虚空の辰刻(とき) 第155回
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それは紫揺の祖母、紫が十歳だったころに遡った。
花を愛でにお付きの者達と領土の端に出かけた。 そこは周りが緑一面で、その中に十年に一度しか咲かない花が見られるという場所だった。
開花を知らせにきた民は是非に紫に見て欲しいと言ってきたが、生憎とその時、早朝から具合の良くなかった “古(いにしえ)の力を持つ者” が朝から力を出し臥せっていた。
“古の力を持つ者” それは紫が寝ている時以外はずっと傍についている者である。 古の力を受け継ぐ者はまだ幼く、師匠の代わりになどなれるはずもなかった。
どこかに不穏な動きがあったわけではなかった。 その昔、本領から初代紫がこの領土にやって来てからは民は徐々に落ち着き、不穏分子が残っていることもなかった。
本領から各領土が独立するにあたって、他の領土との交流は無くなり、互いに干渉しあわない、領土に立ち入らないと確約していたので軋轢なども一切なかった。
時の領主はそれらのことを鑑みて、紫にどうしたいかを訊ねた。 すると
『民が知らせてくれたのです。 是非にとも見に行きたいです』
この日、まだ十歳になったばかりだというのに、民の心に添った心根の優しい紫だった。
“古の力を持つ者” が臥せっていてついて行けないと時の領主が言うと
『私にはいつも付いて下さっている方々がいます』 そう言った。
代々紫という名を受け継いでいく者の周りにはいつも数人の青年や、成人したお付きと呼ばれる男たちが周りを固めていた。 だがそれも必要のないぐらいに平和であった。 そしてその男たちを信用していると言うのである。
そうして、紫はお付きの男たちと身の回りの世話をする女たちとともに、民に案内され花を愛でに出かけた。
高台になる領土の端は少々肌寒かったが、そんなことも気にならないくらい、十年に一度咲く花は可憐だった。
あちらこちらに、ポンポンと一塊に咲き、互いに身を寄せていた。
そしてどうしても民が見て欲しいと言った理由が分かった。 その可憐な花は柔らかい紫色をしていたのだ。 そして
『お誕生の日、御目出とう御座います。 これから、十年ごとにこの花たちが紫さまのお祝いをしてくれるでしょう』
民が零れんばかりの笑みで紫に言うのを男たちは聞いていた。
『まぁ、私の誕生の日と知って知らせてくれたのですか? とても嬉しいわ。 連れて来て下さってありがとう。 ね、一緒に茶を飲みましょう。 用意してくれているの』
この日が紫の誕生日であったが、春の祭りの月と重なるため領土での紫の誕生の祝いは翌月に設けられていた。
女たちが布を敷き場の用意をしていた。
『紫さま、どうぞお座りください』
『ありがとう。 ね、どうぞ、座って。 一緒に愛でましょう?』
紫と民に茶が渡された。
『本当になんて可愛らしいんでしょ』
片手でチョンチョンと花をつついたりしている。
民もその姿を誇らしげに見ていた。
『何日くらい咲いているのですか?』 『どうして十年に一度なんですか?』 『この塊は広くなってきているのですか?』 矢継ぎ早に民に質問をする。 民もそれに答えるが、十歳になったばかりの少女に、分かりやすい言葉を選びながらのものであった。 紫を孫と言っても可笑しくない年齢の者だったのだから。
『まぁ、紫さま、あまり次々と訊かれては・・・ほら、困っておりますよ』
『あ、ごめんなさい』
『いいえ。 嬉しいばかりです』
女たちも腰を下ろし花を愛で茶を楽しんでいる。 一人の女が、優雅に踊り出すと、二人三人とそれに続いた。 腰を下ろしたままの女が踊りに合わせた歌を歌い出す。
女たちが座るところから離れていたお付きの者達も、その声に姿に耳や目を傾けていた。
