辰刻の雫 ~蒼い月~ 第28回
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第28回
シキが来たからには紫揺のことを任せておけばいいかと、今日は夕刻から本領の中を飛んでいた。
四方にあの文官のことをまだ話せず気にはなっていたし、俤と接触をしたかったが、リツソが見つかったのにいつまでも地下を歩くのは不審に思われる。 それに六都(むと) のことも気になっていた。 この三つの中で今の己に急ぎ出来ることは六都の事。
だが六都の都司を訪ねたが六年前のことは知らないということであった。 六都はしょっちゅう都司が変わる。 それにやる気がない。
そして民は逆らう目をしている。 六都では夜遅くまで民が酒を吞んでいる。 六都がある程度寝静まるまで見ていたが、結局なんの収穫もなく戻ってきた。
あとは紫揺の事が気にかかる。
夕刻まではシキと楽しんでいた姿を目にしていたが、頭がスッキリしたとでも言って、万が一にもその後に東の領土に帰ったということは無いだろうか。
もう宮で起きている女官や従者は居ないだろう、問う相手が居ない。 どうしたものかと着替え終わると偶然にでも女官か従者に会わないかと回廊を歩いた。
「こんな夜中にうろついている女官も従者もおらんか・・・」
自室から客用の寝泊まりする部屋に来たがここまで来ても誰一人として会わなかった。
己の衣装を見る。
「着替えずあのまま東まで飛べばよかったか」
そうすればキョウゲンの目で万が一にも紫揺が下を走っていれば見つけられたのに。 踵を返そうとした時、一枚の襖が開いた。
「どなたかと思えばマツリ様」
声にしていたマツリの独り言が聞こえたようだ。
「これは、義兄上」
襖の中から顔を出してきたのは波葉だった。
「どうしてこのような所に? 姉上の房で休まれておられなかったのですか?」
ここは客用の泊部屋、どうしてその部屋に波葉が居るのか。 波葉の立場を思ってシキの部屋で休んでいたのではないかとは言いはしたが、宮帰りをしているシキを置いて帰ったと思っていた。
「かなりシキ様がおかんむりのようで御座いまして、義父上にお願いしてこの房を使わせて頂いております」
シキと波葉の新しい邸に一人で帰ったのならば、シキの怒りが増幅するだろうと思っているようだ。
そしてそれは間違いなく、正鵠を射ているだろう。
「あのままで御座いますか・・・」
己も波葉の加勢をしたが、その後に澪引と四方の夫婦喧嘩に巻き込まれそうになったのでさっさと退散した。 だからあの後どうなったのかは知らなかった。
「ええ、紫さまがシキ様のご機嫌を取って下さっていると良いのですが」
「え? 紫で御座いますか?」
「ええ、まだお二人でお話をされていると思います」
以前シキに聞いていた。 初めて紫揺と会った日に紫揺を気に入り、その日からずっと客用の間ではなく自分の部屋に招き入れ夜な夜な話しをしていたと。
マツリにしてみればひょんなところから紫揺の居所が分かった。
「そうですか。 お起こししてしまったようで申し訳ございませんでした」
「いいえ、寝られそうにありませんでしたので」
波葉はどれほどシキのことを想っているのだろうか、とそんなことを考え思わず笑みがこぼれた。 そんなマツリの表情に心が安らいだのだろうか、波葉がマツリを誘った。
「マツリ様、宜しければ一献お付き合いいただけませんか?」
「もちろんで御座います。 二献でも三献でも」
紫揺の居所が分かったのだ、もう何の心配もいらない。
今は己の連れてきた紫揺が原因で夫婦喧嘩となってしまった波葉に付き合い少しでも罪ほろぼしをしよう。
朝餉の席で足をブラブラさせたリツソが目だけを動かしている。
昨日の昼餉も夕餉も家族全員がそろわなかった。 リツソは澪引とシキと三人で食事をした。 それは楽しい食事だった。
そして今、朝餉の席。 今までなら親子五人の朝餉の席だったが、今では波葉も家族となっている。 初めてのシキの宮帰りであるから、波葉を入れた六人での朝餉の席は初めてであった。
それなのに。 昨日の昼餉も夕餉もあんなに楽しかったのに。 この静けさは何だろう。 ことりと食器を置く音。 その音しか聞こえてこない。
