孤火の森 第58回
『孤火の森』 目次
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海の民がやって来るのは、決まって海での困りごとを何とかしてほしいというものであった。 話の内容で薬草を渡す時もあったりはしたが、それだけでは治まらないこともあった。
そしてこの時、海の民から話を聞いた時の女王は、話しの中のあまりの惨状に『なんということ・・・』 と言い、森を出ることに時のローダルから反対をされながらも、海まで出向きアーギャンに対峙したということであった。
「アーギャンとて、海ならば海だけであったのならば、時の女王もアーギャンを抑えることをしなかったでしょう。 海の民が海に入ればアーギャンだけではなく、他にも命を脅かされるものは居るのですから。 海に生きるものと折り合っての海の民、四足と折り合っての山の民です。 ですがアーギャンは男たちが海に出たあと、幼子や母親がいる生活の中にまで入ってきました。 アーギャンは海陸ともに海の民を脅かし始めました。 時の女王はそこを危惧したのでしょう」
ゼライアの話は続き、時のローダルに反対された件(くだり)を聞き、サイネムが前ローダルから聞いたアーギャンの話しを鮮明に思い出した。
「アーギャンがどうかしたのか」
まだこの事はザリアンには話していなく、そのザリアンに任せるわけにはいかない。 ローダルとして話を聞いていくのは己の仕事だろうと立ち上がり、ゼライアに元の位置に座るようにと言い、その斜め前に座った。
「サイネムも知ってるのか?」
「お前にはまだ話せていない。 黙って聞いておけ」
「なんだよ、それ」
「そういう態度だから、未だにローダルの話を全て話せないのだろうが」
ジロリとザリアンを睨みつける。
やはりポポは変わらないようである。
「旦那も大変だな」
お頭が半分笑いながら言う。
まずは礼節から教えねばならない。 先が長いことにサイネムは何度溜息を吐いたことだろうか。 今も吐きたい気分だが今は前ローダルではなく、未熟なザリアンに代わり現ローダルとして話を進めなければならない。
サイネムが若頭に視線を合わす。
ゼライアに代わってサイネムが話を聞くということだろう、若頭が頷いてもう一つの質問をする。
「アーギャンのことはあとにするとして、ニッポニャンというところを知っているか?」
アーギャンとニッポニャン、この二つがあとで結びつくのだろうと、サイネムがニッポニャンと言われ考えるようにしている。
「ずっと東・・・この国から見れば南東にある国。 海を渡った・・・そうだな、月の満ち欠けから満潮になれば完全な島国となる、という国なのだが」
南東にある島国と聞いて思い当たるところがあったのだろう、サイネムが小さく何度か頷いている。
「ああ、聞いたことがある。 独自の文化と言葉や文字を持ち、その言葉と文字を持ちながらも共通の言葉と文字も使えるという。 ・・・たしか、誰もが髪と目の色は黒だと聞いたような気がするが」
若頭が頷く。
「そう。 俺はそのニッポニャンから来た。 名は安智(あんち)という」
髪の毛と瞳が黒が故に、話に聞いた白銀の髪の色とブルートパーズ色の瞳を持つ森の民とは語れなかったが、森の民の住む山に入ることは出来た。 黒い瞳と髪の色から山の民として振る舞うことが出来た。
だが今になって思う。 森の民と詐称しなくて良かったと。 見た目もそうであるが、森の民の聡明さ、それにまず第一に呪さえも使えないのだから、瞬殺で捕らえられただろう。
「え!?」
大きく声を上げたのはザリアン。 ゼライアは驚きに目を大きく開け、サイネムは僅かに眉を動かしただけである。
「どういうことだ」
サイネムの問に、まるで自嘲するかのように若頭が鼻から息を吐いた。
「騙してて悪かった」
サイネムに言うと次にゼライアに向かって目顔を送る。 そして最後にザリアンにも。
「まぁ、おれもすっかり騙されてたがよぉ」
若頭に助け舟を出したつもりだろうお頭が言い、そして付け加える。
