虚空の辰刻(とき) 第103回
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「シユラ様!」
慌てたニョゼが椅子を撥ね、紫揺の肩を抱き覗き込んだ。
「あ・・・大丈夫です。 こんなことってここの所、日常茶飯事ですから」
北の領土に向かい、この屋敷に帰るまでの間、打ち身とお友達になっていたのだから。 あ、いや。 ホテルでも一度あったか。
「ここの所・・・?」
「情けないですけど・・・。 あ、気にしないでください。 慣れましたから」
ニョゼに顔を向ける。
「額が赤くなっておられます。 すぐに冷やすものをお持ち―――」
それにずっと腕にある赤い筋も気になっていた。
「いい! いいです! これくらいなんともありませんから」
今にも飛び出しそうなニョゼの手を取り止めた。
「ですが―――」
「ニョゼさん、心配しすぎ。 甘やかしてもらうと我儘になっちゃうから。 ね?」
「本当に―――」
「大丈夫、これくらいなんともありません。 ね、座って下さい」
ことごとくニョゼに最後まで言わせず紫揺がニョゼの言葉を遮った。
ニョゼにしてはそれも大きな驚きであった。 紫揺はずっと人の話を最後まで聞く耳を持っていた。 人の話を遮る、それは自信がついてきたという事なのだろう。 そう、それに時折、語尾にも不安や寂しさを感じさせない。 自分の居ない間に紫揺は強くなったのだろう。
紫揺に促されるまま椅子に座った。
「それより、失礼なことを言っちゃってゴメンナサイ」
「そんなことはございません。 わたくしに考え直すお言葉を頂きました」
「考える? 考え直す?」
「まだ何も分かりませんが、シユラ様のお話をお聞きして、わたくしの中に何か納得できないものがあったと・・・。 いえ、違います。 何かが違うと思う心でしょうか。 そのようなものがあることを知りました」
「それは、ご両親・・・あ、いいです。 訊きません」
にこやかにニョゼを見ると続ける。
「ニョゼさんにとっていい風が吹けばいいですよね。 そのように事が動けばいいですね」
「シユラ様・・・」
「私、ニョゼさんのことが大好きです。 あ! そうだ。 私、ニョゼさんみたいになりたくて・・・じゃないな。 私がニョゼさんに守ってもらってたから、私も守りたいと思った子がいるんです。 ニョゼさんみたいにその子を守りたいって。 そしたらその子の窮地の敵はアマフウさんだったという。 まだ力のことも五色のことも何も知らなかったから、今思うに無鉄砲にもアマフウさんにケンカを売りました」
「ア・・・アマフウ様にですか!?」
ニョゼが驚いたように目を見開いた。
五歳の時に領土を出たと言えど、五色とは時折、屋敷で会っている。 領土のことはあまり詳しく知らなくとも五色のことは良く知っている。
初めて見たニョゼの驚いた顔。 ニョゼはいつも紫揺に笑顔を向けていた。 穏やかなニョゼが驚いたという事は、やはりとんでもないことをしたのだと分かる。
「知らない強みって言うんですか?」
「シユラ様・・・」
珍しくもニョゼが頭(こうべ)を垂れた。
この日からニョゼがセノギに付いた。
ニョゼは紫揺に付くと言ったがそれを紫揺が断った。
「一人で出来ます。 って、周りの人にお願いしてることが多いですけど」
ペロッと舌を出す。
「でも、セノギさんにはニョゼさんがついてあげてください。 ムロイさんもいなくてセノギさんもあの状態では何も動きません。 セノギさんの回復のお手伝いをしてあげてください」
紫揺が自ら周りの人間にお願いが出来るというだけでニョゼは驚いたが、そんなことに驚いていてどうする。 紫揺は強くなったのだから。 それに・・・。 いや、それはセノギに相談しよう。
「承知いたしました。 ですが、何かございましたらすぐにお呼びくださいませ」
そう言ったニョゼだったが、セノギの部屋から出てくることはなかった。 紫揺が破壊した日、セノギがまだまともに動かない身体を無理に動かしたせいだろう、その影響が回復に尾を引かせたようだった。
月明かりの下、紫揺の足音に気付き、紫煙をくゆらせながら振り返った。 携帯灰皿でタバコを消す。 まだ吸える長さがあったが、それを惜しむ気はない。 紫揺と時を過ごせるのだから。