それによく見ると波葉がチラチラとシキを見ている。 当のシキはそれに気付いているはずなのに波葉と目を合わせようとしていないし声もかけない。
そして澪引も完全に四方を無視しているように見える。 それに対して四方が怒っている様子は見せず、どこかで溜息をつきたそうに見える。
「兄上」
とうとう我慢しきれずリツソがマツリに小声で話しかけた。
マツリがリツソを一瞬見る。
今までは長四角の卓の正面に四方と澪引が座り、対面にシキ、マツリ、リツソと座っていた。 だが波葉が増えたということで、マツリが一つ左にずれ、リツソが短い方の一辺に座っていたので皆を見渡すことが出来ていた。
「様子がおかしいのですが?」
「そんなことは良い。 お前は鍛練をしておるのか? 母上がそう仰っておられたそうだが」
マツリがリツソの小声に堂々と声を出して応える。
マツリの声にシキと澪引が思わず目を合わせる。
「へ?」
「紫が居なくなってからというもの、勉学をずっとサボっておったがその後はどうなった」
「あ・・・ええっと」
今更、一年以上前の話を持ち出されても、とリツソが思うが、マツリは度々言い、リツソの勉学の師から逃げられてばかりだと聞いていた。
「言ったはずだな、腹の底から考えよと、態度を改めよと。 今までお前のやってきたことをよく考え、お前がこれからせねばならぬことを考えよと」
「はい・・・」
「その中に勉学や鍛練は入っておらんのか」
藪蛇だ。 そんな話になるとは思っていなかった。
「えっと、じゃあ、今日シユラと一緒に勉学を―――」
「あら、リツソ駄目よ」
マツリとリツソの会話を聞いていたシキ。 丸一日紫揺と居られるのは今日と明日しかない。 リツソに邪魔をされたくはない。
「え?」
リツソが声の主であるシキを見た。
「今日、明日と紫はずっとわたくしと居るの」
「だって、昨日もずっと姉上と居たではありませんか。 それに波葉を放っておくのですか?」
「リツソ、お呼びの仕方に気を付けろ」
マツリの隣りで波葉が軽く頭を下げる。 リツソが言った波葉の呼び方にマツリも顎を引くように頭を下げる。
「昨日はリツソが皆に謝って回っていたから、紫と共に居る時が無かったのではなかったかしら? それに波葉様はこれからお仕事よ」
「ええ、四方様もね」
完全に嫌がらせで澪引が言っているのが分かる。 たしかに昨日の昼餉も夕餉も澪引と顔を合わせられなくて仕事にかこつけて席を同じにしなかった四方である。
それにすらも怒っているのだろう。
では、どうしろと言うのだ。 何を言っても返事もしなければ目も合わせないというのに。 四方の言いたいことは山ほどある。 だが
「澪引・・・もう許してはもらえんか?」
「あら、何のことで御座いましょうか。 波葉も四方様もお仕事でお忙しいと申しましただけで御座います」
シキが嫁ぎどこか寂しい思いを感じていた。 母親としてそんなことを思ってはいけないと分かっていたのに、それでも寂しかった。 そんな時にリツソが行方不明になり、戻ってきた時には目覚めない状態だった。 そしてそのリツソを取り上げられた。
忙しくしているマツリが気を使ってくれた、それはよくよく分かっている。 だが心の中は涙で溢れかえっていた。
目覚めないリツソの手を取りたかったのにリツソと引き離された。 一日千秋の思いでリツソが我が腕に戻ってくるのを待った。 そのリツソが目覚め澪引の腕の中に戻ってきた。 その上、昨日などはリツソと嫁いだシキとも共に食事をした。
リツソとシキの存在が澪引の精神を安定させ、肉体をも安定させたのか口が達者である。
だが澪引はリツソと引き離されたことにまだ怒っているし、紫揺のことも聞いていなかった。 そうそう四方を許せるものではない。
そして波葉も四方と同じように、仕事にかこつけて食事の席を同じにしなかったのだ。
四方が申し訳なさそうな目で波葉を見る。 波葉も眉尻を垂れそれに応じた。
シキと澪引が何かしら怒っているようだ。 そして波葉と四方がそれに相対しているようだ。 それもかなり立場が弱く。
マツリに言われたことなど忘れてリツソがワクワクする。
「母上、何か御座いましたか?」