ここに居る誰もが幸せを感じていた時だった。 東の領土の民は今代紫が幸せに笑っているだけで幸せなのだから。 紫が心を悼めた時にはそれだけで心が沈むものだった。
だがそれは長くは続かなかった。
喊声(かんせい)が聞こえた。
紫と民が振り返った時には、見たこともない服を着た男たちがこちら目がけて走ってきていた。
『紫さまをお守りしろ!』
お付きを束ねていた者が紫の一番近くにいた者に指示を出す。
お付きの男たちが指示を出された一名を除き、一斉にその男たちに対峙したが、こちらの方の人数が少ないのは明らかであった。
『紫さま! お逃げになって下さい!』
民が言うと男たちの加勢に走った。
民にとっても、女たちにとっても、もちろんお付きの男たちにとっても初めてのことであったが、紫を守らなければと本能で感じた。
女たちが紫を逃がそうと誘導するが、その足は速いものではなかった。
民の男とすれ違いに一人のお付きの青年が紫の元に走って来た。 束ねていた者にお守りしろと言われた青年だった。
『紫さま! お逃げ下さい! さぁ!』
女たちの中に入り、手を伸ばし紫の手をとる。
『でも皆が』
女たちを残していくことなど選べない。
『お逃げ下さい! 私たちも後を追います』 女たちが紫の背を押す。
「狙われていたのは紫さまただお一人でした。 他の者には目もくれなかったそうです。 お付きの者は紫さまをお守りする為、襲ってきた者を相手にし、女たちは逃げまどっていて、その後の紫さまのご様子を誰も見ておりませんでしたが、女たちは自分たちが狙われていなことを知ると、紫さまを探しだしましたが、女たちの目に映ったのは、襲われかけた紫さまが崖から落ちていかれる姿でした。 そう伝え聞いております」
崖から落ちた・・・、それがどういうことなのかは分かる。 だが今はそんな感傷に浸っている時ではない。 感傷は・・・あとでいい。
「で? それが領主の責任だというのですか?」
和室に入って開口一番の謝罪に対してのことだ。
玄関で東の領主と言った。 領主というのは、東西南北があっての東の領主であれば、日本でいうところの・・・知事だろう。 総理大臣でもなければ天皇でもないであろう。
「断を下したのは領主です」
花を愛でに行くということを了解したのは当時の領主。
「どこに居ても襲われたんじゃないですか?」
花を愛でに行こうが、家の中に居ようが、襲われる時には襲われる。 攫(さら)われる時には攫われる。 自分がそうだったのだから。 お遣いに出たところで攫われたのだから。
「後に聞いた話から、それは充分に考えられますが、どこに居られても紫さまをお守りできなかったのは領主の責で御座います」
下を見るように頭を下げた。
このままここで何を言っていても始まらない。 女たちに心配をかけるだけだと思った紫が青年の手をギュッと握った。
二人で逃げようとした時、襲ってきた男たちがあの可憐な花を踏んだ。
『なにをするのですか!』
青年の手を振りほどき、花の元に戻ろうとするのを青年が後ろから抱き上げそのまま走り出した。
『離しなさい! 離しなさい! 花が!』
『お許しください!』
そこへお付き達から足止めを食らわなかった男が一人踊り出てきた。 前を塞がれた。 目が尋常ではなかった。
『おさがり下さい』 紫を下ろすと背に守った。
『ムラサキ・・・』 口の端からヨダレを垂らしている。
『どこの者だ!』
『ムラサキ・・・』
青年の横をすり抜けて紫の手を掴もうとした。 その手を弾く。
『下がれ!』
尋常でなかった目が今度は虚ろな目で青年を捉える。
『・・・邪魔をするな』
言ったが早いか、青年に襲い掛かってきた。
『お逃げ下さい!』
そう言うと男ともつれ合って坂を転がった。
後ろを振り返ると女たちを過ぎ、何人もの男たちがこちらに向かって走って来るのが見えた。 狙われているのは紫だけ、ようやく紫にそれが分かった。
――― 逃げなくては!