「今日は俺の方が早かった」
紫揺に指摘され正直に『僕』 ではなく『俺』 と言いやすい方で言う。
「待たせちゃいましたね」
破壊した部屋を片付けるために数日は部屋に戻れないと聞いた。 同じ階の空いている部屋は使えるが、修理の音でゆっくり出来ないだろうと、当分はムロイの仕事部屋で過ごすこととなった。
仕事部屋とはいえソファーベッドもある。 そして各部屋にある様なバスタブは無いが、仕事中に軽くシャワーを浴びることがあるのだろう、シャワー室が設置されていた。
紫揺としては基本、寝るだけの部屋なのだからそれで十分なのだが、本棚が多すぎてストレッチをしようにも、本を蹴飛ばしそうで思うように動けなかったが為、時間を見過ごしてしまっていた。
「それ程でもないよ」
辺りは暗い。 だが横に見えるランドリーの窓からの明かりでお互いの顔も足元も見える。 この部屋の電気は必ず春樹が点けている。 足元を見やすくするためだろう。
「早速だけど、連絡を取ってみた」
父親が船舶の免許を持ってる専門学校の時の友達に連絡を取ったという事。
「どうでしたか?」
「今は親父さんが旅行に出ているらしくって、旅行先まではこの話を持っていくことは出来ないって。 まぁ、そうだろうね。 でも、友達は協力するって言ってたよ」
「梅雨が開けた途端に旅行ですか? まだ不安定なのに」
「日本はそうだけど、ヨーロッパを周遊しているらしいからね。 日本の梅雨は関係ないから」
海外旅行とは想像もしなかった。
「あ・・・海外なんだ。 いつ戻ってくるって仰ってました?」
「急いでるんだよね・・・でも悪い。 急かすことは出来ないんだよ。 あと少しで定年を迎えた有休消化でのお袋さんとの旅行らしいから。 それに海外だろ? 一世一代の旅行だろうしね」
「いえ、それは大丈夫になりました」
「え? どういう事?」
「一日も早くここを出たいことには変わり有りませんけど、ちょっと事情が変わって数日後でも大丈夫って言うか、そうして欲しいくらいなんです」
「じゃ、親父さんの予定で話を進めていいってことだね?」
「はい」
その日程が自分と合うかどうかは分からないが、今は急ぎではないことを伝えるだけにしよう。
「良かった。 どうしようかと思ってたんだ」
「え? どうしてですか?」
「だって君の希望に応えられなくなったから」
「・・・君じゃなくて紫揺です」
ムラサキと呼ばれたくないが為、ついうっかりフルネームではなく紫揺と言ってしまった。
「あ、ああそうだね。 紫揺ちゃんだったね」
やっと言えた『藤滝さん』 ではなく『紫揺ちゃん』 と。 冷静に言っているようだが、心の中では喜びで何度も足を踏み鳴らしている。
今回は計画的ではなく、自然に出ただけに喜びもひとしおだが、紫揺自身はそんなことに頓着していない。 今まで友達には色んな呼ばれ方をしてきたのだから。 とは言え、女友達以外から『シユ』 とか『ユラユラ』 と呼ばれればそれなりに言い返しただろう。
「じゃ、この話はコッチで進めていくよ。 それでいい? 紫揺ちゃん」
紫揺の名前を念を押して言う。
「はい」
「ね、今日地震みたいに揺れて、その後、紫揺ちゃんの居る三階で大騒ぎになってたみたいだけど、何かあった?」
紫揺から言い出したことだ、こう呼んでも良いだろうと、必要以上に紫揺を『紫揺ちゃん』 と呼ぶ。 その呼び方に物申されたらどうしようかとドギマギだ。
「あ・・・」
物申されるのだろうか・・・。 春樹の心臓が撥ねる。
「あ・・・ちょっと。 でも、落ち着いたみたいです。 ・・・三階に降りてこられなかったんですか?」
ぼやかして言うしかない。 それに騒ぎがあったのにそこに駆け付けなかったことが不思議だ。
紫揺は紫揺なりのことを考えて春樹に言う。 春樹は物申されなかったことに安堵する。
「うん、禁じられてるからね」
「え?」
「俺たちは四階以外に行かないように言われてるんだ。 あの時は昼休憩のすぐ後で、床に地響きと揺れを感じたから、全員が机にしがみついたけど、治まったらキノラさんが仕事を続けるように言ってね。 仕事が終わってから何気なく見たけど、三階が大変だったみたいだったからさ」