「ま、考えりゃあ、オメーは一言も山の民だとは言ってなかったがな」
たしかにそうだ。 サイネムとて若頭から自分はこの国の山の民だとは一言も聞いていない。 それに若頭が言ったように騙されたとは鼻っから思ってもいない。 どこの民であろうとも、若頭は女王になるゼライアと、自分の跡をとるローダルであるザリアンを育ててくれた一人であるのだから。
「いや、お頭は俺が山の民でないことを見破ってましたから」
「だからって、そんなずっと遠くから来てるとは思いもしなかったぜ、せいぜい海の民かと思ってたくらいでよぉ。 まぁ、聞いた時は驚いたのなんのって」
己の一生で他の国の人間と話をするなんて思いもしていなかったのに、群れに引き入れたのだから。
「だがよぉ、事情は飲み込めた」
「事情とはアーギャンのことか」
さすがに森の民だ、聡い。 若頭が深く頷く。
「ニッポニャン・・・ニッポニャンの中で、そうだな、ここで言うところの州に値するか。 藩というのだが、俺の郷の藩の海にアーギャンが出た。 郷ではアーギャンではなく海獣と呼んでいるのだが出始めたのは何十年も前。 それこそ漁に出た者が何人も喰われている。 遊ばれて・・・まだ小さな子が命を落としたとも聞いた」
「遊ばれて?」
「俺は見たわけではないが、そう聞いた。 医者がそう判断したそうだ。 喰われたわけではないが、咥えて投げる為だろう、腹の肉や手足の肉が削げていたということらしい」
若頭の言うことに引っかかりを感じた。 このまま話を聞いていてもそれは解決されないだろう。
「待ってくれ、気になることが二つ。 まず一つ、アーギャンは海の中だけではなく、陸にも上がってくる。 それなのにその海の陸に近寄ったということか」
「いや、郷ではアーギャンは海の中にある岩場に上がっていた。 陸というか、浜にはもう長い間、上がってきたことは無かった。 郷の海辺はちょっとした陸並みの岩場が多くて浜にも岩場が多い。 郷の者たちも不用意に浜に近づくことは無かったが、その時は浜に上がっていたそうだ。 岩で見えなかったアーギャンが居た、ということだった」
「長い間上がってきたことは無かった、ということは昔は上がってきていたということか?」
「ああ。 海の中ではこちらは不利だが、浜に上がってしまえばこちらに利がある。 その昔にかなりやり合って、アーギャンが海の中の岩場に引いていったそうだ。 それからは浜には上がってきていなかった」
「それがどうしてか、また浜に上がってきた、ということか」
「そうみたいだ。 何が切っ掛けとか、そういうものがあったのかさえ分からないが・・・多分、人間側の気が緩んでいたのに気付いたのかもしれない」
「そういうことか・・・。 ではもう一つ、遊ばれたというのは初めてのことか?」
いいや、と若頭が首を振る。
「俺が小さな頃にあったとしても親が見せなかっただろうし、大人とみなされる頃にはもうこちらに来ていた。 一度も見たことは無いが昔はあったそうだ」
ゼライアが若頭の手を見た。 両手は固く握られ、怒りにだろうか小刻みに震えている。 そして布の巻かれている右手の拳からは血が染み出してきている。
若頭の話に顔を歪めているザリアンは気付いていないようである。 そっとザリアンを呼ぶ。 呼ばれたザリアンがゼライアを見ると、若頭の右手に目線を送ったのが分かった。 ゼライアの視線につられザリアンが若頭の右手を見て何を言いたいかが分かった。 立ち上がり若頭の前に座るとその手を取る。
「オレのことは気にしなくていいから話を続けて」
言い置くとザリアンが布を解いていく。
そうされて初めて血がにじんでいるのに若頭自身が気付いた。 きっと傷の具合を見てくれるのだろう。 岩に何度も打ちつけた拳を。 そしてその後も岩に当たり散らしていた掌を。
「遊ばれてというのは・・・」
サイネムが顎に手を当て記憶をたどるが、どこにもそんな言葉を記憶していない。
「聞いたことがない、な」
それはさっき話していた海の民からの話しからだろうかと、若頭が訊くと、難しい顔をして考えていたサイネムが答える。
