虚空の辰刻(とき)  第86回

大福りす
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第86回



ひたすらに馬を走らせたが、馬の足が段々重くなってきているのだろう。 そのスピードは明らかに落ちてきている。

そしてとうとうトボトボと歩き出した。

鞭など入れないし拍車などもない。 足で走る様に命令するがそれももう利かなくなった。 今はまだ歩いてくれているが、いつ歩く足を止めるかもわからない。

「・・・下りるしかないか・・・」

それしか選ぶ道はない。
そんな時、ゼンの声がした。

「ここまで来れば、ヒオオカミが居るはずだ」

そう言うゼンだが、今年はヒトウカが今までになく南下していた。 それを知らないゼン。 既にセノギの姿はヒオオカミに見られていた。 そしてその情報がシグロの元に寄せられ、そのシグロから命を受けた一匹がセノギの居る場所に走っている状態だ。

「え? 近くに居るんですか?」

「いや、辺りには居らんようだ。 だがヒオオカミたちはこの辺りから北にかけてうろついているはず」

「このまま進めばいいという事ですか?」

「否、山に入れ」

「山?」

「このまま人里の道を走ってもヒオオカミには会えん。 ヒオオカミは山に居る」

「分かりました。 山の中に入るといいのですね」

「そういう事になる」

ゆっくりと馬を歩かせた。 馬も疲れているだろうし、水を飲ますことなく歩かせた。 沢か小川を見つければそこで水を飲まそう。 その先はそこに馬を置いて己の足で歩けばいい。 馬がヒオオカミを見て暴れ出すことは間違いないのだから。

暫く歩くと沢が見えた。 馬に水を飲ましてやる。 いざ、その場を去ろうと思うと手綱以外何もない。 留めておく綱がない。

「・・・失態」

馬をこのまま放っておくわけにはいかない。

「吾が見ておく」

ゼンの声がするとその姿が目の前に現れた。

「この先はハンだけがお前に付く」

ハンもいてくれたのだと初めて知る。

「よろしく頼みます」

北の領土では馬は大切な足。 捨ておくなどできない。

セノギが歩き始める。 歩き進めるうちに、上り坂に段々と足が重くなるが、今まで馬上に居たのだ、贅沢なことを言っていられない。 歩く速さを変えることなく登り続けた。
足場が悪くなってきた。 馬が歩けるような道ではない。 馬に乗って来たとしてもすぐに降りなければならなかっただろう。

奥に入るほどに、大きな岩をも越えるか迂回しなければいけない。 地もぬかるんできた。 その傾斜がきつくなってきたと思うのは気のせいだろうか。 そして気温が急激に下がってきたと感じたのも気のせいだろうか。

「ヒオオカミ・・・どこに居るのか」

そう思った時、気が散漫したのか、ぬかるんだ地に足を滑らせて岩で膝を打った。

「っう!」

膝の皿は割れていないことが分かるが、打った後で変な角度に膝が曲がってしまった感覚がある。 膝頭を何度もさする。 ゆっくりと角度が正しい位置に戻っていったような気がする。

「こんなことでどうする」

膝を打ったくらいで何だというのか。
撫でていた手を止め足を動かす。 すると膝に違和感がある。

「これしきのこと・・・」

膝の靭帯をおかしくしてしまったようだが、それが外か内か、前か後ろの十字靭帯かは分からない。 元よりそこまでも考えていない。
歩いているうちに今にも大腿骨から脛骨が離れようとする感覚を感じた。

「うぅ!」

歩を止める。

「情けないっ!」

感じるだけで、実際に大腿骨から脛骨が外れるはずがないのに、今にも膝の存在がなくなりそうで足を止める。 ・・・これ以上歩けない。
止まってしまったが故か、かいていた汗が一瞬にして引いていく。 一気に体の体温が下がる。