ある意味キノラの采配かと思う。
「キノラさん何か言ってました?」
「いや? 何も。 でも、厳しい顔はしてたかな」
「厳しい?」
「うん、今にも部屋を出て行きそうな気配だったよ」
その時、ウォン! とガザンの声がした。
「あ、先輩有難うございます。 じゃ、船の・・・お友達のお話を宜しくお願いします」
「明日も! 明日も此処だよね?」
ガザンの元に向かおうとした紫揺が足を止める。
「明日もガザンに会いに来ますから」
そう言い残すと、窓の明かりが届かないガザンの元に走った。
「え? それだけ? ってか、それって、どう!?」
ガザンのついでか? 先輩と呼ばれた春樹が暗闇に走る紫揺を見送った。
「ガザン、どうしたの? 呼んだ?」
ポケットに忍ばせていた懐中電灯を灯し、足元を照らしながらゆっくりと歩を進めている。
「ブフ」
ガザンの吐いた息が聞こえる。
「ガザン?」
ようやっとガザンの居る所まで歩いてきた。
懐中電灯に照らされたガザンが迷惑そうに目を背け、伏せた。
「あ、ゴメン。 眩しいよね」
すぐに懐中電灯を下に向ける。
ブフ、ブフ、とガザンが鼻を鳴らす。
「ガザン・・・何が言いたいの?」
膝を折って伏せているガザンの身体に添うとその背中を撫でた。
ブフ―、とガザンが安心する様に鼻から長い息を吐いた。
「やだ、ガザン。 心配してくれたの? 心配ないって。 先輩は味方だから」
人間不信のガザンがそう簡単に春樹を認めるわけがない。 フン、とガザンが顔を投げた。
「ガザン、今日は一緒に寝ていい? 明日まで一緒に居てくれる?」
そう言いながらガザンの首を抱きしめた。
余りにもあり過ぎた。 色々なことが。 ニョゼと会えたことは心躍るほどに嬉しい。 だが何よりトウオウのことが気になる。 それに自分があんなことをしてしまって、セノギにも弱っている身体に鞭を打たせてしまった。
ブフッと息を吐いたガザンだが、紫揺を撥ね退けはしなかった。
「アリガト。 今日は寝られるような気がする」
トウオウとセノギのことが気になっていたことはあるが、それと違う所で部屋を破壊し、まだ開花されていない力を出し過ぎていた。 すぐにガザンの横で寝落ちた。
ベロン。
「んん?」
ベロン。
「え?」
ベロン。
「え? ガザン!?」
横たわっていた身体が飛び起きた。
「あ・・・」
夕べの記憶が蘇る。 ガザンの横で寝た。 ガザンの身体の暖かさにすぐに寝入ってしまったようだ。
クシュン!
ガザンの身体が温かいと言えど、今は梅雨がやっと明けた時期。 添う暖かさではイマイチ足りない。 薄くでも覆う暖かさが必要だ。
布団を身に纏わなかった紫揺がクシャミを連発した。
途端
ベロン。
ガザンのベロン攻撃にあう。
「・・・なに?」
夢うつつの紫揺がハッキリと目を開けた。
「え? 朝? あ、朝日が昇ってるんだ。 そっか」
朝を迎えたのだ。 昨日はあんなことがあったのに、充分に寝られたことを感じる。
ガザンがベロンと再度紫揺の顔を舐める。
「・・・大丈夫。 何ともないから。 心配してくれてアリガト」
ガザンの唾液で朝の洗顔が終えそうな顔で微笑む。
「ゴメンね。 ガザンの寝るのを邪魔したかもしれないね」
ベロン。
さっき大丈夫と言ったから、次のベロンはガザンの睡眠を邪魔したことなど無いという、ガザンの返事なのだろう。 邪魔なんてなかった、と。 ベロンと返事をしてくれたのだろうか。
「アリガト。 ガザンのお蔭で寝られた。 じゃ、戻るね」
立ち上って戻っていくその後ろ姿をガザンがじっと見ていた。
気を失ってしまっていた独唱(どくしょう)が、東の領土から塔弥に負ぶわれて日本に戻ってきて臥せっていた。
そして数日が過ぎていた。
十数時間前のこと。
「紫さまが・・・」
と、今は衰えた目を開け、何かを告げようとしている。
それは何度もあったが、その度にすぐに床に伏せっていた。 だが今回は違うようだ。
「独唱様、お目覚めですか? 今は独唱さまのお身体が一番です。 どうぞ、もう少しお休みください」 塔弥が言う。
「い・・・いや」
先程、独唱の口から紫さまと聞いた。 そのことがどれだけ重要かは分かっている。 だが
「これ以上のご無理はお控えください」
