虚空の辰刻(とき)  第192回

大福りす
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第192回



木立を抜け庭を歩いている時に辺りを見ると昨日のように人がいない。

「他に誰も見当たりませんね」

「朝一番にこちらのお掃除を済ませまして、次にこの辺りの廊下や庭に人が出てくるのは昼餉あとになります」

他愛もないことを話しながら歩いていると、太鼓橋の中央までやって来た。

「ここで鯉を見ています。 疲れたでしょう、じっとしてますから裾を下ろしてもらっていいです。 休憩してきてください」

「休憩などと、とんでも御座いません。 それに疲れなども御座いません」

紫揺の言う『じっとしています』の深い意味を知る由もない二人が丁重にご辞退を申し上げる。

「じゃ、もう少ししたらシキ様もいらっしゃるでしょうから、お茶の用意をお願いできますか? 急がなくてゆっくりでいいですから」

二人が目を合わせた。 紫揺が一人になりたいのか、それとも自分たちに休みの時間を取れるように言っているのかは分からないが、ここは是と言うのがいいことだと分かる。 互いに頷き合う。

「それでは茶の用意をしてまいります」

紫揺の思惑など知る由もない二人が裾を丁寧に降ろした。

「お願いします」

二人が見えなくなるまで見送ると辺りを見回した。

「よし」

さっき彩楓が言っていた。 朝一の次に人手が出てくるのは昼餉後と。
太鼓橋の欄干は朝一番の掃除でだろう綺麗に拭かれている。 長い裾があるから思うようには動けないが、向う脛くらいまで前の裾を片手で上げ履き物を脱ぐと、もう一方の手を欄干に着くと欄干に跳び乗った。

欄干の幅は平均台の二倍ちかくある。 全く落ちる気がしないし、この衣装を濡らす気もない。 人口の池なのだから太鼓橋もそれ程の高さがあるわけでもない。 片手で持っていた裾を両手に持ち換えると欄干の上を歩いた。

さすがに落ちる気はしないと言えど、この裾だ。 ジャンプの着地で裾を踏んでしまうかもしれないし、ターンなど長い裾が空気を含んでしまっては重心を失い万が一が起こってしまうかもしれない。 そう思うとジャンプもターンさえも考えてしまう。
だから歩いた。

歩いた・・・歩いた。 黙々と歩いた。

「歩くだけって・・・」

面白くも何ともない。

欄干の中央まで戻ると袿の裾を後ろに垂らして池の方に向かって座った。 足をブラブラしても衣の中に隠れて見えない。
池には蒼穹に浮かぶ白い雲が映っている。 それを揺らすように色とりどりの鯉たちが今にも上から餌が落ちてくるのかと口をパクパクさせてきた。

「ごめん、餌じゃないから」

これ以上ここに座っていれば鯉に下手な期待をさせてしまう。 立ち上がろうとしかけて裾が邪魔なのに気付いた。 たくし上げるしかない。 衣裳を持ち、裾をたくし上げようとしたその時、後ろから声が掛かった。

「こんな所で何をしておる」

聞き覚えのある声。 アンド聞きたくない声。 振り返る必要もなければそんな気もない。

「座ってる」

「東屋に行くと言っていたのではないのか」

「マツリに言った覚えはない」

「・・・姉上に所用が出来た。 ここには来られない」

「分かった」

マツリの気配が消えない。

「分かったって言ったでしょ、用が済んだのなら戻れば?」

「・・・」

「・・・なに」

「下りられなくなったのか」

「んなわけない!」

「では下りてみろ」

「マツリが居なくなったら下りる」

鯉たちが飽きずに口をパクパクさせている。

「落ちたらどうする」

「落ちない。 万が一落ちても衣はちゃんと自分で洗って返す」

目先は下を向いている。 あの口の中に落ちるのはゾッとする。 思いっきりチュウチュウ吸われそうだ。

「そんなことを言っておるのではない」

「池が深いのなら泳げるし―――」

ヒョイと身体が浮いた。

「へ?」

ストンと太鼓橋の上に足が降りる。

「姉上が見られたら卒倒される」

そう言い残すと立ち去って行った。

「なっに、アイツ!」

マツリの背中を睨みつけた。

正にマツリの言う通りになりかけていたシキが、回廊の端でお茶を運んできていた彩楓と紅香に支えられ座り込んでいる。 シキの後ろについていた二人は互いにもたれ合ってこれまた座り込んでいる。 そして此之葉も座り込んで秋我に支えられている。

マツリからの報告と願い事を聞いたあと、シキがマツリにかいつまんで紫揺のことを話した。
昨晩二人で話したことの一部だが、紫揺は両親を亡くしたことを自分のせいだとずっと思い悩んでいる。 そんな時に北の領土の者に攫われ、北から逃げた日に東の者が接触をした。 それが数日前のこと。
その時に東の領土の事を知り、自分が紫だということを聞かされ、その上、力のことを何も分かっていないのに意図せず力が出てしまう。 そういう苦境の中にいるのだと。 少しは紫揺の身になって欲しいと。

