虚空の辰刻(とき)  第216最終回

大福りす
『虚空の辰刻(とき)』 目次


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- 虚空の辰刻(とき)-  第216最終回



ホテルの一室のドアの呼び鈴が鳴った。

「俺です。 梁湶です」

ドアが内側から開けられた。

「どうした、こんな時間に」

丁度シャワーから出てきたところか、タオルを首にかけバスローブを着ている。 髪の毛はまだ濡れている。
タオルで髪を拭きながら、阿秀が後姿を見せながら部屋にあるソファーに座った。

(相変わらずどんな姿でもどんな仕草でも様になるよな。 こんな姿を塩見様が見たら・・・おっと、そんな話じゃなかった)

梁湶が向かいのソファーに座る。 テーブルには立ち上げたままのノートパソコンが開いて置かれていた。

「調べものですか?」

ソファーに座る前、画面を見たが壁紙になっていて何を見ていたのかは分からない。

「ちょっとな。 私の口座の金を使い切ってもいいか?」

つい先日、梁湶が追加して入れたところだ。

「殆ど阿秀が働いて作った金です。 阿秀の使いたいように使って下さい。 こっちにはまだ引き上げるまでの金は残っています」

「では、遠慮なく」

作った笑顔ではないのだろうが、同じ男から見ても惚れ惚れする。

「阿秀、紫さまに物申す此之葉を最初わざと止めなかったでしょ?」

此之葉が紫揺に考えて欲しいと、自分達にはまだ希望があるのですね、と訊いた。 その此之葉の名を呼んだだけで、それ以上何も言わなかった。 梁湶はそのことを言っている。

「・・・どうかな」

肘かけに肘をつき、指先を口に持っていく。

(良い目の保養になるわ。 俺が女だったらイチコロ・・・っと、そうじゃなかった)

己の気を入れ替えるようにコホンと咳払いをする。

「此之葉がそれに乗って紫さまに懇願し、ああ、此之葉だけじゃなくて俺たちも。 遡って言えば、わざとあの犬のことで簡単に紫さまの仰ることを了解しましたよね?」

ガザンを置いていくことなど考えてもしていないと言った紫揺に対して ”そうですか” とあっさり阿秀が応えたことだ。

「まだなにを考えているんですか?」

「そんなことを訊きに来たのか?」

白々しく作ったものなのか、本心からなのか、わずかに小首をかしげて見せる。

(答える気がないということか)

まぁ、訊いたところで何が変わるわけではない。

「いいえ、余談です。 車と船のこと、それと金のことを訊きに来ましたが、金は阿秀が使い切ってくれるのであればそれでいいかと」

「そうか、船や車を手放す時にも金がかかるな」

売るなどと考えていないようだ。

「それですが、欲しがっている者に心当たりがあります。 渡してもいいですか? 廃棄処理をするよりよっぽどいいかと思います」

北からの連絡を待っている間、若冲と一緒にホテルを出て銀行に行った時だ。 たった一日、いや一日も持たなかったが、阿秀の紹介ということで阿秀が働いていた店にホストとして入ったのだがすぐにねを上げてしまった。 その時のホスト仲間に会った。

梁湶は一目では分からなかったが、相手が覚えていた。 阿秀が連れてきた男なのだからよく覚えていたということだった。

良い成績を収められず、今はホストをやめて実家を継いでいるという。 その時に船と車のことを何気なく話すと、車も船も是非とも欲しいと言い、連絡先を教えてきた。 車は一台しか要らないが、残りの二台は売りさばくと言っていた。