澪引の言いようにマツリが訊いたが「いいえ」とマツリに答えると次にリツソを見た。
「リツソ、先程マツリが言ったように、勉学や鍛練はどうなっているの?」
「え?」
まさか澪引からそんなことを言われるとは思いもしなかった。
「母上? 何か御座いましたか?」
思わずリツソもマツリと同じように訊き返した。
「え? いいえ? 当たり前のことを訊いただけよ?」
シキが笑いを噛み殺して下を向く。 波葉がどうしたのかとシキを見ている。
澪引は紫揺にリツソを鍛練させると言ったがシキがそれに異を唱えた。 そして紫揺にはリツソではなくマツリを推した。 澪引はそれが頭にあるのだろう。 昨晩ずっと考えていたのかもしれない。
リツソのことを可愛がっている澪引。 リツソの想いを叶えてやりたいと思っていても、シキに言われてリツソが一年以内に紫揺が言うところの、頼れる男になるとは思えなかったのだろう。 それにシキが紫揺にリツソが変わるのは不可能と言い、それを分かっていて言ったのね? と訊いた。 紫揺自身が言ったように、リツソのことは弟以外に見られないのかもしれない。
だがそれを置いても今回のことがある。 シキが言ったように勉学も、まだまだ深く物事を考えるということがリツソには出来ていない。 また攫われてはどうするのか。 リツソには少々考えてもらわねばならない。 紫揺とのことだけではなく、その為にも勉学や鍛練は必要だ。
「今回の事ではわたくしは身が裂ける思いでした。 もうあのようなことは嫌なの」
「勉学をしても攫われる時には攫われます」
何故かきっぱりと貴公子ぜんとしてリツソが言うのは、どうなのだろうか。
「鍛練はどう? 鍛練をしていれば、攫われるということは無いはずよ?」
「・・・鍛練は・・・。 疲れるではありませんか。 痛いし」
「お前は・・・。 あの時に言ったことをもう忘れたのか」
マツリが怒鳴る気にもなれずに言う。
「あ! そうだわ」
なにか閃いたようにシキが頭を上げた。
「リツソ、母上と勉学をすればどうかしら? 母上、如何で御座いますか?」
そうすれば澪引にもリツソの状態が少しでも分かるだろう。 リツソは紫揺に頼られる男になる、ならないの状態ではないということが。
シキは波葉と結婚をして少々シビアになったようだ。
「姉上! それは完全にシユラを独り占めしようとしているではありませんか!」
「あら、それとこれとは違うわ」
ニコリと笑った美しいシキにリツソがすぐに言い返せなかった。
いつもより長くかかった朝餉の時が終わった。 シキが自室で紫揺が来るのを待ちながら考え事をしている。
昨日、紫揺はマツリのことを見直すところがあると言っていたし、マツリのことを継続して怒っていないということが分かった。
これは大きな収穫だ。
あとはマツリの慧眼、魔釣の目。 どうしてそんな目を堂々と紫揺に向けたのか。
その後に、リツソはその程度、己を知ることなどと。 そんなことを言って何故リツソに対して怒ったのか。
そしてマツリらしくない言(げん)。 紫揺が謝ったのに、それを受けることなくリツソを責めた。 あの時は紫揺の言葉を聞いても己の言いようを優先した。 マツリは己の言葉、言いようが間違っていると分かっていたはず。 それなのに何故。
(マツリはいつリツソが紫のことを想っていると知ったのかしら)
それに朝餉の席のことを思う。
マツリが澪引の話したことを知っていたとは思いもしなかった。 だから鍛練をしていないのかと、澪引が言っていたというのを聞いた時には驚いた。
澪引がリツソに勉学や鍛練をさせるとは聞いていない筈。 リツソが一年後に頼れる男に変わっていれば、紫揺がリツソのことを考えると言ったことも知っているはずがない。
それなのに・・・知っていた? では、どうしてマツリはあの時そのことを言わなかったのだろう。
「ああ、いくつも分からないことがあるわ。 もう、マツリったら何を考えているのかしら」
マツリにはいつでも訊けると思っている。 だが紫揺には訊くもなにも、同じ時を過ごせることさえ限られている。 だからマツリには後で訊けばいいと思っていたが、マツリへの疑問を解消しない限り先に進めそうにない。