マツリは言い返すことなく聞いていた。 それどころか最初に両親を亡くしたことが自分のせいだと思っていると聞いた途端、寂寥(せきりょう)さえ見せていた。 そえがどうしてなのかに心当たりがなくはない。 結果としてその心を利用するような形にはなってしまうが、これはいけるかもしれないと思い、所用を思い出したから東屋に行けなくなったとマツリに伝言を頼んだ。

物陰から二人の様子を見るつもりで回廊を歩いていると、此之葉と秋我に出会ったのでお誘いしたのだが、シキも此之葉も太鼓橋の欄干の上を歩く紫揺を見て倒れそうになったのである。 これを若冲が知ったら「それくらいで。 こっちは高鉄棒だ」 とでも言うであろうが。

シキと此之葉のことなど知りもしない紫揺。 “最高か” の二人がきてくれなくては、裾を引きずって歩くわけにはいかない。

「倒立も出来ない・・・」

柔らかい裾広がりの着物に似た衣裳。 そんなことをしてしまえば、帯から下がアッパッパーになってしまう。 さすがの紫揺もそれはハシタナイと思う。
欄干に平たい胸を預けると顔と両手を池の方に出した。 せっかく落ち着こうとしていた鯉がまたパクパクとし始める。

「ごめん。 上げられるもの持ってない」



昼食の席で此之葉が沈んだ顔をしていた。 どうしたのかと訊いても、そんなことはないと沈んだ顔を隠して答えるだけだった。
席についた時、此之葉から唱和のことは今日ではなく明後日になったと聞いた。 その事で沈んでいるのだろうかと思うが、昨日以上の落胆が見える。
秋我は初日のことは無かったかのように、パクパクと目の前にあるものを食べている。

「お二人はいつも何をされているんですか?」

紫揺はここに来てからずっと、この二人と一緒に居ない時にはシキと居る。

此之葉は、ちょっと前には紫揺が欄干の上を歩いているのを見て倒れそうになっていました、などとは言えない。

「あまり部屋から出ては本領の方々に申し訳ないので、私は先程までずっと部屋におりました」

「ずっと? 退屈じゃないですか?」

「たまに秋我が来てくれていましたので」

「ええ。 とは言っても、ずっと部屋の中はよくありませんから、先ほど此之葉を誘って外の空気を吸いに出ておりました」

そして此之葉の身体に悪いことを目にした。
回廊でばったり会ったシキにマツリと紫揺が仲良くなるかもしれない、お二人もご心配でしょう? と聞かされ、ついて行ったのだが、マツリと紫揺のこと以前に、紫揺の奔放にシキと此之葉が倒れかけてしまった。
ちなみに唱和のことが明後日になったというのはこの時にシキから聞いた。

「ですよね。 此之葉さん、運動しなくちゃダメですよ」

運動・・・先程の紫揺の姿が目に浮かぶ。 此之葉は座っていると言えど、立ち眩みを起こしそうになった。



「では、明後日ということだな」

「はい」

「ロセイの方は大丈夫なのか?」

「ロセイのことです、難なくこなすでしょう」

「ご馳走様でした!」

リツソが箸を置いて大きな声で言うと、椅子から跳び下りかけたが、マツリがその後ろ衿をつかんだ。

「まだ食べ始めたところだろう」

「我は終わりました」

たしかに全部食べてある。 米の一粒も残っていない。 褒められたものだ。

「母上のご報告も聞いていない」

「お元気になられました。 では」

と言ってもまだ後ろ衿を掴まれている。

「兄上! 報告は致しました」

「まだあちらは食事中だ。 そんな中に入って行くというのか」

あちらとは紫揺たちの事。

「あ・・・」

「大人しく座っていろ」

口を尖らせて深く椅子に座り直した。 やっと後ろ衿からマツリの手が離れる。

「それにしてもショウワが “古の力を持つ者” と知らなかったとはな・・・」

これはマツリの落度ではない。 その前に北の領土を見ていた四方の落度だ。 それは分かっているが、四方自身も先代である四方の父、今はご隠居と呼ばれている父からそんな話は聞いていなかった。

「一度、父上にお訊きしてみるか」

父上とは四方の父、ご隠居ということである。

「はい。 いずれにせよショウワが東の者で東に行ってしまえば北に “古の力をもつ者” が居なくなるという事になります。 北の領主がいつの代からは分からないとは言っておりましたが、五色達のことを良くは言いませんでした。 それを思うと今代五色に関わらずなのでしょうが、少なくとも今は今代五色にショウワが “古の力を持つ者” としての役割を果たしていなかったことは明らかです。 北の五色のことを考えますに “古の力を持つ者” が必要かと」

