虚空の辰刻(とき)  第37回

大福りす
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第37回



「もっと地理の勉強をしていればよかった・・・」

風はないが、痛い寒さを覚える。 髪が凍らないようにフードを被り、白い吐息を吐きながらポケットに手を入れる。

「・・・いい。 うん、地理も社会も勉強なんていい。 有ることを受け入れればいいだけ。 うん、そう。 分かった。 寒いのは寒い。 だからどこの地域かなんて考えなければいい。 ココは寒い所それだけでいい」 あっさりと考えることを断念した。

有りのままを受け入れるしかない。 いや、受け入れよう。 そうでなければ前に進めない。

「分からない不思議なことも有るんだから、無い頭を絞っても仕方がない。 全部受け入れるしかないんだから」 

ここが何処なのか、この寒さはどうしてなのか、分からない不思議なことは何なのだろうか、そんなことを考えても答えはない。 教えてもらうしかない。 でも誰もそれを教えてはくれない。 ではそれを疑問に思うことはやめよう。 すべて受け入れよう。
そう思った瞬間、紫揺の目が座った。

「来るなら来なさいよ。 なんでも受けてやるから」
殆どやけくそに近いが、それでも腹の底からの思いであった。 と、その時アマフウの声が響いた。

「アナタ! いい加減に戻りなさい!」

「うわっ・・・またあの時間が始まるんだ・・・」 
サイテイな時間、サイテイな空間。 あの時間、空間だけは受け入れられない。 腹の底からの思いが瓦解しそうになる。

馬車の中の小窓に暮色が差し込む。

(もう夕方になる。 今日も領土の中心ってとこに行けなかったんだ) 瞼を伏せると小窓をそっと閉める。


小窓から見える風景は特別何も変わらなかった。 段々と草葺屋根が増えてきたことはあるが、冷え冷えとした土地に畑が広がり、枝先の枯れた木々が以前より多少は多く見えるだけであった。

ただ、辺境の地と言われた最初の場所と違ったのは、馬車の走る横が枝先が枯れてはいるが、木々で埋め尽くされた林となっていた。 だがそれはアマフウ側の小窓から見える風景であって、紫揺の側からは見えなかった。
そして最初に見た正面に見える山にもかなり近くなっていた。

「入ったわね」 突然アマフウの声が降ってきた。

「え?」

「やっと着いたのよ。 今日こそゆっくりできるわ」

「・・・それって、領土の中心っていう所に来たってことですか?」

紫揺を一瞥(いちべつ)する。

「アナタ・・・何をしたいの?」

「え?」

「この領土に来て何をしようと思ってるの?」

思いもしない質問であった。 いや、それ以上に話しかけられるなどとは思ってもみなかった。

「え・・・それは・・・」 

アマフウに対して答えられる材料なんてない。 お婆様の紫が来るはずだった場所を見てみたかったなどと言っても、そんなことはアマフウには関係のないことだ。 それに、力がないとか、自覚がないとか、そんな風に言われたことに対してどうにか思ったなどとも言えない。

「どうなの?」

「・・・誤解を解きたいから」

「誤解?」

「アマフウさんの袂を燃やしたって言われてるけど、そんなことをした覚えがないから」
当のアマフウを目の前にして少々言いにくく、チラッとアマフウを見て続ける。

「それに、トウオウさんが私のことを紫だって言うし、他の人も。 お婆様に何があったのかは分からないけど、私はお婆様の名前ではないんだから、何かを誤解されてる。 それにお婆様も何も言われることなんてなかったはず。 それとセイハさんもここに来て色々言ってたけど、それって全部誤解だからって証明したくて。 えっと・・・」
何が言いたいのか分からなくなってきた。

取って付けた理由だったが、だがそれは嘘ではない。 このことは心の片隅にあったのだから。

「セイハが何を言ったの?」

「えっと・・・沢の水とか、冷水とかで炎を消せるとか、火を扱ってもいいとか、土とか・・・」

「で? アナタはそれをしたの?」

「出来るわけないです」

「そう」
言ったっきりアマフウがソッポを向いてしまった。

(ナニ? これって、どうよ! 聞くだけ聞いて無視!? 信じられないワガママ! って、あれ? えっとさっき、着いたって言ってた。 領土の中心に着いたの?)

