫さま! マツリ様! お目出とう御座いますと叫びながら。
二日目は宮都の西にあたる一都手前まで。 そして三日目の最終日は北方向にあたる三都手前まで。
最終日、三都手前まで来た時、知っている顔が見えた。
「マツリ、あっち」
耳打ちをされて紫揺の目の先を追ったマツリ。 そこに柳技と芯直と絨礼の姿があった。 大きく手を振っている。 それに応える紫揺。
「あいつら・・」
憎々し気に言ったが、この三人は今のところ特別な動きをしなくてもいいはず。 その三人が来ているということは、六都に対して安心していいということだろう。 きっと享沙がこの三人を出したのだろう。
「六都、大丈夫みたいね」
思いもしないことを紫揺が言った。
「そのようだな」
何もかも分かってくれている。 こんな紫揺だから安心して思いのままできているのかもしれない。 改めて紫揺の懐の深さを知った。 紫揺のそれはきっと無意識なのだろうが。
東の領土のお付きたちが聞くと『その懐には穴が開いているかもしれません』 と言うかもしれない。
宮に戻った後、四方と澪引に婚姻の儀を無事終わらせたと、マツリと共に報告に上がった。
そして同じことが三日続いた違う事情の “最高か” と “庭の世話か”。
四日目を迎え、この三日間と同じように紫揺を寝台に置くと半ギレになって襖内に座っている。
「どうしてお渡りが無いの!?」
「マツリ様は何を考えていらっしゃるのかしら!」
この三日間、寝ずに過ごしていた。 とうとう目の下にクマを作って。
「我がどうした」
襖の外からマツリの声がする。
驚いて襖を開けるとそこにマツリが立っていた。
「マツリ様・・・」
「入って良いか」
「も、勿論に御座います」
直ぐに彩楓が奥の部屋に居る紫揺に声をかける。
「マツリ様に御座います」
「え? マツリ?」
こんな時間に何の用だろうか。
紫揺の中では完全に夜伽は嬉しい消滅となっている。
「お開けしても宜しいでしょうか」
「あ・・・はい」
彩楓が奥の間の襖を開ける。
マツリを迎えることなく足を前に出して寝台に座っている。 まるで今から前屈でもしよう体勢だ。
「どうしたの?」
マツリにとって想定内の反応。
彩楓が手を着き深く辞儀をすると襖を閉め、四人で紫揺の部屋を出た。
回廊側の襖を閉めると、やっと四人がホッとした顔を見せる。 唯一、世和歌が頬を赤く染めている。
無言で回廊を歩く四人であった。