「だが五色と違って “古の力を持つ者” はその領土に生まれる」

「はい。 我が思うに、先の紫が襲われショウワが攫われたときから、いえ、その様なことを考えた時から北の領土がおかしくなっていたのではないでしょうか。 ショウワのことは東の者が言うことを信じる前提としてですが、ショウワが居なければショウワの師となった “古の力を持つ者” が北の最後の “古の力を持つ者” ということになります。 何十年も前から北の領土には “古の力を持つ者” がいなかったということになります」

「北にあとを継ぐ “古の力を持つ者” が生まれなかったから、ショウワが攫われたということか。 そしてショウワのことを知りえることもなかった時の本領が、事に関わった者を狼の牙にかからせた。 領主も新しい者になり、それまでの領主が何を考えていたか、そしてそれまでの状態をも詳しく知らなかったということか。 ふむ・・・。 その辺りも父上にお訊きしてみよう」

膳が下げられてゆき、茶が運ばれてきた。

リツソの尻がもぞもぞと動く。 マツリを挟んで座っているシキにも明らかにそれが分かる。

「マツリ、そろそろリツソを許してやってちょうだいな」

マツリが軽く右下を見てから前を向いた。 左からは宙に足をバタつかせて、マツリを見上げているリツソの視線を感じる。 マツリが茶をすする。 四方も茶をすすっているが、マツリの様子に方眉を上げている。

「マツリ?」

マツリが片眉を上げて右を斜に見てまた前を見た。

「行ってよし」

リツソが目を輝かせて椅子から跳び下り、走って食事室を出て行った。

「どうしたマツリ」

「何がで御座いましょうか」

「別にリツソをじらさなくても良かっただろうに」

「じらしてなどおりません。 一言いう前に茶を飲みたかっただけです」

四方とシキが小首を傾げながら目を合わせた。



襖の外が騒がしくなったと思った途端、襖がバンと開け放たれた。

「シユラ―!」

リツソ様! とまだリツソを追う声が聞こえるが、そんなもので止まるリツソではない。 それにマツリのお墨付きだ。

「これはリツソ様」

秋我が言うと、此之葉と立ち上がり礼をする。
部屋に入ってしまってはどうしようもない。 追っていた者たちは諦めてしずしずと回廊の定位置に戻った。

「リツソ君」

同じように椅子から下りた紫揺にリツソがしがみ付く。 紫揺にしがみ付く前にチラッと見たテーブルにはもう膳はなかった。 下げられたのだろう。 ということは、これからずっと紫揺と一緒に居られる。

「我の部屋に来ぬか? 我の持っている色んなものを見せてやる」

宝物を見せてくれるらしい。

「うん、でもシキ様が」

「姉上はご存知だ。 それにシユラの所に行ってもいいと言ったのは兄上だ。 だから怖いモノはない」

「え? そうなの?」

「うん、だから行こう」

紫揺の手を引っ張る。

「あ、うん。 じゃ、行ってきます」

此之葉と秋我に言い残して、紫揺がリツソに手を引かれながら出て行った。 紫揺がいうところの “最高か” が後を追う。
呆気にとられている此之葉と秋我。

「そういえば、紫さまはどうしてリツソ様をご存知なのだ。 それもあんなに親しく。 此之葉、なにか聞いていますか?」

領主が居た時もリツソが紫揺に抱きついていた。
此之葉が首を振る。


リツソの部屋に入ると綺麗に片付いていた。 これはリツソの努力の賜物ではなく、誰かが片付けているだろうことは容易に知れる。
リツソが紫揺を部屋に入れると襖を閉めかけようとしたのを “最高か” が、襖を押して実力行使で止めた。

「何故止めるのか」

「女人をお房にお入れになった時には、女人の為に襖を閉めてはなりません」

“最高か” の片割れ彩楓がここまでで止めて正解だった。 許嫁でもないのですから、などと付け加えていれば「シユラは我の奥になる」 などと言いだし、ややこしくなることこの上ない。
“最高か” にしては、リツソが一般的に思う不埒な真似をすることなどないとは思っている。 だが相手はリツソだ。 何をするか分からない。 ガマガエルを出してくるかもしれないし、蛇の抜けがらを自慢げに紫揺の目の前にぶら下げるかもしれない。
驚いた紫揺に怪我でもされたらどうしようもない。 襖は開けて頂いておかねば。 リツソが何と言おうとも。

「そ・・・そうか。 そういうものなのか?」

「年が明ければリツソ様は十五の歳におなりになります。 こういうことはお守りくださらなければ。 十五におなりになるのですからっ。 十五にっ」

紅香も彩楓に続いて尤もらしく言う。 そして必要以上に二つ名をもらえる年齢を強調する。

「そ、そうだな。 我はもうすぐ二つ名をもらえる十五の歳になるオトコなのだからな。 女人のことを考えるのがオトコなのだからな」

言うと閉まっていた襖さえ全開した。
隠れるところもなく思いっきり部屋の中が見える。 “最高か” が互いの目を見て頷き、左右に分かれて座った。

ここに “最高か” のタッグが完全となって組まれた。