「いや、確かにアーギャンのことはその時初めて聞いたということだったらしい。 女王はアーギャンに対峙し、それなりのことが分かったということだったが、ローダルにそんな力はない、女王とて細かいところまでは分からない。 女王とローダルはその座を次代に受け継がせた後に、今後海の民が困らぬようにと移動してきたアーギャンの足跡を辿って歩いたということだったが、まだ大人になりきっていないアーギャン同志が戯れることがあった程度で、遊ぶというところを見たということは聞いていな―――」
サイネムがあと一言 “い” を言い終えるか終わらないところにザリアンの声が重なる。
「うわっ! 若頭何やったんだよ!」
若頭の拳は血とただれだけではなかった。 一部から骨が見えているではないか。
声を出すタイミングを窺うということが出来ないザリアンに一喝しようとしかけたサイネムだったが、若頭の拳を見て眉根を寄せた。
「その傷はどうした」
「ああ、ちょっとな。 大したことは無い」
「どこがだよ。 待ってろよ、いま薬草を取ってくるから。 あっと、話は止めておいてくれよ。 オレも聞かなくっちゃだからな」
この部屋にあるちょっとした傷を対処する薬草では間に合わない。 立ち上がるとすぐに獣の群れの仲間たちが建てた家を出て行った。
この家はいわゆる集会用に建てた少し広めの家であるが、これから森の民の人数が増えるとなるとこの家では手狭になるだろう。
「骨や筋に異常はないか?」
「ああ、ちゃんと動く。 心配には及ばない」
「いったい何をすればそうなるのか」
呆れたようにサイネムが言うが、思い当たることが無くはない。
「さっきの話し」
サイネムの声に若頭が落としていた自分の拳から視線を上げる。 視線の先のサイネムはまだ若頭の傷に視線を落としたままである。
「見たわけではなく聞いたと言っていたが、それはいつの話だ。 いつ聞いた」
まだ顔を下に向けているサイネムが目だけで若頭を見る。
「最近」
サイネムから視線を外し真っ直ぐと前を見る。 視界の中に眉尻を垂れているゼライアが映り込んできた。 ゼライアもこの傷を心配してくれているのだろう。
若頭の短い答えにサイネムが顔を上げる。
「ということは、そのニッポニャンというところから誰か来たということか」
お頭が片眉を上げた。 若頭との話の中でそんな話、アーギャンが人間を弄(もてあそ)んだという話は出てこなかったし、そこは何も知らないお頭との間の話では出てこなかったにしても、ニッポニャンから誰か来たとは聞いていなかったからだ。
お頭から送られてくれる疑問を含んだ視線に、大きく息を吐いた若頭が諦めたように話す。
「ああ、俺の弟だ」
それを聞いてサイネムではなくお頭が声を上げる。
「弟だとぉ? オメー、そんなこと一言も言わなかったじゃねーか」
お頭の顔を見て一つ頷いてから話す。
「この間、街の市に出た時に。 俺もまさか弟が来てるなんて知らなくて・・・最初、兄貴って呼ばれても返事もしなかった。 まぁ、後ろから言われたってこともあったけど、次に正面から見た時にもすぐには分からなかった。 俺がこっちに来てる間に声も変わって、身体も大きくなって、顔も子供のそれじゃあなくなってたんで」
そう言われると、この若頭を知ってもう十年以上が経っている。 いや、ポポとブブがこのサイネムに連れてこられた時にはもう群れに居た。 ということは十五年は経っているということになる。
若頭の年齢から考えると十五年も経っていれば弟と言えど、もう立派な大人になっていただろう。 すぐに分からずとも仕方のないことだ。
「何をしに?」
「オレが長くこっちにいたから心配になったみたいだ。 弟の下にまだもう一人弟が居るんだが、それが一人前の歳になったからって向こうを出てきたらしい。 手伝うことは無いかって、な」
「ほぅ、それは兄思いなことだ」
口ではそう言いながらも “手伝う” と言ったことに重きを置いている。
まだ若頭は全てを話していない。 わざわざこんな離れた地までやって来て弟に心配をされるほど長く居る。 その弟が更に下の弟を置いてまでやって来た。