坂をかけおりるが、男たちの足にかなうはずはない。 まだ十歳なのだから。
腕を掴まれた。
『離しなさい!』
手を大きく振ろうとするが、それさえもできない。 みるみる細く白い腕が赤くなっていく。
『ムラサキ・・・』
先ほどの男と同じようにヨダレを垂れ、異常な目をしている。 力の加減も出来ないようだ。 今にも紫の腕が握り潰されようとしている。
『離せ!』
男の腕を捻じ曲げたのは先程の青年だ。 ともにもつれ合って坂を下って行った男は坂の下で横たわっていた。
青年に捻じられた痛みで男が手を離した。 その隙に紫を引き寄せる。 追いついてきた他の男たちも加わってジリジリと囲まれる。 一斉に手が伸びてきた。 その手はどれも紫を捉えようとしている。 青年が紫の腹に手を入れるとそのまま抱え上げ、僅かにできた隙間を走り抜けた。
全員やられたのか・・・、そう思いながらも逃げるしかないが、紫を抱えていてはすぐに追いつかれる。
――― どうしたらいい。
その途端また一人が前に回ってきた。 逃げる方向を変えようとするがすぐに囲まれてしまった。 四人、さっきより人数が減っている。 殴り合う音が聞こえる。 全員がやられたわけではなかったようだ。 希望が見える。
『前の男を蹴ります。 その隙に逃げてください。 あとの男たちは何とか食い止めます』
紫の耳元で言った。 紫をそっと下ろした途端、男の腹を正面から蹴った。 男は身体を二つに折ると、さらに身体三つ分後ろに飛び、そのまま背中から地に落ちた。
『今のうちに!』
青年の声が合図となって紫は走り出した。 後ろなど振り向いていてはすぐに捕まってしまう。 少しでも自分の力で逃げなければ。
青年が一人で三人の相手をして、目先が明るい結果など見られるものではない。
と、紫の前に先程の四人とは違う男が現れた。 息を切らしながら止まった。
『ムラサキ・・・』
この男も他の男と同じだった。
『おどきなさい!』
凛として言うが、男はそれに従う気など毛頭ない。 紫に手を伸ばした。 その手をかわすと方向を変え、領土の端の端、崖の方に向かった。 男が追ってくる。 それも余裕の笑みを見せて。
たとえ大の男であろうと、これだけ走っていれば息も荒くなるはずなのに、そんな様子は微塵も見せない。
――― 人じゃない。
そう思った途端、腕を掴まれた。
『ムラサキ・・・』
――― この者達は呪われているのか、それとも狂っているのか・・・。
『離しなさい!』
腕を振るが、男にしてみれば小さな抵抗。
二人を地に伏せた。 あと一人。 青年がそう思った時、紫の声が聞こえた。 見ると、崖の際で紫が男に腕を掴まれている。
『紫さま!!』
一人の男を置いて紫の元に走る。
『離しなさいと言っているでしょう!』
『ムラサキぃ・・・』
男の目が段々と違うものになってきた。 “邪” だけを感じる。
男が紫を抱えようと、もう一方の手を紫の身体に伸ばした。
『触れるでない!』
捕まれていた手から男の手に絡むように閃光が走った。
ギャッ! と叫ぶと男が手を離し倒れかけたが、足を踏ん張り回避した。
紫が走り出す。 男が追う。 それを青年が追う。
すぐに紫が追いつかれた。 男が紫の前に回り込んで腕を掴もうとするのを、紫が腕を引っ込めかわした。
青年がすぐそこまで来ている。 あと七歩。 男が紫の腕ではなく身体を抱えようとした。 紫がそれから逃げようと身体を捻ろうとして・・・足を踏み外した。
『紫さま!』
紫の身が崖に舞った。
「紫さまは、我が領土からお姿を消されました」
「・・・」
感傷は後でと考えていたが、崖から落ちた、姿を消した、それがお婆様の経験なら、どれだけ怖い目に遭われたのだろう。
「崖をおりて紫さまをお探ししましたが、どこにもおられませんでした」
(ハッキリ言って、遺体捜索っていうことじゃない。 ・・・ん? え? あれ? 遺体捜索? それってオカシイ。 お婆様が十歳の時にお亡くなりになっていれば、私はここに居ない筈じゃない)
「我らは紫さまが亡くなられたとは思いませんでした。 お姿が見当たらないのですから。 民もそれに希望を持ちました。 時の領主はあまりの出来事に我を失ってしまい、後を継いだまだ歳の若かった私の父が領主となり、紫さまをお探しすると言明いたしました。 民も異存はないと。 我らの紫さまはお一人だと」