上半身を起こそうとする独唱を塔弥が抑える。
「紫さまがお叫びじゃ」
「独唱様! 御身を!」
「我が身など! すぐに地図を!」
「独唱様!」
背はそんなに高くはなく痩身だが、その身体に見合わぬ力がある。 それ故であろう、あれ程に身の軽い塔弥が僅かとも身を動かさず独唱を抑えている。
「塔弥!?」
「独唱様と己の思いは同じです。 ですが独唱様のお命を危険にさらすことは出来ません」
「何を言っておる!」
「分かっております」
「わしと塔弥の事だけではないというのを分かっておるというのか?」
「重々に」
「わしと塔弥の事以外が、何よりも紫さまことが先決だという事も分かっておるのか?!」
「然(さ)に」
「分かっておって、わしを止めるのか!?」
「正直にお話いたします。 お止めしたくは御座いません。 曾祖叔父のことは今も尚知りたく思っています。 それに紫さまのことも。 ですが、お止めいたします。 今の独唱様はお身体を害しておられます」
「何をもってそう言うのか!?」
「何十年と気を張られておられました。 ほんの少しでいいのです。 もう少しの休みを取って頂きたい」
「わしの身体など厭わん! わしの身体は紫さまの小指の爪ほどにもならん! 紫さまがお叫びなのじゃ!! 今をもって逃すと紫さまの居所が分からん! 地図を! 早う!」
独唱が紫揺の気を感じた。 それは時が経つにつれ薄まってしまう。 今すぐに紫揺の気が発せられた場所を特定せねばならない。
「今も・・・発せられておられるのですか?」
「ああ。 お怒りの気を発せられておる。 強い気じゃ!」
ずっと僅かな気を追って来た独唱。 これ以上独唱に無理をさせたくはないが、強い気なのであれば独唱の負担も少ないであろう。 それにこれ以上独唱に逆らえない。
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「シユラ様!」
慌てたニョゼが椅子を撥ね、紫揺の肩を抱き覗き込んだ。
「あ・・・大丈夫です。 こんなことってここの所、日常茶飯事ですから」
北の領土に向かい、この屋敷に帰るまでの間、打ち身とお友達になっていたのだから。 あ、いや。 ホテルでも一度あったか。
「ここの所・・・?」
「情けないですけど・・・。 あ、気にしないでください。 慣れましたから」
ニョゼに顔を向ける。
「額が赤くなっておられます。 すぐに冷やすものをお持ち―――」
それにずっと腕にある赤い筋も気になっていた。
「いい! いいです! これくらいなんともありませんから」
今にも飛び出しそうなニョゼの手を取り止めた。
「ですが―――」
「ニョゼさん、心配しすぎ。 甘やかしてもらうと我儘になっちゃうから。 ね?」
「本当に―――」
「大丈夫、これくらいなんともありません。 ね、座って下さい」
ことごとくニョゼに最後まで言わせず紫揺がニョゼの言葉を遮った。
ニョゼにしてはそれも大きな驚きであった。 紫揺はずっと人の話を最後まで聞く耳を持っていた。 人の話を遮る、それは自信がついてきたという事なのだろう。 そう、それに時折、語尾にも不安や寂しさを感じさせない。 自分の居ない間に紫揺は強くなったのだろう。
紫揺に促されるまま椅子に座った。
「それより、失礼なことを言っちゃってゴメンナサイ」
「そんなことはございません。 わたくしに考え直すお言葉を頂きました」
「考える? 考え直す?」
「まだ何も分かりませんが、シユラ様のお話をお聞きして、わたくしの中に何か納得できないものがあったと・・・。 いえ、違います。 何かが違うと思う心でしょうか。 そのようなものがあることを知りました」
「それは、ご両親・・・あ、いいです。 訊きません」
にこやかにニョゼを見ると続ける。
「ニョゼさんにとっていい風が吹けばいいですよね。 そのように事が動けばいいですね」
「シユラ様・・・」
「私、ニョゼさんのことが大好きです。 あ! そうだ。 私、ニョゼさんみたいになりたくて・・・じゃないな。 私がニョゼさんに守ってもらってたから、私も守りたいと思った子がいるんです。 ニョゼさんみたいにその子を守りたいって。 そしたらその子の窮地の敵はアマフウさんだったという。 まだ力のことも五色のことも何も知らなかったから、今思うに無鉄砲にもアマフウさんにケンカを売りました」