そのなかでアーギャンの話し。 それも女王であるゼライアの前で。 弟が何を手伝おうと言っているのかは分からないが、若頭がここにやって来た意味は想像できる。 ただそれがどこまでなのか。
サイネムと若頭の会話に耳を傾けているお頭。 耳を傾けながらも心の内で考える。
自分のように自ら群れを出てきたのならまだしも若頭はそうではない。 郷の民の為、森の女王に会うためにやってきたと言っていた。 決して弟との縁を切り来たわけではない。
「なんで連れて来なかったんでぃ」
「え?」
「弟だよ。 その時に洞に連れてくればよかっただろうが。 あいつらにゃあ、何とでも誤魔化せただろうによ」
「いや・・・さすがにそれは」
弟も群れから出てきたようだと言って連れて来ても良かったのだろうが、これ以上嘘を重ねたくなかった。 それに弟は山の民のイロハを分かっていない。 自分も山の民のこともこの国でのあり方も何も知らなかったが、それでもその時は大人と扱われる年齢になったところだった。 まだ子供扱いされても許されるだろうと物知らずで通すことが出来たが、弟はどこから見てももういっぱしの大人だ、すぐにおかしいと思われただろうと言う。
若頭の昔話にお頭がその頃を思い出す。
「そういやぁ、そうだったか。 オメーは何も知らなかったっけか。 それなのに物覚えは早えーし、理解能力があるってのか? 一つ言えば十は分かったな。 あんときゃどこの民だか知らねーが、あんまりにも知らなすぎると思ってたんだが、そういうことだったのかい」
俊敏性は教えずとも最初からあった、それは山で生きるに必要なことだった。 だからこの群れが続くようなら、たとえ山の民の生まれでなくとも跡をとらせようと考えた。
「ザリアンとは全く違うな、羨ましいことだ」
弟が来たということだが、お頭と違いニッポニャンから誰が来ていてもサイネムとしてはそれが問題ではない。 その理由、そこが問題であって、今はただ若頭の話に疑問を残さず、話の内容を全て理解したいと考えている。
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孤火の森(こびのもり) 第58回
海の民がやって来るのは、決まって海での困りごとを何とかしてほしいというものであった。 話の内容で薬草を渡す時もあったりはしたが、それだけでは治まらないこともあった。
そしてこの時、海の民から話を聞いた時の女王は、話しの中のあまりの惨状に『なんということ・・・』 と言い、森を出ることに時のローダルから反対をされながらも、海まで出向きアーギャンに対峙したということであった。
「アーギャンとて、海ならば海だけであったのならば、時の女王もアーギャンを抑えることをしなかったでしょう。 海の民が海に入ればアーギャンだけではなく、他にも命を脅かされるものは居るのですから。 海に生きるものと折り合っての海の民、四足と折り合っての山の民です。 ですがアーギャンは男たちが海に出たあと、幼子や母親がいる生活の中にまで入ってきました。 アーギャンは海陸ともに海の民を脅かし始めました。 時の女王はそこを危惧したのでしょう」
ゼライアの話は続き、時のローダルに反対された件(くだり)を聞き、サイネムが前ローダルから聞いたアーギャンの話しを鮮明に思い出した。
「アーギャンがどうかしたのか」
まだこの事はザリアンには話していなく、そのザリアンに任せるわけにはいかない。 ローダルとして話を聞いていくのは己の仕事だろうと立ち上がり、ゼライアに元の位置に座るようにと言い、その斜め前に座った。
「サイネムも知ってるのか?」
「お前にはまだ話せていない。 黙って聞いておけ」
「なんだよ、それ」
「そういう態度だから、未だにローダルの話を全て話せないのだろうが」
ジロリとザリアンを睨みつける。
やはりポポは変わらないようである。
「旦那も大変だな」
お頭が半分笑いながら言う。
まずは礼節から教えねばならない。 先が長いことにサイネムは何度溜息を吐いたことだろうか。 今も吐きたい気分だが今は前ローダルではなく、未熟なザリアンに代わり現ローダルとして話を進めなければならない。