「はい?」
シキの側付きの昌耶が振り返ってシキを見た。
「何か仰いましたでしょうか?」
うっかり声に出してしまったことに己を咎めながらも違うことを言う。
「ええ、マツリとお話がしたいの。 マツリを呼んでもらえるかしら」
「紫さまではなく?」
「ええ、マツリ。 マツリに訊きたいことがあるの」
「お待ちくださいませ」
シキに頭を下げるとシキの部屋を出て行った。
昌耶自身が呼びに行くのか、他の者に行かせるのかはシキの知るところではない。
もう少しすれば紫揺がこの部屋に来るはずだ。 もしここでマツリと紫揺が鉢合わせをしたらしたで何なりと話すことがあるだろう。
「あら、どんなお話をしようかしら」
何なりと話すことがあると思ったが、具体的に考えると何も案が見えてこない。
「その時になれば、それなりにあるかしら」
今までのシキなら行き当たりばったりということは無かった。 婚姻を済ませてシキは変わったようだ。 これが結婚をした女の度胸なのだろうか、それとも少なからず紫揺の影響を受けたのだろうか。
前者であることは色濃いし、後者であるならばシキは紫揺のことをよく見ているということになる。
ある意味、どちらも救いがたいが。
少々時を待ち紫揺ではなくマツリがやって来た。
その少し前にマツリを呼びに行ったシキの従者が戻ってきていた。
「遅いではありませんか」
昌耶が従者に言っているのが聞こえた。 昌耶がマツリを呼びに行ったようではなかったらしい。
「申し訳ございません。 マツリ様がお房におられませんでしたのでお探ししておりました」
この従者は、マツリを探している時に “最高か” に会い、マツリがリツソの部屋の裏に居たと聞きやっとマツリに会えたということであった。
マツリをシキの部屋に入れると襖を閉めた昌耶。 しっかりと襖の中に入っている。
シキが一言いえば昌耶は部屋の外に出るがシキは言わなかった。
「姉上、お話があると伺いましたが」
朝餉の席で話は終わっていたと思っていたマツリが問う。
「ええ・・・。 分からないことを教えて欲しいの」
「どういう事でしょう、姉上に分からないことなどと」
座って、と言うシキを見ながら椅子を引き座る。
波葉の事かとマツリが警戒した。 夕べは波葉と一杯でもなく二杯でも三杯でもなく、それ以上に呑み語り明かした。 波葉がどう考え何を思っているのかは知ったつもりだが何を訊かれるのかには構えてしまう。
「マツリはリツソがいつ紫に想いを寄せていたと知ったの?」
「はい?」
構えていたことと違うことを訊かれた。 思わぬ問いにマツリがとんでもない顔をしているが昌耶に至ってもそうだ。
「大切なことなの。 教えてもらえないかしら?」
「義兄上のお話しではないのですか?」
「波葉? 波葉のことは今はいいわ」
さも関せずというようにシキが言う。
「姉上、お呼び方を・・・」
今のシキはリツソと同じではないか。
「今はそんなことはどうでもいいの。 わたくしが訊いているのは、マツリはリツソがいつ紫に想いを寄せたのかを知っていたのかということ」
どうしてそんな話が出てくるのか。 今シキは波葉のことを考えねばならない筈なのに。
「姉上、もう少し義兄上のことをお考え下さい」
あの朝餉の席でどれだけ波葉が小さくなっていたことか。 それに夕べ波葉と話したこともある。
「波葉はわたくしより父上の言うことを選んだのよ。 そうそう許せるものではないわ」
「義兄上は官吏です。 父上に逆らえるものでは御座いませんでしょう」
「あら、マツリはあくまでもわたくしが悪いと言いたいのね」
「そんなことは申しておりません。 ですが、義兄上も心を痛めておられます」
夕べ波葉の心の内を聞いた。
「マツリ、さっきも言ったわ。 波葉のことはいいの。 わたくしの問いに答えてもらえないかしら?」
そう言われマツリに思うところができた。
「では姉上の問いにお答えします。 我がお答えすれば姉上も義兄上のことをお許し願えますか?」
「波葉のことを?」
「姉上、お呼びの仕方を・・・」
「ええ、分かったわ。 幾つかを真を持ってマツリが答えてくれたら波葉のことを許しましょう」
「幾つか真を持って?」
一つでは無いのか?