「別にかまわんが、その為に日は作れんぞ」

明日にはここを発つということだ。

「明日朝一番に手続きを終わらせます。 ですので車を一台借りてもいいですか?」

「時間にさえ遅れなければ」


翌朝早朝、ガザンの散歩に出て、帰ってからはもう一度昨夜考えたことを反芻する。

「うん、間違いない」

夜中に考えることほど感情的に、感傷的になるものはない。 だがそうでは無かったと、夕べのことを回顧し終えた。

「ガザン、お留守番できる? って、してほしいんだけど」

ガザンの朝ご飯を買いに行かなければいけない。 だがガザンを連れてはいけない。 ガザンを店に入れるわけにはいかないのだから、どこかに括っておくしかないのだが、ガザンが人を見てどういう行動に出るか分からない。
腰を上げたシユラの後をずっとついて回るガザン。

「だから・・・。 お願い座ってて。 お腹減ったでしょ? ガザンのご飯を買いに行くだけだから」

――― 認めない。
紫揺から離れるなどと。
――― 認めない。
絶対に。

どれだけ紫揺が言おうともガザンが玄関を降りてくる。

「ガザン・・・」

このまま二人で野たれ死ぬのもいいかもね。 冗談でそう思ったが、セキから預かっているガザンだ。 ガザンを野垂れ死にさせてはセキに合わせる顔がないし、餓死などさせられない。 それに夕べ考えたとがある。

「仕方ない。 今日一日、絶食しよう。 私も付き合うから。 その後はどこにどう流れるかは分からないけど、どう流れても私はガザンと一緒に居るからね」

玄関を上がった紫揺の後をガザンがついてきたが、ガザンのベロンがない。 返事がない。

「ガザン?」

ベロンは嬉しいがお肌的にちょっち厳しい。 だがそのベロンが無いのは寂しい。
するとガザンが再度玄関に降りて戸の前に陣取った。 ガザンが何を言おうとしているのかが分からない。
こんなときセキならすぐに分かるはずだ。 ガザンのことが分からない自分が苛々しい。

「・・・シャワー浴びてくるね」

夕べあのままガザンの隣で眠ってしまっていた。
シャワーを浴びジャージのハーフパンツとTシャツに着替えた紫揺を見たガザンが、玄関の引き戸を掻く仕草を見せた。

「なに?」

鍵を開けガザンが出られない程度に引き戸を開け顔だけを出すと、段ボール箱が置かれていた。
まさか爆発物ではないだろう。 だが宅配でないのも分かる。 ガザンが受け取って肉球スタンプを押したのではないだろう。

まず鍵がかかっていたのだから、戸を開けることなど出来ないはずだし、ガザンが宅配業者を見て吠えることなくすまして肉球スタンプを押すことなど考えられない。

――― そういう問題だろうか。

とにかく箱を見てみよう、と思った時、引き戸が勢いよくガラガラと音をたてて開いた。 ガザンが鼻面で開けたのだ。

「わっ!」

と言った瞬間にはガザンが外に出た。

「ガザン! 出ちゃダメ!」

すぐにガザンの身体を両手で持った。
このまま何かを見て走り出しては追いつくことなど出来ない。 迷子にさせてしまう。 リードをしなかったことが悔やまれる。

紫揺を引きずりながらガザンが箱の隅々まで臭いを嗅いでいる。
ブフっというと、何事も無かったかのように玄関に入ってしまった。

「え?」

気も抜ければ力も抜ける。 どんなフェイントをかましてくれるんだ。
玄関を出たところで座り込んでしまった。 大きく息を吐く。 横に箱がある。 そっと箱に手を伸ばして開けた。

「・・・」

辺りをキョロキョロして見るがまだ朝の早い時間、誰の姿も見えない。 それに目当ての人物も確認できない。

箱の中には大型犬用のドッグフードと、紫揺用だろう朝食用と思われるサンドイッチと調理パンが一つずつ。 昼食用だろう弁当。 他に玄米茶のペットボトルが二本、そして生とカスタードのダブルのクリームの入ったシュークリームが入っていた。
ペットボトルを手に取ると、まだよく冷えている。