「・・・」
“我らの紫さまはお一人だと” それは祖母のことと言いたいのだろう。 言いたいことは分かった、だが整理しきれないことがある。
一つに、崖から落ちたのに、遺体が見つからない。
一つに、どうして自分が存在するのか。
一つに、祖母は北とか東とかいう者たちの間で紫であったとして、どうして自分が祖母の名で呼ばれるのか。
「襲ってきたのは北の領土の者と分かりました」
「え?」
紫揺の頭の中には無かったことを言われた。
「そのことを・・・本領はご存知でしょうか?」
紫揺が本領と言った、東の領主は本領のことなど話していないのに。 北の領土に行って本領の話も聞かされたということなのだろうか。
「本領のことを御存知なのですか?」
「は・・・い。 何となくは」
リツソが言っていた。
『ここは本領であって、東西南北の領土を統治している。 東西南北の領土はこの本領の元にある』 と。
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それは紫揺の祖母、紫が十歳だったころに遡った。
花を愛でにお付きの者達と領土の端に出かけた。 そこは周りが緑一面で、その中に十年に一度しか咲かない花が見られるという場所だった。
開花を知らせにきた民は是非に紫に見て欲しいと言ってきたが、生憎とその時、早朝から具合の良くなかった “古(いにしえ)の力を持つ者” が朝から力を出し臥せっていた。
“古の力を持つ者” それは紫が寝ている時以外はずっと傍についている者である。 古の力を受け継ぐ者はまだ幼く、師匠の代わりになどなれるはずもなかった。
どこかに不穏な動きがあったわけではなかった。 その昔、本領から初代紫がこの領土にやって来てからは民は徐々に落ち着き、不穏分子が残っていることもなかった。
本領から各領土が独立するにあたって、他の領土との交流は無くなり、互いに干渉しあわない、領土に立ち入らないと確約していたので軋轢なども一切なかった。
時の領主はそれらのことを鑑みて、紫にどうしたいかを訊ねた。 すると
『民が知らせてくれたのです。 是非にとも見に行きたいです』
この日、まだ十歳になったばかりだというのに、民の心に添った心根の優しい紫だった。
“古の力を持つ者” が臥せっていてついて行けないと時の領主が言うと
『私にはいつも付いて下さっている方々がいます』 そう言った。
代々紫という名を受け継いでいく者の周りにはいつも数人の青年や、成人したお付きと呼ばれる男たちが周りを固めていた。 だがそれも必要のないぐらいに平和であった。 そしてその男たちを信用していると言うのである。
そうして、紫はお付きの男たちと身の回りの世話をする女たちとともに、民に案内され花を愛でに出かけた。
高台になる領土の端は少々肌寒かったが、そんなことも気にならないくらい、十年に一度咲く花は可憐だった。
あちらこちらに、ポンポンと一塊に咲き、互いに身を寄せていた。
そしてどうしても民が見て欲しいと言った理由が分かった。 その可憐な花は柔らかい紫色をしていたのだ。 そして
『お誕生の日、御目出とう御座います。 これから、十年ごとにこの花たちが紫さまのお祝いをしてくれるでしょう』
民が零れんばかりの笑みで紫に言うのを男たちは聞いていた。
『まぁ、私の誕生の日と知って知らせてくれたのですか? とても嬉しいわ。 連れて来て下さってありがとう。 ね、一緒に茶を飲みましょう。 用意してくれているの』
この日が紫の誕生日であったが、春の祭りの月と重なるため領土での紫の誕生の祝いは翌月に設けられていた。
女たちが布を敷き場の用意をしていた。
『紫さま、どうぞお座りください』
『ありがとう。 ね、どうぞ、座って。 一緒に愛でましょう?』
紫と民に茶が渡された。
『本当になんて可愛らしいんでしょ』
片手でチョンチョンと花をつついたりしている。
民もその姿を誇らしげに見ていた。
『何日くらい咲いているのですか?』 『どうして十年に一度なんですか?』 『この塊は広くなってきているのですか?』 矢継ぎ早に民に質問をする。 民もそれに答えるが、十歳になったばかりの少女に、分かりやすい言葉を選びながらのものであった。 紫を孫と言っても可笑しくない年齢の者だったのだから。