「ア・・・アマフウ様にですか!?」
ニョゼが驚いたように目を見開いた。
五歳の時に領土を出たと言えど、五色とは時折、屋敷で会っている。 領土のことはあまり詳しく知らなくとも五色のことは良く知っている。
初めて見たニョゼの驚いた顔。 ニョゼはいつも紫揺に笑顔を向けていた。 穏やかなニョゼが驚いたという事は、やはりとんでもないことをしたのだと分かる。
「知らない強みって言うんですか?」
「シユラ様・・・」
珍しくもニョゼが頭(こうべ)を垂れた。
この日からニョゼがセノギに付いた。
ニョゼは紫揺に付くと言ったがそれを紫揺が断った。
「一人で出来ます。 って、周りの人にお願いしてることが多いですけど」
ペロッと舌を出す。
「でも、セノギさんにはニョゼさんがついてあげてください。 ムロイさんもいなくてセノギさんもあの状態では何も動きません。 セノギさんの回復のお手伝いをしてあげてください」
紫揺が自ら周りの人間にお願いが出来るというだけでニョゼは驚いたが、そんなことに驚いていてどうする。 紫揺は強くなったのだから。 それに・・・。 いや、それはセノギに相談しよう。
「承知いたしました。 ですが、何かございましたらすぐにお呼びくださいませ」
そう言ったニョゼだったが、セノギの部屋から出てくることはなかった。 紫揺が破壊した日、セノギがまだまともに動かない身体を無理に動かしたせいだろう、その影響が回復に尾を引かせたようだった。
月明かりの下、紫揺の足音に気付き、紫煙をくゆらせながら振り返った。 携帯灰皿でタバコを消す。 まだ吸える長さがあったが、それを惜しむ気はない。 紫揺と時を過ごせるのだから。
「今日は俺の方が早かった」
紫揺に指摘され正直に『僕』 ではなく『俺』 と言いやすい方で言う。
「待たせちゃいましたね」
破壊した部屋を片付けるために数日は部屋に戻れないと聞いた。 同じ階の空いている部屋は使えるが、修理の音でゆっくり出来ないだろうと、当分はムロイの仕事部屋で過ごすこととなった。
仕事部屋とはいえソファーベッドもある。 そして各部屋にある様なバスタブは無いが、仕事中に軽くシャワーを浴びることがあるのだろう、シャワー室が設置されていた。
紫揺としては基本、寝るだけの部屋なのだからそれで十分なのだが、本棚が多すぎてストレッチをしようにも、本を蹴飛ばしそうで思うように動けなかったが為、時間を見過ごしてしまっていた。
「それ程でもないよ」
辺りは暗い。 だが横に見えるランドリーの窓からの明かりでお互いの顔も足元も見える。 この部屋の電気は必ず春樹が点けている。 足元を見やすくするためだろう。
「早速だけど、連絡を取ってみた」
父親が船舶の免許を持ってる専門学校の時の友達に連絡を取ったという事。
「どうでしたか?」
「今は親父さんが旅行に出ているらしくって、旅行先まではこの話を持っていくことは出来ないって。 まぁ、そうだろうね。 でも、友達は協力するって言ってたよ」
「梅雨が開けた途端に旅行ですか? まだ不安定なのに」
「日本はそうだけど、ヨーロッパを周遊しているらしいからね。 日本の梅雨は関係ないから」
海外旅行とは想像もしなかった。
「あ・・・海外なんだ。 いつ戻ってくるって仰ってました?」
「急いでるんだよね・・・でも悪い。 急かすことは出来ないんだよ。 あと少しで定年を迎えた有休消化でのお袋さんとの旅行らしいから。 それに海外だろ? 一世一代の旅行だろうしね」
「いえ、それは大丈夫になりました」
「え? どういう事?」
「一日も早くここを出たいことには変わり有りませんけど、ちょっと事情が変わって数日後でも大丈夫って言うか、そうして欲しいくらいなんです」
「じゃ、親父さんの予定で話を進めていいってことだね?」
「はい」
その日程が自分と合うかどうかは分からないが、今は急ぎではないことを伝えるだけにしよう。
「良かった。 どうしようかと思ってたんだ」
「え? どうしてですか?」
「だって君の希望に応えられなくなったから」
「・・・君じゃなくて紫揺です」