「あ、あの時?」

ガザンが玄関に陣取った時、あの時にこれを置こうとしていたのだろうか。
毒など入っていないだろう。 これを持ってきてくれた人物に心当たりが十分にあるが、その人物だと断定できるものは何もない。 だが間違いないと思う。 その人物が毒など入れるはずがないし、それにガザンが臭いを嗅いでいた。 段ボールに残った臭いが、昨日安全だと覚えた臭いと同じと判断したはず。

箱を両手に持って家の中に入りテーブルの上に置き箱からドッグフードを出す。
紫揺自身もコンビニにドッグフードを買いに行こうと思っていた。 この箱を置いた主もどこかのコンビニかこの辺りには無いが、二十四時間営業のスーパーで買って来たのだろう、ドッグフードは大袋ではないのだから。
袋を開けて一粒取ると玄関に伏せているガザンの鼻先に近づけた。

「どう? 食べられる?」

ガザンが屋敷で食べていたのはドッグフードではない。 野菜と肉を炊いたものを食べていた。
鼻先を動かしながら臭いの確認をする。
ベロンと大きな舌で一粒を食べた。

「大丈夫だね」

大鉢は一つしかない。 中に入っていた水を捨てるときれいに洗い水気を拭き取る。
さて、いざどのくらいの分量かと表示を見るが、体重別に書かれてある。 ガザンの体重など分からないし、ガザンがヘルスメーターの上に座ることなど出来ない。 まず尻がはみ出る。

「適当でいっか」

その昔、飼育委員をやっていたころを思い出しながら、大鉢にフードを入れ、ガザンの前に置いた。
屋敷にいた頃はがっついて食べていたが、やはり食べ慣れないのだろう。 ゆっくりと食べている。

ガザンの食べるのを見ながらテーブルの椅子に掛け、紫揺もサンドイッチを口に入れる。
これから此処で暮らすようになれば、誰にもこんなことはしてもらえない。 それどころか働きに出なくてはならない。 ガザンを言いきかせ留守番をさせなくてはならない。

「甘えてばっかりしてるな」

昨日、阿秀が言ったようにあの時点で終わりになっていれば、今日、こんな風にガザンを食べさせてあげることが出来なかったし、明日、買い物に出られるとは限らない。
時計を見ると六時四十五分をさしている。


ホテルで朝食を済ませた梁湶が十時三十分に車で駅に出かけ、ギリギリにホテルに戻ってきた。

「終わったのか?」

名義の書き換えのことだ。

「はい。 車は空港で引き渡し、船は後日島まで取りに来るそうです。 阿秀も会われますか? Shadai です」

Shadai は弟二人を引き連れてやって来ていた。 そのまま車で帰るのだろう。

「シャダイ? あのShadaiか?」

思いもしなかった名前だった。

「はい。 今は店を辞めて実家を継いでいるらしいです」

「たしか実家は・・・自転車屋と言っていたな」

よく覚えているものだ。

「会われますか?」

「懐かしいがやめておこう。 この地にはもう用はないからな」

「了解」 

紫揺の家に行く時間になると、三人の男たちが車を取りに地下の駐車場に向かい全員が車に乗り込んだ。 醍十の運転する車にいつもなら阿秀が助手席に座るはずだが後部座席に此之葉と座っている。

「朝食をとらなかったらしいな」

醍十から聞いた。 醍十は此之葉のことを気にして、此之葉が寝つくまで部屋にいようと思ったらしいが此之葉は寝ることなく、とうとう静かに泣き出してしまったらしい。 挙句に朝食もとらなく、話しかけても返事をしてもらえないと醍十が嘆いていた。
阿秀に話しかけられても俯いたままで返事もない。