「ハン! 聞こえますか?」

「ああ」

ハンの姿は見えない。

「ヒオオカミたちは近くに居ますか?」

「否。 だがあと少し歩け。 さすれば腹の底から声を出せば届くやもしれん」

「分かりました」

足が動かなくなれば腕で這って行けばいい。 そう思いながらも膝が無くなりそうだ。 もう歩けないと思った自分を叱咤する。 気がするだけだ、と。

重い足を一歩ずつ大事に歩を進める。 いい加減に地に足をつけてしまうと良からぬことが起きそうな気がするからだ。 だがそれも気がするというだけ。 走れるかもしれないが、今は無理は禁物だと思う。 這ってでも行けばいいなどとは、自分への威勢にしか過ぎない。 こんな岩やぬかるみを這って進んだとしていくらも進めない。

どれくらい歩いたのだろうか。 どれくらい進んだのだろうか。 余りの過呼吸に頭がボゥっとしている。

喉が渇いた。 乾いたどころではない。 喉の粘液がなくなり、乾ききった粘膜が貼り合わされているようにさえ思える。 貼り合わされていればこれ程の息などできないはずだが。 これもそんな気がするという事かと『気がする』という言葉に嫌気がさす。 自分は何と弱い人間なのだろうかと。

「セノギ」

ハンから声が掛かった。

はい、と答えようとしたが、からからに乾いている喉からは声が出なかった。

「まだヒオオカミに十分とは近づけておらんが、あれらは耳が良い。 腹から声を出せば聞こえるまでには近寄っておるだろう」

コクリと頷くとその場でゆっくりと膝を折り手を着いた。

ハァハァと喘いでいる呼吸を整えようとするが、そう簡単にはおさまらない。 ついている膝に違和感がある。

ほんの少しだが荒い息がマシになった。

いつまでもこんなことをしていては、ヒオオカミがどこかに行ってしまうかもしれない。 姿勢を整える。 『腹からの声』今のセノギには厳しい。 が、やるしかない。

まずはまだ喘いでいる呼吸を落ち着かせる。 乾いた喉には厳しいが、少しでも深く長く息をしようとするが、喘ぐ息はなかなか収まらない。 それでもするしかない。

息を吸う時には鼻から吸い口から吐く。 吸う時には口は閉じておく。 少しでも口の中を湿らせたい。 しかしそれすらもなかなかできない。 少しずつ息を整える。 口の中に唾液が溜まるようにする。

此処で時を取りたくはないが、ここで時を取り、充分にヒオオカミに聞こえる声を出すのが今の一番の良策。 焦ることはない。 息を整えるのに、一時間もかからないのだから。 自分を言い聞かせる。

どれだけ経っただろう。 大分息が落ち着いてきた。

何も考えず飛び出て、ただ馬だけを走らせた自分に猛省する。 馬を繋ぎ置くための綱も持たなかったのも勿論だが、どうして水一つを持って出なかったのだろう。 と。
そんなことを考えながら、僅かに溜まった唾液をゆっくりと嚥下する。 良し、と思い腰を伸ばし立ち上がった。

一つ大きく深呼吸をした。 もう一度口に溜まった僅かな唾液をゆっくりと喉に流す。
そしてもう一つ肺に大きく空気を送って腹から大きく声を出す。

「ヒオオカミ! 姿を見せずともいい! だが、聞こえているならば、聞いて欲しいことがある!」

葉が風に煽られる。 セノギの髪も同時に煽られた。 そう言えば風があったのか。 ここまで歩いて来て風など感じなかったが、きっとずっと風があったのだろう。

今の己の言葉をヒオオカミが聞いてくれたのならば、こちらに注意が向くはず。 言葉の内容が聞き取れない離れた所に居るのならば、こちらに近づいているはず。 焦らなくともいい。 四つ五つ六つとゆっくり息をする。 唾液をためる。 僅かな唾液を喉に広げるようにゴクリと再度飲みこむ。

「マツリ様に伝えて欲しい! ムラサキ様を今すぐお連れすることは出来ない! もう少し時が欲しいと!」

風が葉を揺らす。 葉擦れの音が響く。 その中に獣の声が聞こえた気がした。

「聞いてくれたか?」

ヒオオカミからの返事と受け取った。 いや、ヒオオカミからの返事ではないかもしれない。 だがこの現状で受け取ってくれたと思う以外に希望はない。 ユラリと身体が傾いだ。