ムラサキと呼ばれたくないが為、ついうっかりフルネームではなく紫揺と言ってしまった。
「あ、ああそうだね。 紫揺ちゃんだったね」
やっと言えた『藤滝さん』 ではなく『紫揺ちゃん』 と。 冷静に言っているようだが、心の中では喜びで何度も足を踏み鳴らしている。
今回は計画的ではなく、自然に出ただけに喜びもひとしおだが、紫揺自身はそんなことに頓着していない。 今まで友達には色んな呼ばれ方をしてきたのだから。 とは言え、女友達以外から『シユ』 とか『ユラユラ』 と呼ばれればそれなりに言い返しただろう。
「じゃ、この話はコッチで進めていくよ。 それでいい? 紫揺ちゃん」
紫揺の名前を念を押して言う。
「はい」
「ね、今日地震みたいに揺れて、その後、紫揺ちゃんの居る三階で大騒ぎになってたみたいだけど、何かあった?」
紫揺から言い出したことだ、こう呼んでも良いだろうと、必要以上に紫揺を『紫揺ちゃん』 と呼ぶ。 その呼び方に物申されたらどうしようかとドギマギだ。
「あ・・・」
物申されるのだろうか・・・。 春樹の心臓が撥ねる。
「あ・・・ちょっと。 でも、落ち着いたみたいです。 ・・・三階に降りてこられなかったんですか?」
ぼやかして言うしかない。 それに騒ぎがあったのにそこに駆け付けなかったことが不思議だ。
紫揺は紫揺なりのことを考えて春樹に言う。 春樹は物申されなかったことに安堵する。
「うん、禁じられてるからね」
「え?」
「俺たちは四階以外に行かないように言われてるんだ。 あの時は昼休憩のすぐ後で、床に地響きと揺れを感じたから、全員が机にしがみついたけど、治まったらキノラさんが仕事を続けるように言ってね。 仕事が終わってから何気なく見たけど、三階が大変だったみたいだったからさ」
ある意味キノラの采配かと思う。
「キノラさん何か言ってました?」
「いや? 何も。 でも、厳しい顔はしてたかな」
「厳しい?」
「うん、今にも部屋を出て行きそうな気配だったよ」
その時、ウォン! とガザンの声がした。
「あ、先輩有難うございます。 じゃ、船の・・・お友達のお話を宜しくお願いします」
「明日も! 明日も此処だよね?」
ガザンの元に向かおうとした紫揺が足を止める。
「明日もガザンに会いに来ますから」
そう言い残すと、窓の明かりが届かないガザンの元に走った。
「え? それだけ? ってか、それって、どう!?」
ガザンのついでか? 先輩と呼ばれた春樹が暗闇に走る紫揺を見送った。
「ガザン、どうしたの? 呼んだ?」
ポケットに忍ばせていた懐中電灯を灯し、足元を照らしながらゆっくりと歩を進めている。
「ブフ」
ガザンの吐いた息が聞こえる。
「ガザン?」
ようやっとガザンの居る所まで歩いてきた。
懐中電灯に照らされたガザンが迷惑そうに目を背け、伏せた。
「あ、ゴメン。 眩しいよね」
すぐに懐中電灯を下に向ける。
ブフ、ブフ、とガザンが鼻を鳴らす。
「ガザン・・・何が言いたいの?」
膝を折って伏せているガザンの身体に添うとその背中を撫でた。
ブフ―、とガザンが安心する様に鼻から長い息を吐いた。
「やだ、ガザン。 心配してくれたの? 心配ないって。 先輩は味方だから」
人間不信のガザンがそう簡単に春樹を認めるわけがない。 フン、とガザンが顔を投げた。
「ガザン、今日は一緒に寝ていい? 明日まで一緒に居てくれる?」
そう言いながらガザンの首を抱きしめた。
余りにもあり過ぎた。 色々なことが。 ニョゼと会えたことは心躍るほどに嬉しい。 だが何よりトウオウのことが気になる。 それに自分があんなことをしてしまって、セノギにも弱っている身体に鞭を打たせてしまった。
ブフッと息を吐いたガザンだが、紫揺を撥ね退けはしなかった。
「アリガト。 今日は寝られるような気がする」
トウオウとセノギのことが気になっていたことはあるが、それと違う所で部屋を破壊し、まだ開花されていない力を出し過ぎていた。 すぐにガザンの横で寝落ちた。
ベロン。
「んん?」
ベロン。
「え?」
ベロン。
「え? ガザン!?」
横たわっていた身体が飛び起きた。
「あ・・・」
夕べの記憶が蘇る。 ガザンの横で寝た。 ガザンの身体の暖かさにすぐに寝入ってしまったようだ。
クシュン!