「夕べ考えられたはずだ。 此之葉が案じていても全て紫さまのお心次第だ」

「・・・分かっています」

バックミラーに醍十の顔が映っている。 此之葉の声を聞いて幾分かほっとした表情を見せた。

「あまり醍十に心配をかけるんじゃないぞ」

俯いたままの此之葉がチラッと阿秀の手元を見た。


真昼間だ。 夕べのように三台もの車を紫揺の家の前に付けるわけにはいかない。 そんなことをすれば目立って仕方がない。 少し離れた所に車を置き阿秀と此之葉だけが行こうとしたが、他の六人がそれを納得しなかった。 紫揺が此処に残ると言えばどうしてでも説得するつもりなのだろう。

七人の男がぞろぞろ連れ立って歩いては目立って仕方がないが、ここは昼間パートに出ている者が多いのか、誰も外に出ていなかったし、子供たちは学校の時間だ。
結局七人の男と此之葉が紫揺の家に向かった。

引き戸のガラスにガザンの姿が映っている。 此之葉を後ろにつかせて阿秀が引き戸を叩く。 中からガザンに何か言っている紫揺の声がする。

ガザンの姿が引き戸から離れた。 あっさりとガザンが引いたのは、阿秀の臭いを感じたからだろう。
そして他にも紫揺を害する気配がないことを感じていたということは、紫揺の知るところではなかった。
引き戸が開けられると紫揺が顔を出した。 その顔に阿秀が辞儀をする。

「中に入って下さい。 此之葉さんも・・・皆さんも」

此之葉を見た時に六人の姿も目に入った。
阿秀が一番に入るとガザンの姿が見当たらない。

「ガザンなら奥の部屋にいますから安心してください」

その間の戸は開け放たれていたが、阿秀を認めたガザンだ。 唸って跳びかかることは無いはずだ。 それに此之葉にもそんなことはしないであろう。 ニョゼに対してそうだったように。
だが他の六人は分からない。 ガザンがラウンジで紫揺の言った『あの人達は私の為に一生懸命にしてくれているの』 それをのんでくれていればいいが、確たるものはない。 他の六人には玄関にいてもらうしかない。

「どうぞ座って下さい」

玄関を入ってすぐの台所にあるテーブルの椅子に掛けるように言った。
阿秀と此之葉が並んで椅子に掛ける。 阿秀の前に紫揺が座る。

「此之葉さん、昨日言ってくれてありがとう。 落ち着いて考えることが出来ました」

「紫さま・・・」

膝の上に置いていた手がテーブルにかかる。 目が潤んできているのが分かる。

「心配かけてごめんなさい」

此之葉に言うと阿秀に目を転じた。
普通なら、普通紫揺の歳であればこれから重大なことを言うのだ。 息を飲むとか、深く息を吸うとか、そういう間があっても良い筈であるが、紫揺はそうではなかった。 いともあっさりとそれを口にする。

「東の領土が紫を失いたくないのであれば、一つだけ方法があります」

「はい」

もう阿秀の顔が笑んでいるが、他の者は紫揺の言いようが分からない。 どういう事だと玄関の六人が紫揺を食い入るように見、此之葉はテーブルにかかっていた手に力を入れた。
阿秀の顔を見た紫揺。

「ずるい。 分かっていたんですか?」

「いいえ。 此処に残られることを選ばれればそれまでですから」

「阿秀? どういうこと?」

此之葉が問うが、他の六人も訳が分からない。 それぞれが誰を見ていいのかも分からない。
決して男六人が楽に居られることの出来る広い玄関ではない。 それでなくともおしくらまんじゅう状態で立っているのに、それぞれが身体を動かしたり顔を動かしたりしては均衡が崩れる。