「ッツ!」

踏ん張っていた足から大腿骨が膝ではなく、股関節から外れようとした。 痛みに顔を歪める。 と共に、身体が傾きかけたが、なんとか持ち直しゆっくりと姿勢を正した。 ゴキンと大腿骨が股関節に嵌まる音がした。 

「クッ!」

体勢が傾く。 身体が傾いでいく気がした途端、ゴン! と音が聞こえた。
何もかもが目の前から消えた。



「そう簡単に本領に着けるはずがない」

馬上の領主が泡のような汗をかいている馬を歩かせている。
マツリもシキも飛んでくるのだから、そんな文句も出るであろう。 

「駄馬・・・とは言わないが」

彼の地の馬に比べるとそれに近い馬。 ましてや山になど慣れていない。

その時、馬の身体が傾いだ。

「え?」

そう思った時には、身体が傾いていた。 手綱をギュッと握り引っ張る。 だがそれがいけなかった。

馬は山の道に対応しきれずよろめいた。 そんな時に手綱を引っ張られ、止まらなければと思った。 足を踏ん張ろうとしてその細い足が歪んだ。 ドゥっと右に倒れる。 手綱を持ったままの領主が共に倒れた。 右足に馬体がのしかかる。

「ガッ!」 思わず声が出る。

馬が何度も立とうとするがそれが叶わない。 球節を骨折した。 馬が立とうとして暴れて身体を起こす合間に領主が足を抜いた。 その足を抱えて山の斜面を転げ落ちる。 転げ落ちながらまばらにある岩に身体をぶつける。 その度に「ウッ!」と声を上げる。



セノギの聞いた、ゴン! という音。 それは岩に側頭部を打ちかけたセノギを間一髪でハンが岩に膝を打ちながらもセノギを抱えた時、ハンの膝が岩にぶつかった音だった。

「薄弱な」

一言漏らすとセノギを抱え山を下りた。



ダンが蒼白になった。 領主が山から転げ落ちてくるのだから。

「間を空けすぎたか!」

まさかそんなことになるとは思わず領主から距離をとっていた。
領主の乗っている馬が傾いたのを目にするとすぐさま地を蹴ったが遅かった。 領主が転げ落ちてきた。

「ック、どうする」

領主は影の存在を知らない。 手を添えることなどできない。 だが、領主の様子を見ていて「もう、意識はないか?」 そう思えた。

転げ落ちてくる領主の身体を受けとめる。 確かに意識はないようだ。 どこかで頭を打ったのかもしれない。

「馬は使えないか・・・」

もんどりうっている馬を一瞥すると、仕方なく領主を抱えた。



屋敷ではキノラが新人に説明をしていた。

「此処は年功序列など関係ありません。 出来る者だけを雇っていくということです。 出来なければすぐに此処から立ち去っていただきます」

そう言うキノラが辺りを見渡した。

「一人を除き、全員三年以上になります。 除かれた一人は一年前に入りました。 貴方の前に雇われた雲渡(うんど)さんです。 そうですね、分からないことがあれば、私か雲渡さんに訊いて下って結構です・・・。 ああ、そうでした、運渡さんは貴方と同じ専門学校を卒業されていましたね。 仕事の事もそうですが、寮のことも私より雲渡さんの方が訊きやすいでしょう」

そう言うと、雲渡の成績は今までの誰にもなく優秀だと聞かされた。 だから、貴方も追いつくようにと。

「はぁ」

見覚えのある顔、雲渡。 だが性格上、全然合わない―――はずだ。 出来れば話したくもない相手だ。 どうして奴が此処に居るのだろうか。 雇った側を疑いたくなる。 とは言え、雲渡とは話したこともないが。