「まずは一つ目に答えてもらえる? マツリはリツソがいつ紫に想いを寄せていたと知ったの?」
「それは・・・」
遠い目を送る。 二年には満たないがそれほどにも前のことだ。
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第28回
シキが来たからには紫揺のことを任せておけばいいかと、今日は夕刻から本領の中を飛んでいた。
四方にあの文官のことをまだ話せず気にはなっていたし、俤と接触をしたかったが、リツソが見つかったのにいつまでも地下を歩くのは不審に思われる。 それに六都(むと) のことも気になっていた。 この三つの中で今の己に急ぎ出来ることは六都の事。
だが六都の都司を訪ねたが六年前のことは知らないということであった。 六都はしょっちゅう都司が変わる。 それにやる気がない。
そして民は逆らう目をしている。 六都では夜遅くまで民が酒を吞んでいる。 六都がある程度寝静まるまで見ていたが、結局なんの収穫もなく戻ってきた。
あとは紫揺の事が気にかかる。
夕刻まではシキと楽しんでいた姿を目にしていたが、頭がスッキリしたとでも言って、万が一にもその後に東の領土に帰ったということは無いだろうか。
もう宮で起きている女官や従者は居ないだろう、問う相手が居ない。 どうしたものかと着替え終わると偶然にでも女官か従者に会わないかと回廊を歩いた。
「こんな夜中にうろついている女官も従者もおらんか・・・」
自室から客用の寝泊まりする部屋に来たがここまで来ても誰一人として会わなかった。
己の衣装を見る。
「着替えずあのまま東まで飛べばよかったか」
そうすればキョウゲンの目で万が一にも紫揺が下を走っていれば見つけられたのに。 踵を返そうとした時、一枚の襖が開いた。
「どなたかと思えばマツリ様」
声にしていたマツリの独り言が聞こえたようだ。
「これは、義兄上」
襖の中から顔を出してきたのは波葉だった。
「どうしてこのような所に? 姉上の房で休まれておられなかったのですか?」
ここは客用の泊部屋、どうしてその部屋に波葉が居るのか。 波葉の立場を思ってシキの部屋で休んでいたのではないかとは言いはしたが、宮帰りをしているシキを置いて帰ったと思っていた。
「かなりシキ様がおかんむりのようで御座いまして、義父上にお願いしてこの房を使わせて頂いております」
シキと波葉の新しい邸に一人で帰ったのならば、シキの怒りが増幅するだろうと思っているようだ。
そしてそれは間違いなく、正鵠を射ているだろう。
「あのままで御座いますか・・・」
己も波葉の加勢をしたが、その後に澪引と四方の夫婦喧嘩に巻き込まれそうになったのでさっさと退散した。 だからあの後どうなったのかは知らなかった。
「ええ、紫さまがシキ様のご機嫌を取って下さっていると良いのですが」
「え? 紫で御座いますか?」
「ええ、まだお二人でお話をされていると思います」
以前シキに聞いていた。 初めて紫揺と会った日に紫揺を気に入り、その日からずっと客用の間ではなく自分の部屋に招き入れ夜な夜な話しをしていたと。
マツリにしてみればひょんなところから紫揺の居所が分かった。
「そうですか。 お起こししてしまったようで申し訳ございませんでした」
「いいえ、寝られそうにありませんでしたので」
波葉はどれほどシキのことを想っているのだろうか、とそんなことを考え思わず笑みがこぼれた。 そんなマツリの表情に心が安らいだのだろうか、波葉がマツリを誘った。
「マツリ様、宜しければ一献お付き合いいただけませんか?」
「もちろんで御座います。 二献でも三献でも」
紫揺の居所が分かったのだ、もう何の心配もいらない。
今は己の連れてきた紫揺が原因で夫婦喧嘩となってしまった波葉に付き合い少しでも罪ほろぼしをしよう。
朝餉の席で足をブラブラさせたリツソが目だけを動かしている。
昨日の昼餉も夕餉も家族全員がそろわなかった。 リツソは澪引とシキと三人で食事をした。 それは楽しい食事だった。
そして今、朝餉の席。 今までなら親子五人の朝餉の席だったが、今では波葉も家族となっている。 初めてのシキの宮帰りであるから、波葉を入れた六人での朝餉の席は初めてであった。