「紫さまのお言葉を待ちましょう」

阿秀が此之葉に言う。 その顔が止められない笑みで満たされている。

「紫さま・・・」

何があるというのか、阿秀を見ていた目を紫揺に戻す。
紫揺が此之葉と一度目を合わせると再度阿秀を見る。

「紫がガザンを連れて東の領土に入ります。 東の領土の決まり事なり、領主さんの許可なりが必要であればその後に私は東の領土に行きます」

決してお願いではない。

「承知いたしました」

「え? わっ! あ“あ”―!!」

均衡が崩れた。 大の男が六人、玄関の上がり口の板間に倒れ込んだ。

「紫さま!」

此之葉が立ち上がって紫揺の横に膝まづいた。

「有難うございます、有難うございます」

潤んでいた目から大粒の涙が次々と零れてくる。

「昨日此之葉さんが言ってくれたからです。 夕べ大事なことを思い出したんです」

暖かいものはどこにあるのか。 自分がこの地に居なくてはならない理由は何なのか。
暖かいものは東の領土の地にある、自分を待ってくれている人にある、ガザンにある。 そしてこの数日、自分を心配してきてくれた七人の男たちと此之葉にある。 それ以外のどこにもない。

この地では、高校を卒業した後、自分は何もかも置いて東京に行こうとしていたではないか。 それを今更、誰を何を失いたくないと思うのだ。

迷ったのは、当たり前に過ごしてきた此処を離れる勇気がなかったからだ。
迷ったのは東の領土に行きたかったからだ。

男たちの倒れる音を声を聞いて、ガザンが奥の部屋から出て来て此之葉の匂いを嗅いでいる。 最初は頭を上げて紫揺を見ていた此之葉だったが、今は頭を下げて泣いている。 此之葉はガザンに気付いていない。
その様子を息を飲みじっと見ていた六人。 ガザンが顔を上げ六人を見た。

「わっ!」
「ぎゃ!」
「イタ! 動くな!」
「どけ! こっちに来る」
「押すな! 動けないだろ!」
「ああ? 俺が一番にどけばいいのかぁ?」

一番上にいたのは醍十であった。 下になった者達はさぞ重かっただろう。
それぞれが言いたいことを言っているが、紫揺が気付いた。 ガザンが吠えていない。 春樹にはあれ程吠えていたのに。
何故か、春樹に下心があったからだ。 だが春樹の下心など紫揺の知るところではない。

「皆さん、じっとしていて下さい。 その、臭いを嗅がれてもそのままで」

ガザンがノシリノシリと六人に近寄る。 全員の顔が引きつっている。 紫揺が立ち上がってガザンの横につく。

「ガザン、よく覚えて。 この人達は私たちの敵じゃないからね」

ガザンが一人ずつの臭いを確かめる。
ブフっと言って、いとも簡単にその場を離れると阿秀の後ろを通って奥の部屋に戻っていった。
六人の緊張が解け、一番下になっている者がその重みに耐えかねる。

紫揺の声に顔を上げ、涙をいっぱいにしていた此之葉が訳も分からずガザンを見送る。
椅子に戻ってきた紫揺。

「阿秀さんのことは、もう覚えていたみたいです。 それと朝のアレ、有難うございました」

「箱を置こうとしたら、犬・・・ガザンの姿が硝子戸に映ってどうしようかと思いました」

やっぱりか。 阿秀の臭いを感じ取って玄関に陣取ったのか。 紫揺がチラッと奥の部屋を見た。 たとえ覚えている阿秀の臭いとは言え、紫揺が招いたのではないから警戒したのだろう。 なかなかのボディーガード振りだ。

「これからどうすればいいんですか? 阿秀さんが領主さんにお伺いを立てるまで私はここに居ればいいんですか?」

「いいえ」

阿秀が首を振って続ける。

「紫さまは領土に入ると仰いました。 どうしてそれを領主が撥ねのけることが出来ましょうか。 紫さまのお言葉を許可するしないなどとは有り得ません。 紫さまがお願い事と仰られていたならばまた違いましたでしょうが」

阿秀が分かって言ったのだろう? という顔をしている。 だからお願いとは言わなかったのだろう? と。
たしかにそうであった。 紫揺が東の領土に行った時、そしてその前にこの家で領主とあった時のことを思い出したのだった。