小窓を開けるが、辺りはもう薄暗く何も見ることが出来なかった。

その後も馬車の中は沈黙が流れ、馬車の外はいつもならとうに馬車が止められる暗闇になっても、角灯で照らしながら進んでいた。

おもむろにアマフウが御者台にある窓を開ける。

「中が暗すぎるわ。 一旦止めて灯りを入れなさい」

御者がすぐに馬車を止めてまだ灯りの点いていない角灯に灯を移し、馬車の中に吊るした。 吊るし終えた御者にアマフウが言う。

「あたりに気をつけなさい。 ヒトウカを見たらすぐに言うのよ」

「は、はい」 御者がこわばった声音で返答する。

暗闇にヒトウカを見つけることは安易なことというのは紫揺も知っている。 光り輝くヒトウカなのだから。

(・・・アマフウさんはヒトウカって言ってるけど、ヒオオカミのことを考えてるんだ。 ヒトウカもヒオオカミもその生態は分からないけど、基本狼は夜行性のはず。 ヒオオカミと狼が同じ生態なら、この暗闇が危ないって思ってるんだ)

背筋に目に見えない恐ろしいものが走る。 人をオモチャにすると言われるヒオオカミの影が頭をかすめる。
暗くなってから随分と走った。 勿論、闇夜で休憩など取れるはずはなく、紫揺の胃と腰は限界を迎えていた。 向かいに座るアマフウはそんなことなど知る由もなく、欠伸をしている。

(・・・もう限界)
と思った時、馬車が止まった。 痛みと吐き気に襲われていた顔を思わず上げて、小窓を開ける。 外は暗闇だが、それでもその暗闇が流れていることはない。 御者台から御者が降りて、閂を外す音がする。 すぐに小窓を閉めるとウッカリと前を見てしまった。 アマフウと目があう。

「アナタ・・・」

「は・・・い」
激しい揺れにやっと居場所を見つけた胃が別の意味で吐きそうになる。

「顔色が悪いわよ」 

暗に自分の目の前で吐くんじゃないわよ、と言われているのだろう。
御者が戸を開けるとすぐにアマフウが荷台から降りた。 さも、この先に起こるかもしれない紫揺の口から溢れ出る滝の饗宴を見たくもないと言わんばかりに。

紫揺はといえば、アマフウに言い返すことなく、胃と腰を押さえながら、まるで婆さまのように荷台からのそのそと降りた。
先に歩くアマフウを見ると、角灯が灯されている木の扉の向こうに消えていくのが見えた。 それ以外は辺りは真っ暗で何も見えない。 と、アマフウを扉の奥に見送った灯が紫揺の方に寄ってくるのが見えた。 角灯を持った御者であった。 次に紫揺の足元を照らそうと思っているのだろう。 何も言わずじっと角灯を持っている。

「すみません、ちょっと待っててください」

しゃがみ込み何度も胃液を飲み込む。 その合間に腰をさする。
すると扉が開き誰かが角灯を持って紫揺に近づいてきた。

「シユラ、大丈夫?」 セイハであった。

「あ・・・はい。 もう少ししたら落ち着くと思います・・・。 ウプ」 思わず口を押えたが、何が口から登場することもなかった。

「そう? 辛そうだけど?」

紫揺に向けて言うと、今度は御者に向かって言葉を投げた。

「ここはいいわ。 私が見てるから。 下がっていいわよ」

御者が一つお辞儀をすると、足元台を持ちそのまま馬車を動かし厩に帰っていった。

「・・・ここって、領土の中心ですか?」
切なる思いだった。 もうこれ以上馬車に乗りたくなかったのだから。

「うん、そうよ。 暗いからあまり分からないけど、紫揺が明るい時に見た所とは随分・・・とまでいかないけど、ちょっとは変わってるわよ」

と、また扉が開き、今度はムロイが出てきた。

「シユラ様、どこかお身体の具合が?」

「あ、大丈夫です。 ・・・はい」

「ムロイー、シユラは気分が悪いんだって。 私が見てるから心配しないで。 それよりシユラ、夜食になっちゃうけど食べられる?」

「・・・あ、無理です」

「ってことらしいわよ。 シユラのご飯の用意を止めれば?」 紫揺から目を外してムロイに言う。

「シユラ様、ご無理でも食べて頂かなくては―――」

「シユラは無理だって言ってるのよ。 乙女はダイエットのことを考えたら、1食や2食くらい食べなくても大丈夫なんだから。 まっ、今のシユラはダイエットどころじゃなくて気分がすぐれないんだろうけどね。 ほらムロイ、戻ってアマフウの機嫌を取っておけば? 相当機嫌悪そうだったじゃない」

言い重ねるセイハを一瞥する。

「それではシユラ様、ご気分がよくなれば中へお入りください」
シユラ様を頼んだぞ、とセイハに言い添えると扉に向かって歩き出した。

ムロイの後姿を追うセイハの目が僅かに嘲笑を帯びた。

「ムロイ、必死なんだね」

「え?」

「領土がおかしくなってるから必死なのよ。 あんなムロイ、オカシイったらないわ」

「セイハさん?」

ムロイが必至になる領土、そこはセイハも同じ思いなんじゃないのかと思っていた。 勿論セイハだけでなく、他の4人も。 それを 『オカシイ』 という。 ムロイと同じ思いではなかったのだろうか? それは自分の勝手な思い過ごしだったのだろうか。
それとも単に、ムロイの必死さを 『オカシイ』 といっただけで、深い意味はないのであろうか。

セイハさん? という紫揺の問いかけにセイハが眉と口角を上げた。