『まぁ、紫さま、あまり次々と訊かれては・・・ほら、困っておりますよ』
『あ、ごめんなさい』
『いいえ。 嬉しいばかりです』
女たちも腰を下ろし花を愛で茶を楽しんでいる。 一人の女が、優雅に踊り出すと、二人三人とそれに続いた。 腰を下ろしたままの女が踊りに合わせた歌を歌い出す。
女たちが座るところから離れていたお付きの者達も、その声に姿に耳や目を傾けていた。
ここに居る誰もが幸せを感じていた時だった。 東の領土の民は今代紫が幸せに笑っているだけで幸せなのだから。 紫が心を悼めた時にはそれだけで心が沈むものだった。
だがそれは長くは続かなかった。
喊声(かんせい)が聞こえた。
紫と民が振り返った時には、見たこともない服を着た男たちがこちら目がけて走ってきていた。
『紫さまをお守りしろ!』
お付きを束ねていた者が紫の一番近くにいた者に指示を出す。
お付きの男たちが指示を出された一名を除き、一斉にその男たちに対峙したが、こちらの方の人数が少ないのは明らかであった。
『紫さま! お逃げになって下さい!』
民が言うと男たちの加勢に走った。
民にとっても、女たちにとっても、もちろんお付きの男たちにとっても初めてのことであったが、紫を守らなければと本能で感じた。
女たちが紫を逃がそうと誘導するが、その足は速いものではなかった。
民の男とすれ違いに一人のお付きの青年が紫の元に走って来た。 束ねていた者にお守りしろと言われた青年だった。
『紫さま! お逃げ下さい! さぁ!』
女たちの中に入り、手を伸ばし紫の手をとる。
『でも皆が』
女たちを残していくことなど選べない。
『お逃げ下さい! 私たちも後を追います』 女たちが紫の背を押す。
「狙われていたのは紫さまただお一人でした。 他の者には目もくれなかったそうです。 お付きの者は紫さまをお守りする為、襲ってきた者を相手にし、女たちは逃げまどっていて、その後の紫さまのご様子を誰も見ておりませんでしたが、女たちは自分たちが狙われていなことを知ると、紫さまを探しだしましたが、女たちの目に映ったのは、襲われかけた紫さまが崖から落ちていかれる姿でした。 そう伝え聞いております」
崖から落ちた・・・、それがどういうことなのかは分かる。 だが今はそんな感傷に浸っている時ではない。 感傷は・・・あとでいい。
「で? それが領主の責任だというのですか?」
和室に入って開口一番の謝罪に対してのことだ。
玄関で東の領主と言った。 領主というのは、東西南北があっての東の領主であれば、日本でいうところの・・・知事だろう。 総理大臣でもなければ天皇でもないであろう。
「断を下したのは領主です」
花を愛でに行くということを了解したのは当時の領主。
「どこに居ても襲われたんじゃないですか?」
花を愛でに行こうが、家の中に居ようが、襲われる時には襲われる。 攫(さら)われる時には攫われる。 自分がそうだったのだから。 お遣いに出たところで攫われたのだから。
「後に聞いた話から、それは充分に考えられますが、どこに居られても紫さまをお守りできなかったのは領主の責で御座います」
下を見るように頭を下げた。
このままここで何を言っていても始まらない。 女たちに心配をかけるだけだと思った紫が青年の手をギュッと握った。
二人で逃げようとした時、襲ってきた男たちがあの可憐な花を踏んだ。
『なにをするのですか!』
青年の手を振りほどき、花の元に戻ろうとするのを青年が後ろから抱き上げそのまま走り出した。
『離しなさい! 離しなさい! 花が!』
『お許しください!』
そこへお付き達から足止めを食らわなかった男が一人踊り出てきた。 前を塞がれた。 目が尋常ではなかった。
『おさがり下さい』 紫を下ろすと背に守った。
『ムラサキ・・・』 口の端からヨダレを垂らしている。
『どこの者だ!』
『ムラサキ・・・』
青年の横をすり抜けて紫の手を掴もうとした。 その手を弾く。
『下がれ!』
尋常でなかった目が今度は虚ろな目で青年を捉える。
『・・・邪魔をするな』
言ったが早いか、青年に襲い掛かってきた。
『お逃げ下さい!』
そう言うと男ともつれ合って坂を転がった。
後ろを振り返ると女たちを過ぎ、何人もの男たちがこちらに向かって走って来るのが見えた。 狙われているのは紫だけ、ようやく紫にそれが分かった。
――― 逃げなくては!