領主はマツリに関すること以外は、何一つ紫揺が決めたことに反対はしなかった。 危険が生じることに対しては止められたが、伺いを立てればそれに対して応えていた。 お願いは伺いを立てると同じだと思った。 だからああいう上からの言い方にした。 何も知らなかった時、偉そうに領主に言っていたように。

「阿秀・・・」

遠慮気味に此之葉が声を掛けた。 いつの間にやら此之葉が男達を立たせようと悪戦苦闘していたが、もつれ合った男たちは立つことは出来ないようだった。

「・・・お前たち」


その後は紫揺が阿秀に付き添われ銀行に行き、全ての貯金を解約した。 僅かだが。
そして大家の家に行き、それまでの日割りの家賃を計算しようとした大家を止め、月払いに大層な色を付けた形で持っている金を全部支払った。 突然でもあるし長年世話になったのだから。 そして家の中の処分も頼んだのだから。 それにしても多すぎると大家が言うが、もう此処の金など要らない。 返してくる手を押しのけた。

水光熱を全て止め今日までの分を現金で支払う。 それは梁湶が受け持った。
だがその前に紫揺が電話をかけた。 相手は佐川と春樹だ。 特に佐川には礼を言っても言い尽くせない。
時間的に会社にいる佐川。 紫揺が電話をかけたのは紫揺の父親も務めていた会社だ、電話番号は分かる。
電話交換手が佐川に繋ぐ。

『紫揺ちゃん?』

佐川の声が紫揺の耳に届いた。

「おじさん、仕事中にごめんなさい」

『そんなことはないよ。 どうしたの? 今日あたり家を訪ねようと思っていたんだけど』

やはり心配をかけていたのだ。

「おじさん・・・。 この家を出ます」

『え?』

「おじさんとはもう連絡が取れなくなりますけど、元気にやっていきます」

『待って! どういうこと?!』

佐川の周辺に居た者が急に大声を出した佐川を見る。

「海外に・・・海外に行きます」

『海外? そんな伝手があるの?』

「流浪していた時に知り合いました」

あまり嘘はつきたくない。

『あ・・・』

紫揺が言っていた流浪をしていたということを思い出した。

『お相手さんは信用できる人?』

「はい」

『そうか。 紫揺ちゃんが認めた人か。 お父さんもお母さんも喜んでいるだろうな』

何か勘違いをしているようだが、取り敢えず「はい」 と答える。

『子供が生まれたら連絡をしてくれな』

やっぱり。 完全に国際結婚と思っている。 それで終わらせばいいのだろうが、終わらせられない性格だ。

「おじさん、違います。 考え方に賛同しただけです」

『え? 結婚じゃないの?』

「今はそんなこと考えられません」

『そうか。 そっか・・・うん、紫揺ちゃんの道を行くといいよ。 紫揺ちゃんの信じた道をおじさんは応援する』

「おじさん、ありがとうございます。 おじさんのことは一生忘れません」

『なんだよ、その遺言めいた言い方』

「おじさん・・・」

『困ったことがあったらいつでも言っておいで』

「おじさん・・・」

佐川はそれ以上紫揺の先のことは問わなかった。

『元気でいるんだよ』

「はい。 おじさんも」

そう言って電話は切られた。

佐川との会話と雲泥の違いで春樹の携帯にも連絡を入れた。

「先輩?」

『紫揺ちゃん!?』

スマホの画面には今までに見たこともない電話番号が示されていた。 無視しようかとも思ったが、次の職も決まらないままゴロゴロしていたから退屈しのぎに出た。 それが正解だったようだ。