サイネムが若頭に視線を合わす。
ゼライアに代わってサイネムが話を聞くということだろう、若頭が頷いてもう一つの質問をする。
「アーギャンのことはあとにするとして、ニッポニャンというところを知っているか?」
アーギャンとニッポニャン、この二つがあとで結びつくのだろうと、サイネムがニッポニャンと言われ考えるようにしている。
「ずっと東・・・この国から見れば南東にある国。 海を渡った・・・そうだな、月の満ち欠けから満潮になれば完全な島国となる、という国なのだが」
南東にある島国と聞いて思い当たるところがあったのだろう、サイネムが小さく何度か頷いている。
「ああ、聞いたことがある。 独自の文化と言葉や文字を持ち、その言葉と文字を持ちながらも共通の言葉と文字も使えるという。 ・・・たしか、誰もが髪と目の色は黒だと聞いたような気がするが」
若頭が頷く。
「そう。 俺はそのニッポニャンから来た。 名は安智(あんち)という」
髪の毛と瞳が黒が故に、話に聞いた白銀の髪の色とブルートパーズ色の瞳を持つ森の民とは語れなかったが、森の民の住む山に入ることは出来た。 黒い瞳と髪の色から山の民として振る舞うことが出来た。
だが今になって思う。 森の民と詐称しなくて良かったと。 見た目もそうであるが、森の民の聡明さ、それにまず第一に呪さえも使えないのだから、瞬殺で捕らえられただろう。
「え!?」
大きく声を上げたのはザリアン。 ゼライアは驚きに目を大きく開け、サイネムは僅かに眉を動かしただけである。
「どういうことだ」
サイネムの問に、まるで自嘲するかのように若頭が鼻から息を吐いた。
「騙してて悪かった」
サイネムに言うと次にゼライアに向かって目顔を送る。 そして最後にザリアンにも。
「まぁ、おれもすっかり騙されてたがよぉ」
若頭に助け舟を出したつもりだろうお頭が言い、そして付け加える。
「ま、考えりゃあ、オメーは一言も山の民だとは言ってなかったがな」
たしかにそうだ。 サイネムとて若頭から自分はこの国の山の民だとは一言も聞いていない。 それに若頭が言ったように騙されたとは鼻っから思ってもいない。 どこの民であろうとも、若頭は女王になるゼライアと、自分の跡をとるローダルであるザリアンを育ててくれた一人であるのだから。
「いや、お頭は俺が山の民でないことを見破ってましたから」
「だからって、そんなずっと遠くから来てるとは思いもしなかったぜ、せいぜい海の民かと思ってたくらいでよぉ。 まぁ、聞いた時は驚いたのなんのって」
己の一生で他の国の人間と話をするなんて思いもしていなかったのに、群れに引き入れたのだから。
「だがよぉ、事情は飲み込めた」
「事情とはアーギャンのことか」
さすがに森の民だ、聡い。 若頭が深く頷く。
「ニッポニャン・・・ニッポニャンの中で、そうだな、ここで言うところの州に値するか。 藩というのだが、俺の郷の藩の海にアーギャンが出た。 郷ではアーギャンではなく海獣と呼んでいるのだが出始めたのは何十年も前。 それこそ漁に出た者が何人も喰われている。 遊ばれて・・・まだ小さな子が命を落としたとも聞いた」
「遊ばれて?」
「俺は見たわけではないが、そう聞いた。 医者がそう判断したそうだ。 喰われたわけではないが、咥えて投げる為だろう、腹の肉や手足の肉が削げていたということらしい」
若頭の言うことに引っかかりを感じた。 このまま話を聞いていてもそれは解決されないだろう。
「待ってくれ、気になることが二つ。 まず一つ、アーギャンは海の中だけではなく、陸にも上がってくる。 それなのにその海の陸に近寄ったということか」
「いや、郷ではアーギャンは海の中にある岩場に上がっていた。 陸というか、浜にはもう長い間、上がってきたことは無かった。 郷の海辺はちょっとした陸並みの岩場が多くて浜にも岩場が多い。 郷の者たちも不用意に浜に近づくことは無かったが、その時は浜に上がっていたそうだ。 岩で見えなかったアーギャンが居た、ということだった」