でも人というのは話さなくても何かを感じるものがある。 自分はそっちに重きを置いている。

「貴方は・・・下の名前、姓ではなく名で登録します。 コチラでは貴方の苗字はただお一人だけのお名前ですので、ご理解ください」

キノラにそう言われて名札を渡された。

(お一人だけのお名前ってどういう意味だよ) そう思いながらも渡された名札を手に取る。 そ
こには『春樹』と書かれていた。

合否の連絡があったときに、今日にでもすぐに来てほしいくらいだと言われた。
その初出勤の今、キノラから名札を渡された。

面接の後、一両日に連絡があると聞いていたのに、すぐに合格の連絡があった。



専門学校はとうに卒業していたが就職はしていなかった。 バイトで身を立てていた。 そこにフラリと専門学校に顔を出した時

「おっ、フリーター。 どこかに就職したか?」

当時の進路の教師、尚且つ今も進路担当教師である。

「残念でした」

「なんだよ、その言いようは」

「先生、どっかいいとこない? 高給。 バイト代じゃちょっと厳しいし、高給。 仕送りが止まって痛いんだよなー。 ね、高給」

「なんだよ目を落としてみ目を落としてみ

「心の叫び」

進路担当が呆れたような顔をして抽斗から一枚の紙を出した。

「急募が来てるんだ。 どうだ? 今の時期じゃ学生に声もかけられないし気に入ったんならお前に譲るよ」

手渡された求人募集の用紙に目を落としてみると、書かれている内容はスコブル高いものであった。

「え? これって・・・美味しすぎません?」

寮住まいという所は頂けなかったが、寮費がかからないというところが魅力的だった。 それに給与もいいし娯楽も楽しめるらしい。

「今までに何人かの卒業生が行ったが、全員満足してたぞ。 ただ・・・」

「ただ?」

「飽きるらしい。 それと・・・人間関係か。 でもどこに就職しても人間関係からは逃げられないからな」

「飽きるって?」

「環境がずっと同じだから、って言ってたな」

「ふぅーん・・・」

「フリーターのままなんだろ? お前の言う高給に入ると思うけど? 今のバイトでやっていけないんだったら、受けるだけ受けてみろよ」

「はぁ・・・」

求人募集の用紙を見ながら生返事をしていると後ろから声が掛かった。

「あれ? 春樹?」

振り向くと同じクラスだった誠也が立っていた。
相変わらず髪の毛を触るのに凝っているようで、今日も女の子が付けるヘア―ピンを器用に使って髪の毛を飾り立てている。

誠也は苗字ではなく名前だが、皆がそう呼ぶ中、春樹だけは名前ではなく苗字で呼んでいた。

前に誠也から『どうして春樹は俺のことを苗字で呼ぶんだ?』と訊かれたことがある。 返事は単純なものだった。

『名前より苗字の方が珍しいから』

その誠也に向かって進路担当が声を発した。

「っとに、フリーターが雁首揃えて」

「え? お前も?」 狙ったわけでなく、二人の声がハモった。

「あ、でも残念。 俺はこれから此処の試験受けるから、フリーターじゃなくなる」

「お、その気になったか?」

「雁首揃えたくありませんから」

「え? どういうことだよ」

「一歩違いだなー、お前がもう一歩早かったら、その求人募集はお前の手にあっただろうな」 進路担当が簡単に事を終わらせる。

「なんだよそれ、受かるとは限らない」 誠也が言う。

「何を言うんだか。 受かるに決まってんだろ」

「フリーターの台詞とは思えない」

「それはお前も一緒だろーがっ!」

「なら、万が一にも受かったら連絡寄こせ」

と、互いに連絡先を教えた。



高校を卒業して経済関係の専門学校。 特にヘッジファンドが得意であった。 それを買われたのかもしれない。 居を寮に移すことは戸惑われたが、専門学校の教師に勧められるまま試験を受けた。
すると試験に合格しそしてその後の面接でも受かった。 それも一両日に合否があると言っていたにもかかわらず、面接後いくらも経たない内に連絡があった。 その上、すぐにでも来てほしいとのことだった。

「ホンットの急募だったんだな」