坂をかけおりるが、男たちの足にかなうはずはない。 まだ十歳なのだから。
腕を掴まれた。
『離しなさい!』
手を大きく振ろうとするが、それさえもできない。 みるみる細く白い腕が赤くなっていく。
『ムラサキ・・・』
先ほどの男と同じようにヨダレを垂れ、異常な目をしている。 力の加減も出来ないようだ。 今にも紫の腕が握り潰されようとしている。
『離せ!』
男の腕を捻じ曲げたのは先程の青年だ。 ともにもつれ合って坂を下って行った男は坂の下で横たわっていた。
青年に捻じられた痛みで男が手を離した。 その隙に紫を引き寄せる。 追いついてきた他の男たちも加わってジリジリと囲まれる。 一斉に手が伸びてきた。 その手はどれも紫を捉えようとしている。 青年が紫の腹に手を入れるとそのまま抱え上げ、僅かにできた隙間を走り抜けた。
全員やられたのか・・・、そう思いながらも逃げるしかないが、紫を抱えていてはすぐに追いつかれる。
――― どうしたらいい。
その途端また一人が前に回ってきた。 逃げる方向を変えようとするがすぐに囲まれてしまった。 四人、さっきより人数が減っている。 殴り合う音が聞こえる。 全員がやられたわけではなかったようだ。 希望が見える。
『前の男を蹴ります。 その隙に逃げてください。 あとの男たちは何とか食い止めます』
紫の耳元で言った。 紫をそっと下ろした途端、男の腹を正面から蹴った。 男は身体を二つに折ると、さらに身体三つ分後ろに飛び、そのまま背中から地に落ちた。
『今のうちに!』
青年の声が合図となって紫は走り出した。 後ろなど振り向いていてはすぐに捕まってしまう。 少しでも自分の力で逃げなければ。
青年が一人で三人の相手をして、目先が明るい結果など見られるものではない。
と、紫の前に先程の四人とは違う男が現れた。 息を切らしながら止まった。
『ムラサキ・・・』
この男も他の男と同じだった。
『おどきなさい!』
凛として言うが、男はそれに従う気など毛頭ない。 紫に手を伸ばした。 その手をかわすと方向を変え、領土の端の端、崖の方に向かった。 男が追ってくる。 それも余裕の笑みを見せて。
たとえ大の男であろうと、これだけ走っていれば息も荒くなるはずなのに、そんな様子は微塵も見せない。
――― 人じゃない。
そう思った途端、腕を掴まれた。
『ムラサキ・・・』
――― この者達は呪われているのか、それとも狂っているのか・・・。
『離しなさい!』
腕を振るが、男にしてみれば小さな抵抗。
二人を地に伏せた。 あと一人。 青年がそう思った時、紫の声が聞こえた。 見ると、崖の際で紫が男に腕を掴まれている。
『紫さま!!』
一人の男を置いて紫の元に走る。
『離しなさいと言っているでしょう!』
『ムラサキぃ・・・』
男の目が段々と違うものになってきた。 “邪” だけを感じる。
男が紫を抱えようと、もう一方の手を紫の身体に伸ばした。
『触れるでない!』
捕まれていた手から男の手に絡むように閃光が走った。
ギャッ! と叫ぶと男が手を離し倒れかけたが、足を踏ん張り回避した。
紫が走り出す。 男が追う。 それを青年が追う。
すぐに紫が追いつかれた。 男が紫の前に回り込んで腕を掴もうとするのを、紫が腕を引っ込めかわした。
青年がすぐそこまで来ている。 あと七歩。 男が紫の腕ではなく身体を抱えようとした。 紫がそれから逃げようと身体を捻ろうとして・・・足を踏み外した。
『紫さま!』
紫の身が崖に舞った。
「紫さまは、我が領土からお姿を消されました」
「・・・」
感傷は後でと考えていたが、崖から落ちた、姿を消した、それがお婆様の経験なら、どれだけ怖い目に遭われたのだろう。
「崖をおりて紫さまをお探ししましたが、どこにもおられませんでした」
(ハッキリ言って、遺体捜索っていうことじゃない。 ・・・ん? え? あれ? 遺体捜索? それってオカシイ。 お婆様が十歳の時にお亡くなりになっていれば、私はここに居ない筈じゃない)
「我らは紫さまが亡くなられたとは思いませんでした。 お姿が見当たらないのですから。 民もそれに希望を持ちました。 時の領主はあまりの出来事に我を失ってしまい、後を継いだまだ歳の若かった私の父が領主となり、紫さまをお探しすると言明いたしました。 民も異存はないと。 我らの紫さまはお一人だと」
「・・・」
“我らの紫さまはお一人だと” それは祖母のことと言いたいのだろう。 言いたいことは分かった、だが整理しきれないことがある。
一つに、崖から落ちたのに、遺体が見つからない。
一つに、どうして自分が存在するのか。
一つに、祖母は北とか東とかいう者たちの間で紫であったとして、どうして自分が祖母の名で呼ばれるのか。
「襲ってきたのは北の領土の者と分かりました」
「え?」
紫揺の頭の中には無かったことを言われた。
「そのことを・・・本領はご存知でしょうか?」
紫揺が本領と言った、東の領主は本領のことなど話していないのに。 北の領土に行って本領の話も聞かされたということなのだろうか。
「本領のことを御存知なのですか?」
「は・・・い。 何となくは」
リツソが言っていた。
『ここは本領であって、東西南北の領土を統治している。 東西南北の領土はこの本領の元にある』 と。