それなのに。 昨日の昼餉も夕餉もあんなに楽しかったのに。 この静けさは何だろう。 ことりと食器を置く音。 その音しか聞こえてこない。
それによく見ると波葉がチラチラとシキを見ている。 当のシキはそれに気付いているはずなのに波葉と目を合わせようとしていないし声もかけない。
そして澪引も完全に四方を無視しているように見える。 それに対して四方が怒っている様子は見せず、どこかで溜息をつきたそうに見える。
「兄上」
とうとう我慢しきれずリツソがマツリに小声で話しかけた。
マツリがリツソを一瞬見る。
今までは長四角の卓の正面に四方と澪引が座り、対面にシキ、マツリ、リツソと座っていた。 だが波葉が増えたということで、マツリが一つ左にずれ、リツソが短い方の一辺に座っていたので皆を見渡すことが出来ていた。
「様子がおかしいのですが?」
「そんなことは良い。 お前は鍛練をしておるのか? 母上がそう仰っておられたそうだが」
マツリがリツソの小声に堂々と声を出して応える。
マツリの声にシキと澪引が思わず目を合わせる。
「へ?」
「紫が居なくなってからというもの、勉学をずっとサボっておったがその後はどうなった」
「あ・・・ええっと」
今更、一年以上前の話を持ち出されても、とリツソが思うが、マツリは度々言い、リツソの勉学の師から逃げられてばかりだと聞いていた。
「言ったはずだな、腹の底から考えよと、態度を改めよと。 今までお前のやってきたことをよく考え、お前がこれからせねばならぬことを考えよと」
「はい・・・」
「その中に勉学や鍛練は入っておらんのか」
藪蛇だ。 そんな話になるとは思っていなかった。
「えっと、じゃあ、今日シユラと一緒に勉学を―――」
「あら、リツソ駄目よ」
マツリとリツソの会話を聞いていたシキ。 丸一日紫揺と居られるのは今日と明日しかない。 リツソに邪魔をされたくはない。
「え?」
リツソが声の主であるシキを見た。
「今日、明日と紫はずっとわたくしと居るの」
「だって、昨日もずっと姉上と居たではありませんか。 それに波葉を放っておくのですか?」
「リツソ、お呼びの仕方に気を付けろ」
マツリの隣りで波葉が軽く頭を下げる。 リツソが言った波葉の呼び方にマツリも顎を引くように頭を下げる。
「昨日はリツソが皆に謝って回っていたから、紫と共に居る時が無かったのではなかったかしら? それに波葉様はこれからお仕事よ」
「ええ、四方様もね」
完全に嫌がらせで澪引が言っているのが分かる。 たしかに昨日の昼餉も夕餉も澪引と顔を合わせられなくて仕事にかこつけて席を同じにしなかった四方である。
それにすらも怒っているのだろう。
では、どうしろと言うのだ。 何を言っても返事もしなければ目も合わせないというのに。 四方の言いたいことは山ほどある。 だが
「澪引・・・もう許してはもらえんか?」
「あら、何のことで御座いましょうか。 波葉も四方様もお仕事でお忙しいと申しましただけで御座います」
シキが嫁ぎどこか寂しい思いを感じていた。 母親としてそんなことを思ってはいけないと分かっていたのに、それでも寂しかった。 そんな時にリツソが行方不明になり、戻ってきた時には目覚めない状態だった。 そしてそのリツソを取り上げられた。
忙しくしているマツリが気を使ってくれた、それはよくよく分かっている。 だが心の中は涙で溢れかえっていた。
目覚めないリツソの手を取りたかったのにリツソと引き離された。 一日千秋の思いでリツソが我が腕に戻ってくるのを待った。 そのリツソが目覚め澪引の腕の中に戻ってきた。 その上、昨日などはリツソと嫁いだシキとも共に食事をした。
リツソとシキの存在が澪引の精神を安定させ、肉体をも安定させたのか口が達者である。
だが澪引はリツソと引き離されたことにまだ怒っているし、紫揺のことも聞いていなかった。 そうそう四方を許せるものではない。
そして波葉も四方と同じように、仕事にかこつけて食事の席を同じにしなかったのだ。
四方が申し訳なさそうな目で波葉を見る。 波葉も眉尻を垂れそれに応じた。
シキと澪引が何かしら怒っているようだ。 そして波葉と四方がそれに相対しているようだ。 それもかなり立場が弱く。
マツリに言われたことなど忘れてリツソがワクワクする。
「母上、何か御座いましたか?」