ガザンの身体が温かいと言えど、今は梅雨がやっと明けた時期。 添う暖かさではイマイチ足りない。 薄くでも覆う暖かさが必要だ。
布団を身に纏わなかった紫揺がクシャミを連発した。
途端
ベロン。
ガザンのベロン攻撃にあう。
「・・・なに?」
夢うつつの紫揺がハッキリと目を開けた。
「え? 朝? あ、朝日が昇ってるんだ。 そっか」
朝を迎えたのだ。 昨日はあんなことがあったのに、充分に寝られたことを感じる。
ガザンがベロンと再度紫揺の顔を舐める。
「・・・大丈夫。 何ともないから。 心配してくれてアリガト」
ガザンの唾液で朝の洗顔が終えそうな顔で微笑む。
「ゴメンね。 ガザンの寝るのを邪魔したかもしれないね」
ベロン。
さっき大丈夫と言ったから、次のベロンはガザンの睡眠を邪魔したことなど無いという、ガザンの返事なのだろう。 邪魔なんてなかった、と。 ベロンと返事をしてくれたのだろうか。
「アリガト。 ガザンのお蔭で寝られた。 じゃ、戻るね」
立ち上って戻っていくその後ろ姿をガザンがじっと見ていた。
気を失ってしまっていた独唱(どくしょう)が、東の領土から塔弥に負ぶわれて日本に戻ってきて臥せっていた。
そして数日が過ぎていた。
十数時間前のこと。
「紫さまが・・・」
と、今は衰えた目を開け、何かを告げようとしている。
それは何度もあったが、その度にすぐに床に伏せっていた。 だが今回は違うようだ。
「独唱様、お目覚めですか? 今は独唱さまのお身体が一番です。 どうぞ、もう少しお休みください」 塔弥が言う。
「い・・・いや」
先程、独唱の口から紫さまと聞いた。 そのことがどれだけ重要かは分かっている。 だが
「これ以上のご無理はお控えください」
上半身を起こそうとする独唱を塔弥が抑える。
「紫さまがお叫びじゃ」
「独唱様! 御身を!」
「我が身など! すぐに地図を!」
「独唱様!」
背はそんなに高くはなく痩身だが、その身体に見合わぬ力がある。 それ故であろう、あれ程に身の軽い塔弥が僅かとも身を動かさず独唱を抑えている。
「塔弥!?」
「独唱様と己の思いは同じです。 ですが独唱様のお命を危険にさらすことは出来ません」
「何を言っておる!」
「分かっております」
「わしと塔弥の事だけではないというのを分かっておるというのか?」
「重々に」
「わしと塔弥の事以外が、何よりも紫さまことが先決だという事も分かっておるのか?!」
「然(さ)に」
「分かっておって、わしを止めるのか!?」
「正直にお話いたします。 お止めしたくは御座いません。 曾祖叔父のことは今も尚知りたく思っています。 それに紫さまのことも。 ですが、お止めいたします。 今の独唱様はお身体を害しておられます」
「何をもってそう言うのか!?」
「何十年と気を張られておられました。 ほんの少しでいいのです。 もう少しの休みを取って頂きたい」
「わしの身体など厭わん! わしの身体は紫さまの小指の爪ほどにもならん! 紫さまがお叫びなのじゃ!! 今をもって逃すと紫さまの居所が分からん! 地図を! 早う!」
独唱が紫揺の気を感じた。 それは時が経つにつれ薄まってしまう。 今すぐに紫揺の気が発せられた場所を特定せねばならない。
「今も・・・発せられておられるのですか?」
「ああ。 お怒りの気を発せられておる。 強い気じゃ!」
ずっと僅かな気を追って来た独唱。 これ以上独唱に無理をさせたくはないが、強い気なのであれば独唱の負担も少ないであろう。 それにこれ以上独唱に逆らえない。