「はい」

『どこにいるの? えっと、今からそこに行くよ。 どこ?』

「家にいます。 でも今から出ます」

『どこに?』

「海外です」

『え?』

「先輩にはお世話になりました」

『ちょ、ちょっと待って。 どういうこと!?』

「もう連絡はとれなくなります」

『だって、海外って言っても連絡くらいは・・・』

「取れない所なんです。 先輩、先輩には感謝しています。 あの、本当に有難うございました。 それじゃあ」

プツリと電話が切られた。 春樹がかけ直すが、何度かけても通話中になっている。 紫揺が指で一旦切っただけで、受話器は上げたままにしていたからだった。

親機を指でもう一度切るとすぐにメモを広げてその番号をプッシュする。
セノギが春樹から預かってきたという杢木の電話番号を書いたメモであった。 何故かそれは携帯番号ではなく家電の番号である。
それは完全に春樹の策であった。 杢木の携帯番号など教える必要はないという、杢木と紫揺をこれ以上親しくさせないための。 そしてそれはストライクだった。 紫揺と杢木が話すことは無かった。

「あ・・・杢木さんのお宅でしょうか」

『はい』

「藤滝紫揺と申しますが・・・」

『紫揺ちゃんかい?』

「おじさん!」

『元気にしてるかい? って、あれからどれ程も経ってないけど』

ワハハと電話口の向こうで笑っている。

「はい、お陰様で。 もう一度あの時のお礼を言いたくて。 おじさん本当にありがとうございました」

『あれくらい礼を言われることも無いよ』

「そんなことないです」

『ほら、じゃあ遊びにおいでよ。 まぁ、今すぐとは言わないけど、気候が良くなったら今度はゆっくりと海に出ようよ』

「有難うございます。 でもこれから海外に出ます。 もうこちらに戻ってくることは無いので、残念ながら」

『え? 嘘だろう?』

「本当なんです。 だから最後にもう一度おじさんにお礼を言いたくて」

『そうなのか・・・。 残念だな。 でもね紫揺ちゃん、おじさんは紫揺ちゃんと出会えて嬉しかったよ。 紫揺ちゃんのことを想っている人は他にも居るからね。 戻ってくる予定が無くても、何かあればいつでも帰っておいで』

「おじさん・・・有難うございます。 あの、杢木さんにもよろしくお伝えください」

指で親機を切った。

「紫さま・・・」

阿秀が言うが、紫揺が受話器を持ったままだ。 やっと目を閉じ受話器を戻すと電源を抜いた。

「連絡は終わりました」

この地で連絡を残したい人間がたった三人。 自分の歴史はなんと浅いことか。 何に誰にこだわっていたのだろうか。

それに知ってしまった。 自分は此の地の者ではなかった。 たとえ半分は此の地である父親の血を引いていようとも、自分は彼の地の者。 この地で生きてきた時は虚空でしかなかったのかもしれない。

母、早季の残していた言葉。 『お母さんの名前の由来と紫揺ちゃんの名前の由来も話すわ』 そう言っていた。 話してもらう前に別れが来てしまって聞けていない。 だが今なら分かる気がする。
早季、それは早くその季節が来ますように。 きっと早く迎えが来ますように。 それはその地へ行くということ。 行きたいということ。 そうではなかったのだろうか。
そして紫揺という名はいわずもながだろう。

東の領土で “紫さまの書” を読み直そう。 そして他の領土史も。 失っていた時を取り戻そう。
でも・・・

「私でいいんでしょうか・・・」

気弱に紫揺が言う。

「領土には、民には、紫揺さましか居られません」

紫ではない。 阿秀が紫揺と言った。

「・・・阿秀さん・・・ありがとう」

阿秀の気遣いが心に響く。
風呂敷に包んだ遺影と骨壺を手に取りバッグの中に入れた。
骨壺は東の領土の墓地に入れてもらう。 そして両親と祖父母の遺影だけは持っていきたいという紫揺の気持ちは分からなくもない。 だが領土には写真などというものはない。 隠し持つようにということで、阿秀が諾といった。

「ガザン、行こうか」

紫揺の横に座っていたガザンの頭をひと撫でする。
ガザンが立ち上がった。