澪引の言いようにマツリが訊いたが「いいえ」とマツリに答えると次にリツソを見た。
「リツソ、先程マツリが言ったように、勉学や鍛練はどうなっているの?」
「え?」
まさか澪引からそんなことを言われるとは思いもしなかった。
「母上? 何か御座いましたか?」
思わずリツソもマツリと同じように訊き返した。
「え? いいえ? 当たり前のことを訊いただけよ?」
シキが笑いを噛み殺して下を向く。 波葉がどうしたのかとシキを見ている。
澪引は紫揺にリツソを鍛練させると言ったがシキがそれに異を唱えた。 そして紫揺にはリツソではなくマツリを推した。 澪引はそれが頭にあるのだろう。 昨晩ずっと考えていたのかもしれない。
リツソのことを可愛がっている澪引。 リツソの想いを叶えてやりたいと思っていても、シキに言われてリツソが一年以内に紫揺が言うところの、頼れる男になるとは思えなかったのだろう。 それにシキが紫揺にリツソが変わるのは不可能と言い、それを分かっていて言ったのね? と訊いた。 紫揺自身が言ったように、リツソのことは弟以外に見られないのかもしれない。
だがそれを置いても今回のことがある。 シキが言ったように勉学も、まだまだ深く物事を考えるということがリツソには出来ていない。 また攫われてはどうするのか。 リツソには少々考えてもらわねばならない。 紫揺とのことだけではなく、その為にも勉学や鍛練は必要だ。
「今回の事ではわたくしは身が裂ける思いでした。 もうあのようなことは嫌なの」
「勉学をしても攫われる時には攫われます」
何故かきっぱりと貴公子ぜんとしてリツソが言うのは、どうなのだろうか。
「鍛練はどう? 鍛練をしていれば、攫われるということは無いはずよ?」
「・・・鍛練は・・・。 疲れるではありませんか。 痛いし」
「お前は・・・。 あの時に言ったことをもう忘れたのか」
マツリが怒鳴る気にもなれずに言う。
「あ! そうだわ」
なにか閃いたようにシキが頭を上げた。
「リツソ、母上と勉学をすればどうかしら? 母上、如何で御座いますか?」
そうすれば澪引にもリツソの状態が少しでも分かるだろう。 リツソは紫揺に頼られる男になる、ならないの状態ではないということが。
シキは波葉と結婚をして少々シビアになったようだ。
「姉上! それは完全にシユラを独り占めしようとしているではありませんか!」
「あら、それとこれとは違うわ」
ニコリと笑った美しいシキにリツソがすぐに言い返せなかった。
いつもより長くかかった朝餉の時が終わった。 シキが自室で紫揺が来るのを待ちながら考え事をしている。
昨日、紫揺はマツリのことを見直すところがあると言っていたし、マツリのことを継続して怒っていないということが分かった。
これは大きな収穫だ。
あとはマツリの慧眼、魔釣の目。 どうしてそんな目を堂々と紫揺に向けたのか。
その後に、リツソはその程度、己を知ることなどと。 そんなことを言って何故リツソに対して怒ったのか。
そしてマツリらしくない言(げん)。 紫揺が謝ったのに、それを受けることなくリツソを責めた。 あの時は紫揺の言葉を聞いても己の言いようを優先した。 マツリは己の言葉、言いようが間違っていると分かっていたはず。 それなのに何故。
(マツリはいつリツソが紫のことを想っていると知ったのかしら)
それに朝餉の席のことを思う。
マツリが澪引の話したことを知っていたとは思いもしなかった。 だから鍛練をしていないのかと、澪引が言っていたというのを聞いた時には驚いた。
澪引がリツソに勉学や鍛練をさせるとは聞いていない筈。 リツソが一年後に頼れる男に変わっていれば、紫揺がリツソのことを考えると言ったことも知っているはずがない。
それなのに・・・知っていた? では、どうしてマツリはあの時そのことを言わなかったのだろう。
「ああ、いくつも分からないことがあるわ。 もう、マツリったら何を考えているのかしら」
マツリにはいつでも訊けると思っている。 だが紫揺には訊くもなにも、同じ時を過ごせることさえ限られている。 だからマツリには後で訊けばいいと思っていたが、マツリへの疑問を解消しない限り先に進めそうにない。
「はい?」
シキの側付きの昌耶が振り返ってシキを見た。
「何か仰いましたでしょうか?」