「長い間上がってきたことは無かった、ということは昔は上がってきていたということか?」
「ああ。 海の中ではこちらは不利だが、浜に上がってしまえばこちらに利がある。 その昔にかなりやり合って、アーギャンが海の中の岩場に引いていったそうだ。 それからは浜には上がってきていなかった」
「それがどうしてか、また浜に上がってきた、ということか」
「そうみたいだ。 何が切っ掛けとか、そういうものがあったのかさえ分からないが・・・多分、人間側の気が緩んでいたのに気付いたのかもしれない」
「そういうことか・・・。 ではもう一つ、遊ばれたというのは初めてのことか?」
いいや、と若頭が首を振る。
「俺が小さな頃にあったとしても親が見せなかっただろうし、大人とみなされる頃にはもうこちらに来ていた。 一度も見たことは無いが昔はあったそうだ」
ゼライアが若頭の手を見た。 両手は固く握られ、怒りにだろうか小刻みに震えている。 そして布の巻かれている右手の拳からは血が染み出してきている。
若頭の話に顔を歪めているザリアンは気付いていないようである。 そっとザリアンを呼ぶ。 呼ばれたザリアンがゼライアを見ると、若頭の右手に目線を送ったのが分かった。 ゼライアの視線につられザリアンが若頭の右手を見て何を言いたいかが分かった。 立ち上がり若頭の前に座るとその手を取る。
「オレのことは気にしなくていいから話を続けて」
言い置くとザリアンが布を解いていく。
そうされて初めて血がにじんでいるのに若頭自身が気付いた。 きっと傷の具合を見てくれるのだろう。 岩に何度も打ちつけた拳を。 そしてその後も岩に当たり散らしていた掌を。
「遊ばれてというのは・・・」
サイネムが顎に手を当て記憶をたどるが、どこにもそんな言葉を記憶していない。
「聞いたことがない、な」
それはさっき話していた海の民からの話しからだろうかと、若頭が訊くと、難しい顔をして考えていたサイネムが答える。
「いや、確かにアーギャンのことはその時初めて聞いたということだったらしい。 女王はアーギャンに対峙し、それなりのことが分かったということだったが、ローダルにそんな力はない、女王とて細かいところまでは分からない。 女王とローダルはその座を次代に受け継がせた後に、今後海の民が困らぬようにと移動してきたアーギャンの足跡を辿って歩いたということだったが、まだ大人になりきっていないアーギャン同志が戯れることがあった程度で、遊ぶというところを見たということは聞いていな―――」
サイネムがあと一言 “い” を言い終えるか終わらないところにザリアンの声が重なる。
「うわっ! 若頭何やったんだよ!」
若頭の拳は血とただれだけではなかった。 一部から骨が見えているではないか。
声を出すタイミングを窺うということが出来ないザリアンに一喝しようとしかけたサイネムだったが、若頭の拳を見て眉根を寄せた。
「その傷はどうした」
「ああ、ちょっとな。 大したことは無い」
「どこがだよ。 待ってろよ、いま薬草を取ってくるから。 あっと、話は止めておいてくれよ。 オレも聞かなくっちゃだからな」
この部屋にあるちょっとした傷を対処する薬草では間に合わない。 立ち上がるとすぐに獣の群れの仲間たちが建てた家を出て行った。
この家はいわゆる集会用に建てた少し広めの家であるが、これから森の民の人数が増えるとなるとこの家では手狭になるだろう。
「骨や筋に異常はないか?」
「ああ、ちゃんと動く。 心配には及ばない」
「いったい何をすればそうなるのか」
呆れたようにサイネムが言うが、思い当たることが無くはない。
「さっきの話し」
サイネムの声に若頭が落としていた自分の拳から視線を上げる。 視線の先のサイネムはまだ若頭の傷に視線を落としたままである。
「見たわけではなく聞いたと言っていたが、それはいつの話だ。 いつ聞いた」
まだ顔を下に向けているサイネムが目だけで若頭を見る。
「最近」