うっかり声に出してしまったことに己を咎めながらも違うことを言う。
「ええ、マツリとお話がしたいの。 マツリを呼んでもらえるかしら」
「紫さまではなく?」
「ええ、マツリ。 マツリに訊きたいことがあるの」
「お待ちくださいませ」
シキに頭を下げるとシキの部屋を出て行った。
昌耶自身が呼びに行くのか、他の者に行かせるのかはシキの知るところではない。
もう少しすれば紫揺がこの部屋に来るはずだ。 もしここでマツリと紫揺が鉢合わせをしたらしたで何なりと話すことがあるだろう。
「あら、どんなお話をしようかしら」
何なりと話すことがあると思ったが、具体的に考えると何も案が見えてこない。
「その時になれば、それなりにあるかしら」
今までのシキなら行き当たりばったりということは無かった。 婚姻を済ませてシキは変わったようだ。 これが結婚をした女の度胸なのだろうか、それとも少なからず紫揺の影響を受けたのだろうか。
前者であることは色濃いし、後者であるならばシキは紫揺のことをよく見ているということになる。
ある意味、どちらも救いがたいが。
少々時を待ち紫揺ではなくマツリがやって来た。
その少し前にマツリを呼びに行ったシキの従者が戻ってきていた。
「遅いではありませんか」
昌耶が従者に言っているのが聞こえた。 昌耶がマツリを呼びに行ったようではなかったらしい。
「申し訳ございません。 マツリ様がお房におられませんでしたのでお探ししておりました」
この従者は、マツリを探している時に “最高か” に会い、マツリがリツソの部屋の裏に居たと聞きやっとマツリに会えたということであった。
マツリをシキの部屋に入れると襖を閉めた昌耶。 しっかりと襖の中に入っている。
シキが一言いえば昌耶は部屋の外に出るがシキは言わなかった。
「姉上、お話があると伺いましたが」
朝餉の席で話は終わっていたと思っていたマツリが問う。
「ええ・・・。 分からないことを教えて欲しいの」
「どういう事でしょう、姉上に分からないことなどと」
座って、と言うシキを見ながら椅子を引き座る。
波葉の事かとマツリが警戒した。 夕べは波葉と一杯でもなく二杯でも三杯でもなく、それ以上に呑み語り明かした。 波葉がどう考え何を思っているのかは知ったつもりだが何を訊かれるのかには構えてしまう。
「マツリはリツソがいつ紫に想いを寄せていたと知ったの?」
「はい?」
構えていたことと違うことを訊かれた。 思わぬ問いにマツリがとんでもない顔をしているが昌耶に至ってもそうだ。
「大切なことなの。 教えてもらえないかしら?」
「義兄上のお話しではないのですか?」
「波葉? 波葉のことは今はいいわ」
さも関せずというようにシキが言う。
「姉上、お呼び方を・・・」
今のシキはリツソと同じではないか。
「今はそんなことはどうでもいいの。 わたくしが訊いているのは、マツリはリツソがいつ紫に想いを寄せたのかを知っていたのかということ」
どうしてそんな話が出てくるのか。 今シキは波葉のことを考えねばならない筈なのに。
「姉上、もう少し義兄上のことをお考え下さい」
あの朝餉の席でどれだけ波葉が小さくなっていたことか。 それに夕べ波葉と話したこともある。
「波葉はわたくしより父上の言うことを選んだのよ。 そうそう許せるものではないわ」
「義兄上は官吏です。 父上に逆らえるものでは御座いませんでしょう」
「あら、マツリはあくまでもわたくしが悪いと言いたいのね」
「そんなことは申しておりません。 ですが、義兄上も心を痛めておられます」
夕べ波葉の心の内を聞いた。
「マツリ、さっきも言ったわ。 波葉のことはいいの。 わたくしの問いに答えてもらえないかしら?」
そう言われマツリに思うところができた。
「では姉上の問いにお答えします。 我がお答えすれば姉上も義兄上のことをお許し願えますか?」
「波葉のことを?」
「姉上、お呼びの仕方を・・・」
「ええ、分かったわ。 幾つかを真を持ってマツリが答えてくれたら波葉のことを許しましょう」
「幾つか真を持って?」
一つでは無いのか?
「まずは一つ目に答えてもらえる? マツリはリツソがいつ紫に想いを寄せていたと知ったの?」
「それは・・・」
遠い目を送る。 二年には満たないがそれほどにも前のことだ。