サイネムから視線を外し真っ直ぐと前を見る。 視界の中に眉尻を垂れているゼライアが映り込んできた。 ゼライアもこの傷を心配してくれているのだろう。
若頭の短い答えにサイネムが顔を上げる。
「ということは、そのニッポニャンというところから誰か来たということか」
お頭が片眉を上げた。 若頭との話の中でそんな話、アーギャンが人間を弄(もてあそ)んだという話は出てこなかったし、そこは何も知らないお頭との間の話では出てこなかったにしても、ニッポニャンから誰か来たとは聞いていなかったからだ。
お頭から送られてくれる疑問を含んだ視線に、大きく息を吐いた若頭が諦めたように話す。
「ああ、俺の弟だ」
それを聞いてサイネムではなくお頭が声を上げる。
「弟だとぉ? オメー、そんなこと一言も言わなかったじゃねーか」
お頭の顔を見て一つ頷いてから話す。
「この間、街の市に出た時に。 俺もまさか弟が来てるなんて知らなくて・・・最初、兄貴って呼ばれても返事もしなかった。 まぁ、後ろから言われたってこともあったけど、次に正面から見た時にもすぐには分からなかった。 俺がこっちに来てる間に声も変わって、身体も大きくなって、顔も子供のそれじゃあなくなってたんで」
そう言われると、この若頭を知ってもう十年以上が経っている。 いや、ポポとブブがこのサイネムに連れてこられた時にはもう群れに居た。 ということは十五年は経っているということになる。
若頭の年齢から考えると十五年も経っていれば弟と言えど、もう立派な大人になっていただろう。 すぐに分からずとも仕方のないことだ。
「何をしに?」
「オレが長くこっちにいたから心配になったみたいだ。 弟の下にまだもう一人弟が居るんだが、それが一人前の歳になったからって向こうを出てきたらしい。 手伝うことは無いかって、な」
「ほぅ、それは兄思いなことだ」
口ではそう言いながらも “手伝う” と言ったことに重きを置いている。
まだ若頭は全てを話していない。 わざわざこんな離れた地までやって来て弟に心配をされるほど長く居る。 その弟が更に下の弟を置いてまでやって来た。
そのなかでアーギャンの話し。 それも女王であるゼライアの前で。 弟が何を手伝おうと言っているのかは分からないが、若頭がここにやって来た意味は想像できる。 ただそれがどこまでなのか。
サイネムと若頭の会話に耳を傾けているお頭。 耳を傾けながらも心の内で考える。
自分のように自ら群れを出てきたのならまだしも若頭はそうではない。 郷の民の為、森の女王に会うためにやってきたと言っていた。 決して弟との縁を切り来たわけではない。
「なんで連れて来なかったんでぃ」
「え?」
「弟だよ。 その時に洞に連れてくればよかっただろうが。 あいつらにゃあ、何とでも誤魔化せただろうによ」
「いや・・・さすがにそれは」
弟も群れから出てきたようだと言って連れて来ても良かったのだろうが、これ以上嘘を重ねたくなかった。 それに弟は山の民のイロハを分かっていない。 自分も山の民のこともこの国でのあり方も何も知らなかったが、それでもその時は大人と扱われる年齢になったところだった。 まだ子供扱いされても許されるだろうと物知らずで通すことが出来たが、弟はどこから見てももういっぱしの大人だ、すぐにおかしいと思われただろうと言う。
若頭の昔話にお頭がその頃を思い出す。
「そういやぁ、そうだったか。 オメーは何も知らなかったっけか。 それなのに物覚えは早えーし、理解能力があるってのか? 一つ言えば十は分かったな。 あんときゃどこの民だか知らねーが、あんまりにも知らなすぎると思ってたんだが、そういうことだったのかい」
俊敏性は教えずとも最初からあった、それは山で生きるに必要なことだった。 だからこの群れが続くようなら、たとえ山の民の生まれでなくとも跡をとらせようと考えた。
「ザリアンとは全く違うな、羨ましいことだ」
弟が来たということだが、お頭と違いニッポニャンから誰が来ていてもサイネムとしてはそれが問題ではない。 その理由、そこが問題であって、今はただ若頭の話に疑問を残さず、話の内容を全て理解したいと考えている。